top of page

「愛は踏み出す」

ルカの福音書 10章25-37節


  1. 聖書の読み方

今朝は「良きサマリア人」として知られている箇所です。後ほど、このたとえを話されたイエスさまのことばを見ていきますが、この有名な話には導入部分があります。それは、朗読を開始した25節です。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」。この律法の専門家は「イエスを試みようとして」問いかけたとあるので、本心から聞いていないことは明らかです。質問を受けたイエスさまは、「あなたは、聖書をどのように読んでいるのか」と問い返しておられます。


私たちが、聖書の読み方を間違えたら、まずい結果を招きます。反対に、正しい読み方をすれば、良い結果をもたらします。礼拝では、全年齢層が同じみことばを聞きます。これは他の場所やアトラクションでは考えられません。ジェットコースターには身長や体調の制限がありますし、大人がお子様ランチを頼むこともできません。通常は年齢に応じた話や食べ物がふさわしいのですが、聖書はそうではありません。話し方や言葉の選択は違いますが、教会で行われている教会学校、入門クラス、礼拝ではみんなで同じものを味わいます。これは特殊なことですし、すごいことだと思いませんか。また、それぞれの会を導くリーダー、話し手の方々が祈り、深く考え、たくさん準備し、当日は緊張を乗り越えてお話しくださいます。これらに共通している目的は「聖書の読み方を間違えない」ことです。教える側も、聴く側も聖書を正しく受け取ることが大切です。私が気を付けていることの一つは、「聖書は福音、グッドニュースである」ということです。先日も一緒に考えましたが、聖書はグッドアドバイスではありません。「あなたが〇〇をすれば、救われますよ」と条件付きであれば、良き知らせではありません。そのアドバイス通りにできないこともありますし、アドバイスをもらうのが遅すぎたということもあるからです。たとえば、私が川で溺れているとき、「今日は流れが強いから泳がない方がいいよ」「ミスターマックスに質のいい浮き輪があるから買っておくといいよ」というのはまったく役立ちません。たとえそれが100%正しくても、危機の時にグッドアドバイスをもらっても意味がありません。同じように、聖書もグッドアドバイスとして読んでしまうとマズいです。せっかく、神が恵みによって救おうとしておられるのに、私たちが間違えて読んでいたら役にも立たず、救われることもないからです。


さて、ここで律法学者が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と質問すると、イエスさまは「あなたはどう読んでいますか」と聞き返されました。「あなたは何をしたらいいと思いますか」ではないのですね。聖書の読み方が問われています。よく、「質問を質問で返すなんてちょっと卑怯」と言われたりもしますが、イエスさまはしばしばこのような答え方、返し方をされます。私たちによく考えさせるためです。そして、この学者の答えは正解でした。旧約聖書にも新約聖書にも出て来るみことばを暗記して答えています。イエスさまは「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」(28節)と言われます。彼は、それに対して「私の隣人とはだれですか」と聞き返しました。これも「自分が正しいことを示そうとして」聞いています。つまり、「あなたは永遠のいのちに至る命令をよく知っており、それを行ってもいるね」とイエスさまから言ってほしかったのです。彼にとって聖書はグッドアドバイスの書物でした。そこに書いてある命令を行うことが大事だと考え、実行してきたのです。


2. 通りかかった3人

そんな彼に話されたのがこの「良きサマリア人」のたとえ話しです。ある人が強盗に襲われ、半殺しにされてしまいます。場所は「エルサレムからエリコへ下る道」で、標高差1,200メートルほどある、急な下り坂だったようです。岸壁がそびえ立ち、強盗が潜むには格好のスポットでした。「アドミムの坂(直訳:血の坂)」(ヨシュア18:17)と呼ばれる恐怖の坂道です。そこへ祭司が通りかかりますが、見て反対側を通過し、次にレビ人が来たが同じように反対側を通り過ぎて行きます。次にサマリア人が通ると、倒れている人を見てかわいそうに思い、手厚く介抱しました。


祭司とは、聖書的、信仰的、宗教的にもっとも高い地位にある人です。聖書に書かれてあることに関して模範となるべき人です。その祭司は「見て、反対側を通り過ぎて」行きました。旧約聖書にある「死人に触れる者は…七日間汚れる」(民数記19:10)の規定から、死んでいそうなこの人を避けたのかもしれません。そうであれば、この祭司は「聖書に従って」倒れている人を無視したことになります。次にあるのはレビ人。彼も礼拝のために仕える特別な仕事をする部族でした。人一倍、聖さには敏感なはずです。いつも礼拝を守り、時には指導する側に立って、おごそかに奉仕していたはずです。しかし、倒れている人を見ても反対側を通過しました。急ぎの仕事があったのかもしれません。とにかく、足を止め、手を差し伸べることをしませんでした。ある統計によると、人が教会に来るきっかけの一番は「クリスチャンである友人、知人、家族に誘われたから」です。これは紙媒体のトラクトやスマホの情報よりもはるかに多い割合です。

そして、人が教会から離れるきっかけで一番多いのは何だか想像ができますか? 聖書の教えや教義、奉仕や献金、人との交わり・・・そういったものではないのです。実に、人が教会から離れる要因のダントツ第一位は「クリスチャンの言動につまずいたから」だそうです。聖書の教えは素晴らしいのに、クリスチャンの言動からは素晴らしさを感じない。牧師の言っていることは同意するのに、生活を見ていたら失望する。そういったことで、人は離れて行くそうです。私たちは、鋭い分析を突き付けられているのですね。まさに、ここに登場した祭司、レビ人の姿です。彼らの教え、立場は崇高で聖書的であったかもしれません。しかし、人生や暮らしの中で聖書の魅力が発揮されない点に失望するのです。


最後にやって来たのはサマリア人。わざわざ人種を指定しているのは、当時ユダヤ人とサマリア人は相当な敵対関係にあったからです。助ける恩義も縁も義務もなかった間柄。それにもかかわらず、強盗に襲われた人を助けたのは、普段神殿で仕え、聖書を暗記している祭司や礼拝で奉仕しているレビ人ではなく、サマリア人でした。よく見ると、このサマリア人は「次の日」まで彼のそばにいて手当てをしています。その日の用事もキャンセルして、襲われた人を最優先してくれたのですね。そして、翌日には2デナリを宿屋に置いて出発します。最近、この地方で当時の宿屋の看板が発掘され、一泊が1/32デナリと書かれていたそうです! 換算すると彼が置いて行った2デナリは二か月分の宿代。とにかく、破格の対応であることがわかります。そして、結びにイエスさまは「三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」(36節)と聞かれます。

彼は答えました。「その人にあわれみ深い行いをした人です」(37節)。意地を張って「いや、私もかわいそうと思ったことはあります」とは言わず、イエスさまの話された内容をよく捉えて答えたのです。それを受けてイエスさまが「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われたのがこの個所の最後の会話です。この律法学者は賢い人でした。聖書をよく知り、イエスさまと渡り合ってやり取りができるほどの人物です。その彼が、結びの「あなたも行って同じようにしなさい」をどのように受け取ったでしょう。「強盗に襲われた人がいそうなところはどこですか?」「どこまで同じようにしたらいいのですか?」としつこく尋ねたでしょうか。おそらく、この人はサマリア人のした破格の行動に驚き、あきれたはずです。聖書通りのことを行ったり、礼拝の奉仕をしたことはあっても、ここまであわれみ深い行動を取ったことがなく、ましてや敵対するサマリア人にしようとしたこともなかったはずです。実際、律法学者たちは律法を知らない人々のことを「罪人」と呼んでいました。彼らにとって「隣人ではない」ことは明らかです。


M.L.キング牧師は暗殺される少し前に、ここからメッセージをしています。そこには①「この人を助けるために立ち止まったら、私はどうなるだろうと考える人」、②「この人を助けるために立ち止まらなかったら、この人はどうなるだろうと考える人」の違いがあると述べています。「私」を考えるのか、「この人」を考えるのか。関わっていたら大変なことになると自分のことを思うのか、関わらなかったらもっと大変なことになるとこの人のことを思うのか。「行って同じようにしなさい」と語られたら、「この人」のことを考えて生きるように導かれます。


3. 倒れている人

しかし、です。私たちも倒れている人を助けよう、持っているお金で施しをしよう(もちろん、これも大事なことです!)として、このメッセージを受け止めるならば、それはグッドアドバイスでしかありません。良い行いに励みましょうという道徳、対立する関係を乗り越えようというという和平の話です。しかし、それでは福音になりません。福音とは、神が私たちのためにしてくださった良いことの知らせ、グッドニュースだからです。


福音として聞くために、最初の彼の質問に戻りましょう。はじめに「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と質問しています。「何をしたら」というのは、彼のなす行動です。学者であるこの人は、自分がすることによって神に認められる、何かをすれば救いを獲得できると考えていました。そして、そんな彼に対するイエスさまの答えは「あなたはどう読んでいますか」でした。イエスさまは、彼の聖書の読み方と彼が自分を正しい者と考えていたことを、思い直してほしかったのです。イエスさまの意図は、彼にとって聖書のメッセージをグッドアドバイスからグッドニュースにすることでした。イエスさま自身、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言って宣教を開始しておられます。私たちが信じるのは「福音」です。私たちが自分の行いによって救われるという方法や方向を改め、神がしてくださったことを受け入れることで救われると知るのです。神が私たちに何をしてくださったのか、神はどのような方かを表しているのは、最後に出て来るサマリア人になりますよね。助ける義務もなく、普段の関係は破綻していた相手であったにもかかわらず、近寄って油を塗り、ひと晩じゅう介抱してくれました。この個所を私たちは「どう読んでいますか」と問われているのです。まず自分こそ、この競争の激しい世の中で倒れている者、急な坂でつまずいて傷ついている者、人に踏みにじられ、時にははぎ取られても黙るしかない者、自力で解決することも、頼れる親類もおらずうずくまっている者・・・もうダメだとあきらめていたところに、イエス・キリストは近寄り、手当てをし、窮地から救い出してくださった。実に、倒れていた者は自分だったのが出発点です。


人は、どのようにしたら新しい人に生まれ変わることができるのでしょうか。今日の個所でいえば、どうしたら、この学者は敵対者をも隣人とし、あわれみ深く生きるよう変えられるのでしょうか。それは命令を聞いて従うからできるようになるのではありません。自分が倒れて助けられた経験をして初めて、人を助けたいというあわれみの思いを抱き、それを行動に移せるようになります。人は、神にふれられて、初めて生まれ変わるのだからです。


事業の成功を求めていた、健康を求めていた、幸せを求めていた・・・その途上で誰もがつまずきます。しかし、その答えはイエス・キリストにあります。だれもキリストのもとに来るまでは、飢え渇き、倒れ、傷つくのです。しかし、だれでもキリストにふれられるなら、その人は新しくされます。キリストが与えてくださるもの、キリストのしてくださることこそ、私たちの宝であり、福音です。■


最新記事

すべて表示
「存在と役割」

ルカの福音書10章38-42節 続けて育つ関係 今朝はマルタとマリアという姉妹の家での出来事です。彼女たちがイエスさまを自分たちの家に招いたところから場面は始まります。「イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた」(38節)とありますから、マルタが主導権を持ってイエスさまを迎えたのだと知ることができます。そうして始まった姉妹たちの家での交流でしたが、だんだんと雲行

 
 
 
「新しい年の計画」

聖書 マルコの福音書 11章1-7節 1. なぜそんなことを(1節-3節a) 2026年最初の礼拝を、皆さんとともにささげられること感謝します。ご存知の方も多くおられると思いますが、西暦のA.Dは「Anno Domini(アンノ・ドミ二)=主の年」の略です。2026年も主の年であることを心に留め、主の思いを聖書からご一緒に見てまいりましょう。 年明けを良い機会としてさまざまな計画や目標を立てる方

 
 
 
「いのちを与える羊飼い」

聖書 ヨハネの福音書10章7-13節 1. 価値 私たちは、何によって自分の存在価値や生きている価値をつけるのでしょうか。何があれば、自分は生きていて良いのだと思えるのでしょうか。子どもであればほめ言葉や運動会のメダル、お年玉や誕生日プレゼントをもらうと嬉しくなるでしょう。中高生あたりまではテストの点数や学業、いろんな活動の賞状やトロフィー、友人とのお出かけやお泊り会なんてあれば幸せを感じるかもし

 
 
 

コメント


福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

Fukuoka Megumi Church

日曜礼拝

 歓迎主日礼拝 10:30am-12:00pm

お問い合わせ

〒819-0041
福岡県福岡市西区拾六町1-22-19

メールはこちら

​電話番号は0922042386

© 2014 by Fukuoka Megumi Church. Proudly created with Wix.com

bottom of page