「新しい年の計画」
- 大塚 史明 牧師

- 1月4日
- 読了時間: 8分
聖書 マルコの福音書 11章1-7節
1. なぜそんなことを(1節-3節a)
2026年最初の礼拝を、皆さんとともにささげられること感謝します。ご存知の方も多くおられると思いますが、西暦のA.Dは「Anno Domini(アンノ・ドミ二)=主の年」の略です。2026年も主の年であることを心に留め、主の思いを聖書からご一緒に見てまいりましょう。
年明けを良い機会としてさまざまな計画や目標を立てる方もおられるでしょう。読書、早寝早起き、運動、ダイエット、学習・・・これらはいずれも良いものですが、あえて礼拝で扱われなくても構わない事柄です。もちろん、聖書を通じて規律ある生活を目指す、勉学に励み試験に合格する等の目標を持つことは大事ですが、究極的には聖書がなくてもこれらは立てられます。今朝の礼拝では、聖書を通じて神が教えておられる計画、目標の立て方を知り、それに基づいて新たな年を始められるようにと願います。
本日は「イエスのエルサレム入城」と言われる場面です。8節「葉の付いた枝」から、「棕櫚の日曜日/Palm Sunday」と呼ばれ、十字架を目前に控えた主イエスの最期の一週間の始まりでもあります。この時、主イエスはエルサレムに入る前にある準備をされました。それは「ろば」を用意することです。しかも、「だれも乗ったことのない子ろば」と指定しておられます。これから救い主としてエルサレムに入る乗り物として、主イエスは子ろばを選ばれました。これは意外だと思われても、全然おかしくありませんよね。
絵本や映画では、王は「馬」や「馬車」で登場します。ろばに乗る王を見聞きすることはありません。ここで主イエスが向かわれるエルサレムは、「神の都」と呼ばれる町です。神殿が建ち、礼拝がなされ、唯一まことの神が崇められる場所です。しかし、マルコ11章の続きを見ていくと「強盗の巣」(17節)と呼ばれるほどに、礼拝より商売が横行していました。また、その都を支配しているのはローマ帝国からの総督ピラトです。神が礼拝され、神が治める中心であるエルサレムが人間によって支配される都へと荒れ廃れている。そこへ、主イエスは入られました。どのような王としてでしょうか? そうです、ろばの子に乗る王として行かれるのです。速い馬や豪華な馬車ではなく、主イエスが指定されたのはろばの子という小さく、弱いものでした。主イエスは、柔和な王として入って行かれるのです。
主は「なぜそんなことをするのか」(3節)と言われるほど不可解な計画を持っておられました。しかし、これは神が私たち一人ひとりに立てておられる計画にも同じことが言えるのです。神は、人間が「なぜそんなことを」と思えることを託されるからです。神を礼拝する、人を赦す、復讐せずに祈る、貴重なものをささげる、怒らず寛容でいる、臆病ではなく勇敢でいる、恐れないで確信を持つ。これらは世の知恵や勝算とはまったく逆の計画です。けれど、あなたを用いて成し遂げたい主の計画でもあります。子ろばのように無力な私たちへ、主はどんな計画を立てておられるのかを思い巡らし、示されたことを受け取る機会を設けましょう。
2. 主の必要(3節b)
次に、主の計画の完璧さを見てまいりましょう。この子ろばの個所は、旧約聖書の預言成就でもあります。「・・・娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。・・・柔和な者で、ろばに乗って」(ゼカリヤ9章9節)。まさしく、ドンピシャの出来事がここで起こっています。聖書は大きく旧約と新約に分かれています。紀元前と紀元後が、イエス・キリストの誕生前後で二分されているのとちょうど同じですね。そして、イエスこそ旧約で預言されているメシヤ=救い主だと証明(証言)しているのが新約です。ある学者によると、メシヤに関する預言が旧約に315個あるそうです。処女降誕や生まれる場所、奇跡やしるし、十字架での死に方、復活など細かい預言の数々です。そして、その預言が一人の人に全て成就する可能性は10の157乗。科学的には10の40乗でほぼ可能性は0(ゼロ)と結論するそうです。それ以上ですから、とんでもない確率です。イメージだと、日本列島全体に1.2メートルの高さになるようにボールを敷き詰め、そこから一つだけ金色のボールを仕込み、目隠しをして、一回でそのボールを当てる確率だそうです。そんな起こるはずのない事が、ことごとくイエス・キリストの生涯で実現しています。従ってここは、500年以上前に書かれた一節が成就する、貴重すぎる証拠箇所になります。
さらに、ここで主イエスは多くの人を介入させています。メシヤであることを実現する重要な場面なのだから誰も邪魔しないようにと、ご自分だけで成就することはされませんでした。
これも実に不思議で偉大なことです!! ここではまず二人の弟子に向こうの村に行き、子ろばを見つけよと命じます。つながれているけど、一端ほどけとも言われます。さらに、周囲にいる人たちが「なぜそんなことをするのか」と言うことや、そう言われた時の答え方にも言及されています。それをロボットではなく弟子たち人間に託しているので、どんな展開になるのか、本当にその通りにやってくれるのかの保証はありません。それでも、主の計画はことばどおりに成就したのです。主は驚くべき知恵と力をお持ちの方です。年の初めに自分で決めたことさえもできなくなる私たち人間とは大違いです。だから、主の計画に従う方がよっぽど確かだということが分かります。
しかし、神の計画を知ろうとする人、またそれに従おうとする人はまれです。先ほど見たように「なぜそんなことをするのか」と人からは不思議に思われたり、馬鹿にされることだってあるかもしれません。特に日本におけるクリスチャン人口は1%。毎週礼拝し、日々神との関係を持って過ごすクリスチャンは0.2%とという統計もあります。圧倒的に少数派です。しかも周りを見れば、自分よりも優れた人、性格が良い人、能力の高い人がいるのに、主は私たちを選んでおられます。人から見れば不思議、効率も悪いはずなのに、主は私たちに語りかけ、ご自身の計画を明らかにしてくださるのです。これは、私たちにとって大きな励ましです。
「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者」(イザヤ42:1)。
3. みことばの通りに(4節-7節)
結びに、実行部隊として遣わされた弟子たちとろばの持ち主を見ましょう。出かけた弟子たちはすぐにつながれている子ろばを見つけ、ほどきます。主イエスの言われたとおりだったので、ワクワクしたかもしれません。しかし、すぐにピンチが訪れます。持ち主やその周囲の人たち(複数)が「子ろばをほどいたりして、どうするのか」と詰め寄ったからです。彼らからしたら、怪しい二人組が子ろばを盗もうとしているのですから当然です。「表通りにある家」で、白昼堂々と犯行に及んでおり、悪びれた様子もありません。逆に、声をかけるのも怖いほどです。しかし、弟子たちは主イエスからの決めぜりふを伝えます。「主がお入り用なのです」(3節)。
これは魔法の言葉でも呪文でもありません。「主が必要とされています」とみことばだけを伝えました。村の人はそれを聞いて許してくれました。それは、わいろや言い逃れではなく、「イエスの言われたとおりに」話したからです(6節)。
私たちは聖書の前後を知ることができるので、「その通りになるよね、聖書だし」「イエスさまの声を直接聞けば自分もそうするよ」「面白いけど、聖書っておとぎ話みたいだなあ」と色々な感想を持つかもしれません。しかし、このときの弟子の立場であったら、どう感じるでしょうか。ことごとく、主イエスの言われたとおりになっていくのです。私は、弟子たちはある種の恐れを覚え、終わったあとには震えるような確信があったのではないかと想像します。
確かに、実行するまでにいやだと思ったり、迷ったりしたでしょう。「子ろばなんて見つかるはずがない」「見つけたとしても勝手にほどいて持って行こうものなら、タダじゃ済まされない」「こういう無茶なこと、得意そうな弟子に替わってほしい」と色々なつぶやきや疑問があってしかるべきです。結果を知らないからです。それでも、弟子たちは「イエスの言われたとおりに」しました。これは、私たちが新しい年の計画や目標を立てるにあたり、大変教えられるのではないかと思うのです。
主は、私たち一人ひとりに計画を持っておられるけれども、それを実行するためには、主のみことばに従うことから外れてはならないからです。人から「なぜそんなことをするのか」と言われたり、自分でも「なぜこんなことをしなければならないのか」思うことであっても、それが主から出たことばであれば、従うのです。しかも「イエスの言われたとおり」にするのです。
神が、私たち一人ひとりに成し遂げて欲しいと願っておられる計画が必ずあります。時には不可能に思えること、他の人がふさわしいと思うこと、気が進まないことも示されるでしょう。しかし、誰もがやりたいことをするのに、信仰など必要ありません。自動的に心が躍り、みるみるやる気が出て、瞬く間に力が湧いてくるような計画であれば、自分でできます。
けれども、難しいこと、不可能に思えること、損をすること、忍耐が必要なことには、信仰が必要です。そして、こうした礼拝や教会での交わり、日々の聖書や祈りを通して、神はあなたへの計画を明かしてくださいます。そこで集中してなかったり、他のことを考えていると、主からの語りかけを聞きそびれてしまいます。
「だれも乗ったことのない子ろば」は使い古されていない、真新しいろばということもありますが、だれも乗ろうと考えはしなかったろば、まだ訓練されていないろばとも言えます。しかし、そのような子ろばを、主イエスは大事な場面で用いてくださいました。ご自身の体重を乗せて、一歩ずついっしょに歩んでくださったのです。そんな柔和で優しい主イエスがここにおられます。そうして、この列の前後にいた人たちが、自分たちの上着を道に敷き、「ホサナ=お救いください」と賛美するようになりました。主イエスを囲んで、賛美の行列ができ、増していったのです。私たち、福岡めぐみ教会がこの町でイエスをたたえる者となりますように。ここから「イエスは主です」「イエスは救い主です」と賛美して出て行く者でありますように。静かに自分への計画、語りかけを聞き取る者でありますように。毎週の礼拝でこの扉から、喜んで遣わされる者でありますように。イエスを王として迎える者でありますように。主イエスに用いられるしもべでありますように。ハレルヤ、主に栄光!!■

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