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「いのちを与える羊飼い」

聖書 ヨハネの福音書10章7-13節


1. 価値

私たちは、何によって自分の存在価値や生きている価値をつけるのでしょうか。何があれば、自分は生きていて良いのだと思えるのでしょうか。子どもであればほめ言葉や運動会のメダル、お年玉や誕生日プレゼントをもらうと嬉しくなるでしょう。中高生あたりまではテストの点数や学業、いろんな活動の賞状やトロフィー、友人とのお出かけやお泊り会なんてあれば幸せを感じるかもしれません。大人だと仕事や財産、預貯金や将来の安定が嬉しいかもしれませんし、小さな健康や「ありがとう」のひと言でも支えになると感じるかもしれません。私たちが自分の存在を認めたり、生きる価値を得たりするためにはさまざまな物差しがあります。

反対に、病気の時には弱気になり、失敗や問題を抱えていれば生きる気力が低下します。まとめると、私たちはいつも外的要因で幸せかそうでないかを感じたり、はたまた自分の存在意義までも外的要因に振り回されています。自分にまつわるすべてのものを取っ払い裸になった自分を、私たちはどう評価するでしょうか。「かわいい顔だね」「素敵な服だね」「かっこいい靴だね」「いつも優しいね」「笑顔が素敵だよ」「社長さん」といった、すべてのことが取り去られた自分に、価値はあるのでしょうか。


今年のクリスマスに向かうアドベント期間は「良い羊飼いと羊」というテーマで過ごしています。本日がその3回目です。これは神さまと私たちとの関係を、羊飼いと羊にたとえて教えているものです。羊には絶対羊飼いが必要なように、私たちに必要なのは神さまとの関係です。導入で、いろいろと私たち自身の存在価値や生きる意味について何が必要かを挙げてきましたが、実は必要なのはたった一つです。神さまとの関係が築かれていれば、他の要素がどうなっても、自分の存在や生きる意味を損なったり、奪われたりはしません。なぜなら、羊飼いが必ず羊を守り養うように、神さまはあなたを守り養ってくださるからです。


では、羊飼いが羊を飼う目的は何でしょう。それはペットのようにずっと一緒にいて愛するためではありません。

もちろん羊を名付け、かわいがり、愛します。しかし通常は健康な羊に育て、その毛(ウール)や乳や肉を売ることが目的です。そのために羊の健康を保ち、出産させて群れを増やします。それが羊飼いの仕事です。かわいい羊なのにかわいそうとも思いますが、羊飼いはただ単に羊を育て、最後まで面倒を見るのが仕事ではありません。育て養った羊から出るものを売って、自分たちが生活するための仕事です。これが普通であり、何らおかしくない羊飼いの仕事の目的です。さあ、羊飼いと羊がそのような関係であれば、神さまと私たちとの関係も同じなのでしょうか。私たちは、結局神さまによってどこかに売られてしまうものだと教えているのでしょうか。もしそうであれば、私たちの存在意義や生きる意味はどうなってしまうのでしょうか。羊である私たちの価値とは、いったい・・・(次に進みましょう)。


2.代価

このことを前置きにして、今朝の聖書個所ヨハネ10章10節をご覧ください。そこには驚くべきことが記されています。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」。先週学んだように、門以外のところを乗り越えてくるのは強盗です。彼らは羊のいのちを取ります。しかし、イエスさまがたとえている羊飼いは違います。この羊飼いは、

羊を盗んだり、殺したりしません。また、通常の羊飼いのように、育てた後に羊を売ることもしません。「羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るため」に来た羊飼いだと言っています。そのわけは、次の節に進むと分かります。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」(11節)。これは、大変驚くべきことです。羊飼いが羊のいのちを取ることはあっても、その逆はあり得ないからです。そんなことをするのは、まったくおかしなことです! この節は腰を抜かすほどショッキングな内容なのです。ある意味、このめちゃくちゃさを捉えていないと、イエスさまの教えようとしていることの大きさを知ることができません。「羊飼いが羊のためにいのちを捨てる」という仰天の知らせです。


今朝、覚えたいことは、自分の価値は、神さまがしてくださったことで決まるのだということです。よく教会で使う言葉に「福音」があります。英語で「Gospel(Good News)/良い知らせ」という意味です。このグッドニュースは「神さまが私たちのために何をしてくださったのか」という出来事に基づいています。神さまがこの世界を創造されたというのは、福音です。同じように、神さまが私たちのためにいのちを捨ててくださったというのは福音です。神さまが私たちのためにしてくださったことだからです。神さまが愛してくださっているのだから、あなたは何をしても、何ができなくても愛されているのです、というのが福音です。福音の反対は、「あなたは○○だから愛している」「あなたは○○ができるから、価値がある」「あなたは役立つかぎり、生きていて良い」というものです。これらはすべて、私たちは何ができるか、何ができないかに基づいています。調子の良いときはそれで良いのですが、不調になればすべてがガラガラと音を立てて崩れます。自分の中に愛される価値や存在価値を見出すことができなくなり、もうどうなってもいいやと投げ槍になってしまいます。


しかし、「福音=神さまがしてくださったこと」に基づくなら、私たちの側とは関係がありません。自分で自分の存在価値を証明したり、生きている意味を自分で獲得しなくてもよくなります。そうした無我夢中のもがき苦しみから、福音は解放してくれるのです。


この話は、実際にいた良い羊飼いの話ではありませんよね。これはイエス・キリストが人間に対してしてくださることの「たとえ」です。そうです、羊飼いが羊のためにいのちを捨てるという驚愕の愛で、イエス・キリストは私たちを愛してくださっているのです。イエス・キリストは、十字架でいのちを捨ててくださいました。このたとえにあるびっくりする羊飼いの行動を、本当にしてくださったのがイエス・キリストなのです。それで、私たちが十字架を仰ぐとき、羊のような私たちのためにイエスさまがいのちを捨ててくださったこと、本当に大きな愛、常識では考えられない愛で愛してくださったことを確信できるのです。自分の価値は自分で決める必要はありません。自分の価値を自分で証明する必要もありません。ただ、神さまが自分のために何をしてくださったのかが重要なのです。


そうでないと、最初に見たように、私たちはいろいろな間違ったもので自分の価値を測り、証明しようと焦り、場合によっては絶望したり、無気力状態になってしまいます。自分の力で生きることは、こんなにも大きな愛を示してくださったイエス・キリストの愛を退けることです。十字架の愛から遠ざかることは、間違っているのです。自分に向けられた真の価値から迷い出ているのです。そして、今ここにいる私たち全員がそうでした。イエス・キリストは、その迷い出た羊一匹一匹を捜しに出かけ、見つけるまで名を呼び、抱きかかえて救い出してくださいます。これが、神さまが私たちのためにしてくださったこと=福音であり、それを受けて私たちは存在し、生きていけるのです。


3.変化

自分の価値は自分が決めるのではなく、自分のためにどれだけの代価が支払われたのかで知るものです。その代価を払ってくださったのは、イエス・キリスト。今朝は今年最後の聖餐礼拝です。これから配られるパンとぶどうジュースは私たちのために支払われた代価の象徴です。

売ることもできた羊を守るだけでなく、迷い出た羊を捜し出すだけでもなく、羊たちのために羊飼いがいのちを捨ててくださった。ここにあなたの価値が示されています。愛は犠牲をかけて、具体的に、身体的に、また心に届けられるものだと、この聖餐式は教えてくれます。そうして、自分は神に愛されていることを味わい、受け取ることができます。


しかも、イエス・キリストはご自身がいのちをささげたときには、そのことが報われるかどうか、人々が受け入れるかどうかは分からないのに、十字架で死んでくださいました。初めに、その愛を示されたのです。そしてその後に人々は自分の罪に心を刺され、イエスさまの流した血でしか赦される方法がないのだ、救いはないのだと知り、信仰を持った者がイエスさまの愛に感謝するようになりました。けれども、イエスさまがいのちを捨てた時点ではその愛が報われるかどうかは分かりませんでした。むしろその逆で、十字架につけろと叫び声をあげた羊であり、十字架を遠くから眺めるひきょうな羊であり、十字架からおりたら信じてやると言ったごう慢な羊でした。そのような羊のために、羊飼いなるイエスさまはいのちを捨てられました。そうした状態の私たちを愛してくださる愛なのだとわかると、イエスさまの愛の深さに圧倒されます。自分が強情で迷い出ていたときに、イエスさまがいのちを捨ててまで愛してくださったからです。

報われるかどうかわからない、自分の愛が笑われ、無視され、捨てられるかもしれないのに、いのちをかけて愛してくださった。今、私たちはそのことを受け取ったなら、今度は私たちがその愛に応えて愛する番です。神さまと人とを愛するのです。私たちがその愛に応えるときには、イエスさまと同じように、自分のささげたものや自分自身が報われるかどうか分からないままに愛に応えるのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。イエスさまは、私たちの愛を受け止め、喜んでくださいます。「それも最も小さい者たちの一人にしたことはわたし(イエス)にしたのです」と言ってくださいます。そして確実に、天で報いてくださいます。そうです、私たちの愛は報われるのです。自分の存在意義に変化が、自分の生きる意味に変化が、自分のささげ方に変化が訪れるのです。


羊のためにいのちを捨てる羊飼い。私たちのために十字架にかかってくださったイエス・キリスト。この大きな愛を覚えて、今週から福音=神さまのしてくださったことに基づいて、新しく歩みましょう。


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