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「羊飼いの声を聞く」

聖書 ヨハネの福音書10章1-5節


1.  羊の門

先週は迷い出た一匹の羊のたとえでした。迷い出た羊は一匹でした。一匹狼は聞いたことがあっても、一匹羊は聞いたことがありませんね。羊は羊飼いのもとで過ごさなければ、いのちをつなぐことができません。羊と羊飼いの関係は、私たちと神さまとの関係を教えているということでした。本日の礼拝では、羊と羊飼いについてさらに詳しく見ていき、新たな発見と喜びをともにしたいと願います。


今朝の聖書箇所は「羊たちの囲いと門」から始まっています。これはおそらく夜のことで、羊たちは囲いの中にいます。そして、その門から入るのは牧者(羊飼い)であり、囲いの塀を乗り越えて来る者は強盗だと、イエスさまが話されています。前面の絵をご覧ください。この時代の囲いは「石」で出てきました。木材は貴重だからです(例:レバノン杉)。周囲に多くあるのは石でした。それで頑丈な塀を作り、羊が飛び越えられない高さまで石を積み上げます。そして囲いには1か所だけ隙間を作ってそこを門にします。さて、この門の材料は木材でしょうか? あるいは鉄でしょうか? いいえ、この門は単に1メートルのすき間があるだけです。羊の門になるのは羊飼い自身です。夜になると羊飼いは羊をその隙間から中に入れ、自らその入口に座って夜通し羊を見守るのだそうです。文字通り、羊飼いは羊たちの門そのものになって守るのです。イエスさまのたとえ話を聞いていた人々は、この光景を思い浮かべることができました。

このような構造になっているので、羊に用事があるときは(そんな人がいれば♪)、門となっている羊飼いに声をかけて起こします。そして、羊を盗もうとするならば、門ではなく囲いを乗り越えて侵入するしか方法がありません。それで、「門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です」(1節)と言われているのです。羊を守るのは羊飼いであり、もし羊の命を狙い、脅かす者がいるとしたら、それは囲いを乗り越えてやって来る恐ろしい強盗です。まず、第一段階として、簡単に羊が奪い取られないように、羊飼い自身が門となっています。この門があるからこそ、羊たちは安心して中で過ごすことができます。


教会も同様です。皆さんが安心して過ごすことができるために「門」があります。実は、私もその門を通過して、今ここに立っています。門は、そこから中へ入ることのできる者かどうかを決定するのに欠かせません。私は、成人を過ぎた後のある夜、ひと晩でイエス・キリストを救い主として受け入れることと牧師になることの二つの決心をしました。あまりにも急だったので、最初に怪しんだのが私の両親でした。決心をした翌朝、そのことを両親に伝えると「怪しいから、教会の先生に相談しなさい」と言われました。そして、教会に行って牧師に話すと「史明さん、それは怪しいです」と同じことを言われました。そして、それから一年半、牧師の下で聖書のこと、教会生活のことなど色々教えていただきました。複数の教会の方も、私の決心について慎重に見ていました。その中に一人の男性がいました。彼は冗談や軽率なことを言わない性格でした。本当に思っていることしか口にしないのです。それで、最初から私の決心を「悪いけど、僕は疑って見てるからね」と言っていました。それから教会生活をともにし、私が神学校へ行く最後の日曜の夕礼拝が終わるとき、その人が私のところに来て言ってくれました。「史明くん、あんたの信仰は本物だわ(岐阜弁で)」。お互い泣いて抱き合ったことを覚えています。それは、私にとって、一つの大事な門を通過したということでした。また、この教会の教団では、神学生は卒業するとまず「伝道師」という立場になります。これを3年間経て、試験と面接を受けて合格すると「正教師」という立場になり、洗礼式や聖餐式ができるようになります。一応、一人前の牧師として認められるわけです。そのために「門」を通過しなければなりません。それは、誰でもかれでも牧師になっては困るからです。もし、それらの門がなければ、囲いの中にいる羊たちを盗まれたり、飢えさせたり、荒らされたりするかもしれない。そのために、ある意味厳しい審査を通ります。これは、他教団でどれだけ経歴がある牧師であっても同じです。私たちの教団に教師として加入する場合、新人と同じような審査過程を通らないとなりません。そうして、ようやくこの教団の牧師として認められるので、ある韓国の牧師は「自分はソウル大学を卒業しました。けれども、この日本同盟キリスト教団の牧師になる試験はもっと難しかったです!」と証しをしておられました。これは、中にいる羊たち、教会の皆さんを第一に考える配慮から来る手続き、門です。このように、きちんと門を通るかどうかで盗人かそうでないかを見分けられます。


2.  良い牧者

こうして門について述べた後に、羊飼いと羊の話へ続きます。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します」(3節)。これは夜の番が終わり、門番である牧者が立ち上がり、羊たちを外へ連れ出す場面です。「牧者はその先頭に立って」(4節)行きます。面白いことに、羊飼いは群れの先頭に立って羊たちを移動させますが、牛飼いは最後尾から牛を追い立てて移動させます。もし、イエスさまが「わたしは良い牛飼いです」と言われたら、イメージも随分と違ってきます。皆さんはどちらがいいでしょうか? 私は、イエスさまが「わたしは良い羊飼いです」と言ってくれたことに感謝しています。


そして、牧者は一匹ずつ羊の名を呼んで連れ出します。羊の名を呼ぶのは、用事があるからでも、頼みごとをしたいからでもありません。ただ「わたしは、あなたを知っている。あなたを呼んでいる。あなたとともに過ごしたいからだ」という愛のメッセージだからです。羊を愛しているがために、声をかけ、ふさわしい場所へと導き、守り、養うのです。そのためには、羊が羊飼いの声を聞いて覚えることが必要で、盗人や強盗について行かないように、牧者は毎日羊の名を呼ぶのです。先週は羊の特徴を挙げました(遠くから見ると白くてきれいだが、近くで見ると土や泥で汚れている等)、もう1つ挙げるとすれば、それは耳が良いことです。羊の毛は目を覆うように生えていますが、あれで弱い目を守っています。そして、耳は長く、よく聞こえるように広がっています。

羊にとって、羊飼いの声を聞いて出かけ、囲いの中で休むことがもっとも自由に羊らしくいられる環境です。魚だって水の中にいて初めて自由に泳ぐことができます。もし、魚が「私は水の中に閉じ込められている。なんて不自由なんだ。もう頭にきた、私は出て行くぞ」と言ったところで川から飛び出して地上に出ても、ピチピチ胴体をねじらせ、苦しんで死んでしまいます。そしてこれはたとえですから、私たち人間も、イエス・キリストとともにいることで初めて本当の自由や平安に生きることができる、ということを教えています。


このたとえを聞いていたパリサイ人(聖書に通じていた律法の教師)は、いったい何のことか分かりませんでした。この後の6節には「イエスはこの比喩を彼ら(パリサイ人)に話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった」とあります。彼らはイエスさまの話されているたとえが、自分のことだとピンときていません。迷い出た羊は自分なんかじゃない、ほら、あいつのことだと信じて疑わなかったので、この比喩が自分に向けられたものとは想像もできませんでした。彼らは、自分たちが正しいと言ってもらうために聖書を読んでいたからです。しかし、それは聖書が教えていることではありません。聖書は「あなたは行いにおいても、動機においても正しいですから、救われていますよ。あなたに救い主は必要がありません」とは決して教えません。これは、私たちの聖書の読み方、説教の聞き方にも通じます。私たちが「自分は正しい側」にいると、いつまでたっても救い主イエスと出会えません。

また、聖書の中には科学的視点から疑問に思うことや戦争や殺人の記録もたくさん出て来ます。私たちが「ええっ」と思う箇所もあるでしょう。しかし、神さまが望んでいること、聖書から神さまが私たちに示しているのは何かに聞く耳を合わせることが大切です。何よりイエスさまは良い牧者ですから、私たちを悪いようには決してなさいません。イエスさまは実際の羊飼い以上の存在です。私たちが生まれる前から一人ひとりを知り、それぞれの人生に最高の計画を持ち、導いてくださる方です。イエスさまは、あなたの名前からあなたの思いに至るまで、すべてを知っておられます。


3.  声に聞き従う

結びは、牧者の声を聞いてついて行く羊についてです。羊たちは、牧者の声を単に音として聞くのではなく、自分がそれに従うために、どうしたら良いのか、どこへ行ったらよいのかを決めるために聞きます。聞くこととついて行くこと、聞くことと従うことがセットになっています。以前、研修に行った先で、講師が「みことばは聞いてから従うかどうかを決めるのではありません。従うと決めてからみことばを聞くのです」と繰り返し教えてくださったことを覚えています。


イエスさまがご自身を羊飼いにたとえられたのには、意味があります。当時、羊飼いは最も低い身分とされていた職業でした。世間からさげすまれ、軽んじられ、遠ざけられ、嫌われる存在だったのです。イエスさまがご自身をそれにたとえられたのは、私たちを愛するために最も低いところに降りて来られた、ご自身の愛の強さを教えるためです。イエスさまは、神の御子の座を捨てて人間となり、最も低いところにまで降りて来てくださいました。イエスさまは、あなたが危険なところにいれば、そこまで来て、あなたを連れ戻してくださいます。

 

あなたはこのイエスさまの元に身を寄せ委ねますか? それとも、自分の身は自分で守ろうと迷い出ますか? あるいは、門ではなく囲いを乗り越えてきた者について行きますか? その者は、本当にあなたを愛し、守ってくれる存在ですか? 私たちは、自分のために身体を張って門となり、いのちさえ投げ出すイエスの声にこそ、聞き従うべきです。だれでも、この門から入るなら、守られます。ただ守られるだけでなく、いのちを豊かに持つことができます。


終わりに、黙想してみましょう。この町が福音で変わったらどうなるでしょう。この町が羊飼いであるイエス・キリストの声を聞くようになったらどのような変化があるでしょう。そういう視点で歩いて見ると、いろいろなことが見えて来ます。人々が何にひかれているのか、普段何にふれているのか、もっとも時間や人生を消費して没頭しているものは何かが見えてきます。そして、肝心のあなたはどうでしょう。あなたは誰の声を聞いていますか。誰を見つめていますか。あなたの人生で何を欲していますか。これから先、どうなりたいと願っていますか。どうか、イエス・キリストの愛の中に生きてください。あなたの名を呼び、あなたを愛しておられる神との関係の中で過ごしてまいりましょう。■


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