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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「天と地をつなぐ礼拝」

聖書箇所 : ヨハネの黙示録5章:6~14


はじめに

今朝はヨハネの黙示録をごいっしょに見てまいります。

黙示録は聖書の一番最後にあり、神の救済の歴史もこの書で終わり=完成に至ります。黙示録と聞くと、何だか怖そう、意味が分からない気がする、この世とは別物のように感じる・・・と敬遠したくなるかもしれません。確かに福音書などと比べて、とっつきにくい印象はあるでしょう。ただ、神の救いの計画の全体を知っておくためにはヨハネの黙示録はパズルの最後のピースのように外せないものです。


そこで、はじめに皆さんに質問します。

私たちは地上の生涯を終えると、いったいどこへ行くでしょうか。

(1)私が死んだら御国へ行く

(2)私が死んだら御国が来る


ふと聞かれると「死んだら天国へ行くんだよなあ」と答えがちですが、このように改めて聞かれるといかがでしょう。聖句や主の祈りから検討してみてください。


たとえば、イエス・キリストは「あなたがたが来るのを待っているからね。絶対わたしのところに来てね」とは一度たりとも言われませんでした。


それよりも「あなたがたのために場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3)と告げられ、農夫たちに畑を貸して旅に出る主人、思いがけない時にしもべのもとに帰って来る主人、夜中に来る花婿などのたとえを話されました。


またこう祈りなさいと教えられ、礼拝で毎週賛美している主の祈りでも、私たちは「御国をこの地に来たらせたまえ」と願い求めています。


使徒パウロも「今の世だけでなく、次に来る世においても(キリストは主です)」(エペソ1:21)、「キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる」(第一テモテ6:15)と記しています。


これらから導き出されるのは「この世はいつか滅ぶので死んだらあの世に行って永遠に暮らす」というのは誤りで、「堕落したこの世界に天の都が到来し、永遠の天と地とに刷新される」ということです。滅ぼされるのはこの世ではなく「地を滅ぼす者たちが滅ぼされ」(黙示録11:18)ます。こうして新しいエルサレムが創造され、罪や死や涙のない神の完全な統治が永遠に続きます。


「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが・・神のみもとから、天から降って来るのを見た」(黙示録21:2)

 

  1. すべてが解決するとき

今朝開いている黙示録5章は天での礼拝の幻です。ただし、これは預言ですので必ず成就してそうなる光景を現しています。そこでは御座におられる方(父なる神)と子羊(御子イエス)の栄光がたたえられ続けています。


神の救いの計画は礼拝をもって完成します。実はその始まりも礼拝でした。すべてが非常によかった地に置かれたアダムとエバは神との完全な関係の中に生き、麗しい(やましいこと、汚れ、曇りが一点もない)交わりの中に身を置き、恵みの果実を味わい過ごしていました。その礼拝を破壊したのはヘビの誘惑でした。神だけを仰ぎ、神のみを慕い求め、神のみに従い、神の栄光を表す礼拝は失われ、罪と欲とが横行し、アダムとエバの2人は神から隠れる者に変容してしまいました。


それ以降、神と人との間には罪が仕切りとなり、神との交わりを持つことができなくなりました。人はその罪ゆえに死ぬ存在となり、罪の赦しのために、血といのちが要求されることになりました。


神から離れてしまった私たちは、死の恐怖に一生涯奴隷としてつながれ、おびえて生きています。それをかき消そうと、意味や楽しみを追求しますが、みたされることなくさまよい続けています。

旧約聖書のレビ記に代表されるいけにえの律法はすべて、真の礼拝の回復と完全な罪の赦し(身代わり)のための定めです。この規定に従う時、神の礼拝は喜びとなります。なぜなら、神の前に出ることができ、罪についての恐れや迷いが取り去られ、神をたたえる本来の関係に戻っているからです。


礼拝は、私たちの最上の喜びであり、最高の場所です。賛美はどんなコンサートよりも心身が躍りわきますし、みことばはどんな映画よりも影響を与えます。祈りはどんな励ましよりも確信を植えつけてくれます。だから、私はこの主の日の礼拝をみなさんとともにすることが大好きです。これ以外の場所はないなと実感します。


そして、神との関係を回復させ、罪の赦しをもたらしてくださったのがイエス・キリストです。この黙示録では「子羊」(5:6,7,8,12,13)と呼ばれています。


やがて完成する御国では御座に着いておられる方と子羊とが真ん中におられ、すべての造られたものと無数の御使いたちが永遠に賛美し、礼拝します。その礼拝の始まりで「巻物」(5:1,2,3,4,5,7,8,9)が渡され、開かれます。まるで礼拝の始めのことば(招詞)のようです。この巻物は、開かれることがなければ礼拝が始まらない重要なものでした。

巻物は旧約聖書のエゼキエル書にも登場しています。「一つの巻物があった・・・そこに嘆きと、うめきと、悲痛が記されていた」(エゼキエル2:9-10)。巻物は神の手からエゼキエルの口へと渡され、ヨハネと同様にエゼキエルも巻物を食べています(エゼキエル3:1-3、黙示録10:9-10)。


それまで「天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はい」(黙示録5:3)ませんでした。しかし、「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので・・・巻物を開き、七つの封印を解くことができ」(5:5)る方として、子羊キリストが現れます。エゼキエルの時代からそれまでは「嘆きと、うめきと、悲痛が記され」ていた巻物でした。しかし、世の完成のときには別の巻物が開かれます。それはすべての解決が記されている巻物です。もはや悲しみも涙も苦しみも叫び声も陰も死もない時代が永遠に始まる号令です。もう苦痛がない、もう疑問がない、もう悲嘆がない礼拝が始まります。それらは閉め出され、二度と触れられません。

それで「彼らは新しい歌を歌」(5:9)いました。封印された巻物が開かれると完全な神との交わりが始まり、救いが完成したので悔い改めもさえもありません。言葉や思いでは到底表せない素晴らしさに包まれ続けます。

これを私たちは待ち望んでいます。 ハレルヤ!!


2. 本物の礼拝

このように黙示録には、完成された御国の礼拝の様子が記されています。ということは、ここで書き記されている礼拝こそ、本物であると言うことができます。しかし、このことで、私たちがこの地上や今ささげている礼拝がにせものとか価値がないと言っているわけではありません。むしろ私たちの礼拝が、この黙示録の礼拝に近づくように目指すべきです。完成のときにささげられている礼拝が何を中心とし、どのような賛美をしているのかに注目してみましょう。以下、3つのことを見てまいります。


(1)まず分かるのは、「御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っている」(5:6)ことです。子羊イエス・キリストが真ん中におられます。これが真の礼拝のすがたです。礼拝とはイエス・キリストを真ん中にすること。いや、すでに私たちのところに来てくださったイエス・キリストを心の真ん中に迎えることです。


私の恩師の一人が次のみことばをもって、ここにおられるイエス・キリストを発見するような説教をしなさいと教えてくれたことを覚えています。

「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」(ヨハネ1:26)


(2)その次に、その周りにいる四つの生き物(4:6-8,5:6,8,14)と二十四の長老たちは「ひれ伏し」(5:8)ています。子羊は立ち、周囲はひれ伏していますので、どなたが崇められているのか歴然としています。真の礼拝では、イエス・キリストが高く上げられています。


四つの生き物と二十四の長老は黙示録4章に出てきます(4:4,7-8)。四つの生き物はそれぞれ獅子、雄牛、人間、鷲のようであって、それらは自然界のすべての被造物を代表するものだと学者の間では考えられています。続く5章13節にも「天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのもの」と表現されていて、神以外のすべてのもの=造られたものが「ひれ伏し」ている壮大な光景がここにあります。神に並び立つものなど何もないのです。


二十四の長老は「白い衣」(4:4)をまとっているので救いにあずかった人々を指しています。その数は十二部族と十二使徒(21:12,14)を足したもので、神の民とされたすべての者を言い表すと考えられます。白い衣を着せられた者の名ははいのちの書から決して消されません(3:5)。勝利にあずかった者たちは賛美の楽器(竪琴)を持ち、祈りに満ちた金の鉢を抱えて、立っておられる子羊を礼拝します。


(3)では、真の礼拝で真ん中に立っておられるのは屠られた子羊であるということをもう一度みていきましょう。ここには二つの驚くべき点があります。子羊は無力な象徴です。獅子であれば王であり、雄牛であれば力です。しかし、子羊は何もできない弱い存在にしかすぎません。しかし、真の礼拝ではこの子羊に向けて新しい歌が歌われます。「あなたは・・・ふさわしい方」(5:9)だと。この世では力がないとされていた子羊が、来るべき世では礼拝にふさわしい唯一のお方として賛美されています。人々がつばを吐きかけ、弟子たちが裏切り、この世の王によって十字架に引き渡された非力な子羊が、真の礼拝では中心に立っています。この世の秩序はひっくり返され、まったく通用がしません。私たちは、真の礼拝にならって、今このお方、子羊をたたえます。


それは「屠られた」子羊です。地で殺された子羊は天で中央の座に君臨しておられます。「屠られた」ことがこの章だけで3度(5:6,9,12)繰り返されるほど強調されています。それはこの世で負けたことが、来る世では勝利となっていと鮮やかに告げるものです。あなたの生涯における言い返せなかったみじめさ、仕返しも何もできなかった悔しさ、報われなかった努力、褒められることのなかった行い、馬鹿にされても守り通した信仰は、必ずやがて勝利となります。礼拝はそのための忍耐と確信とを与えてくれるものです。


3. 力のかぎり

最後に、賛美の内容について見てまいりましょう。

実は、新約聖書において賛美そのものが記載されているのは黙示録にある天での礼拝とルカの福音書にある4つ(1-2章のマリア、ザカリヤ、天の軍勢、シメオン)だけです。他にあげられるピリピ2:6-11や1テモテ3:16、6:15-16等は賛美の原形であった可能性はありますが(あるいは信仰告白の定型文)、実際その文言のまま賛美されていたかは研究の余地があるそうです。そのため、真の礼拝や賛美を考える上で、今日のみことばはとても貴重な箇所だと言えます。


「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」(5:12)


これは御座の中心におられる方への賛美から始められています。屠られた子羊が「力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方」だと歌われています。「ふさわしい」とは、その価値があるという意味(Worthy)です。来るべき世において、本当に権威ある方はどなたか。本当の王として君臨されているのはどなたか。心底、たたえるべきお方はどなたか。そのことがはっきりとしています。私たちは屠られた子羊をたたえる以外に、賛美の対象を持ちません。この方から焦点がずれているなら、賛美もずれてしまっていると言わねばなりません。それから賛美は、全被造物からの賛美へと広がっていきます。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように」(5:13)


これは昨年から礼拝の結び、頌栄で賛美していますね(教会福音讃美歌221番)。まさに、黙示録の礼拝と同じ賛美を私たちはしているのです。真の礼拝と同じ賛美をし、同じことばを用いて礼拝しています。これは主の祈りに通ずる嬉しさがありますね。私たちは一言一句、間違いのない賛美をすでに今、授けられているということだからです。これが黙示録=啓示(明らかでなかったことを示すこと)の素晴らしさの一つではないでしょうか。私たちは真理を知り、真理に生きています。ここにある神理解は、すべての尊厳、栄光、力、誉れ、賛美をただ御座におられる神にのみ、また贖い主である子羊キリストにのみ向けています。力も富も勢いも・・・と全身全霊で賛美し礼拝に没頭しています。これが真の礼拝です。私たちはこの正解を知らされているのですから、今からこれを同じ熱量で御座におられる方と子羊だけを仰ぎ見、高く上げ、ひれふし、力のかぎり賛美をささげましょう。私たちが合わせるべきは自分の理解や都合や気分や世の枠組みではなく、聖書のみことば、神による啓示、やがて必ず成就する完全な礼拝に合わせるべきです。最高の礼拝をささげてまいりましょう!


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