「教会を生かす主」
- 大塚 史明 牧師
- 3月30日
- 読了時間: 12分
聖書 第一コリント12章4-7節
先週と今週は、聖書が教える教会の姿を学んでいます。聖書は、主なる神と人間との関係をさまざまなことにたとえて教えています。「羊飼いと羊」「陶器師と器」「ぶどうの木と枝」「花婿と花嫁」「土台と建物」などがあります。
そしてもっとも新約聖書で多くたとえられているのは、「教会はキリストのからだ」です。「からだ」の特徴は、いろいろな部分、器官があるということと、それらが絶妙に組み合わされ、連動して動いているという点です。たとえば、身体には約640種類の筋肉があるそうです。笑っているとき、顔の15種類の筋肉を使っているそうです。そして、怒っているとき、その数は45種類と言われています。笑うより怒る方が筋肉をより多く使っているのは、何とも皮肉です。そして、笑うとか怒る、食べる、動く、眠る・・・すべては脳の指令によって動いています。聖書は、「教会はキリストのからだ」と教えるのと同時に「教会のかしらはキリスト」と教えています。つまり、私たちがキリストのからであるなら、かしら=脳であるイエス・キリストに従って動くのがもっとも理にかなっているということです。もし、脳と違う動きをするのなら、それは暴走車のような恐ろしいことです。
私たちがキリストを主とする教会として歩むために、ともに聖書から新たな発見、力、驚き、恵みを受け取りたいと願います。では、今朝の聖書箇所第一コリント12章4-7節を順に見てまいりましょう。
賜物の向かう先
いろいろあります
4~6節を見ると、リズムやバランスが良いのがわかります。「賜物はいろいろ・・・奉仕はいろいろ・・・働きはいろいろ・・・」が書き出し、それを「同じ御霊・・・同じ主・・・同じ神」で受けています。
「賜物はいろいろあります」とは、キリストのからだにおいてできることがいろいろあるという意味です。教会には一人ひとり顔や姿や性格が違うように、その賜物もいろいろあるのです。誰一人として同じ人、同じ賜物を持っている人はいません。本当にそうでしょうか?たとえばピアノが弾ける人が二人いたら、それは同じ賜物ではないかと思うかもしれません。たとえば、目は左右二つあります。同じように見えるかもしれませんが、一つだけあればよいというものではありません。実は、左右の目がそれぞれ違う働きをして、モノを立体的に見たり、前後の遠近感を正確に測ったりすることができるのです。同じのような働きをしていても、それぞれの賜物により特徴があり、それらが連動することで、よりからだは力を発揮することができます。
そのため、もし誰かがあなたと同じような賜物を持っており、自分よりも輝いているように見えても、動くのをやめたり、存在を卑下したりしないでください。
困るのは、脳=かしらなるキリストです。せっかく、キリストのからだ全体に指令を送っているのに、その器官が受けた指令を受け取らず、信じず、従わないなら、からだはただちに不調に陥ります。教会におられる方は「私なんて・・・」と思わないでください。あなたはいないといけないキリストのからだの部分です。一人ひとりが大事なパートを担っているのです。それを呼び、組み合わせておられるのはかしらなるイエス・キリストです。そのかしらからの指令に聞き、従うことでからだは本来の力を発揮し、キリストの栄光を現すことができます。
賜物→奉仕→働き
そして、正しい方向で賜物を使うことが大切です。「賜物」は原語では「カリスマ」です。昨今、いろんなところにカリスマと呼ばれる人がいます(カリスマ社長、カリスマシェフ、カリスマ美容師など)。それは素晴らしいことですけれど、賜物=カリスマはある目的のために使わないと人を破滅させてしまうほど大きなものです。たとえば、経営感覚に秀でたカリスマを持つ人が、あまりにも経済を追求しすぎて事件を起こすこともあります。しかし、カリスマはある目的のために与えられていると聖書は教えています。それは、この章の柱になっている「キリストのからだ」のためにカリスマは与えられているのであり、「教会のために」カリスマは使われるものなのだということです。
それが5節と6節に「奉仕」、「働き」と続いている理由です。キリストのからだのための「奉仕」「働き」という方向性を失う時、賜物はむなしく、あるときにはその人を破滅させてしまうほど影響を及ぼします。それは、賜物の使う方向が誤っているからです。
私たちには、それぞれ「いろいろな賜物」が与えられています。それをキリストのからだのために使うとき、不思議な平安と喜びがあります。福岡めぐみ教会にもさまざまな奉仕があります。見えるところ、見えないところで奉仕がささげられています。この礼拝のために、どれほどの賜物が正しく使われたのでしょうか。この会堂、あの窓、この椅子、キッチンからの香り・・・すべてが「奉仕」によって成り立っています。これはすごいことです。もし、何かの奉納物のように、それぞれがした奉仕に名前が書いてあったら、居心地が悪いですよね。「この椅子は〇〇が並べました」「このスリッパは〇〇が磨きました」。そうなってくると、キリストのからだではなくなってしまいます。キリストが生きておられるようには感じられないので、魅力がなくなります。そのかわりに、人間のアピールや嫌味が横行して、息苦しくなっていきます。
私たちは、奉仕を通して、キリストのからだであることを表していきましょう。自分の賜物が、キリストに向かっているかを点検してみましょう。
同じ主
主は「与える」(4節)方であり、「仕える相手」(5節)であり、「すべての働きをなさる」(6節)方です。これは奉仕の始まりから途中、終わりまでいっさいは主がなさると教えている箇所です。
私たちは、余裕がないといろいろなことがうまくいきません。忙しいと、家族や子どもにきつく当たったり、あからさまに不機嫌な態度を取ったり、嫌味を言ったりします。お腹が空いて不機嫌になるときもあります。体調が悪くて、笑顔で返せないときもあります。そうして自分に失望したり、人と問題を起こしたりします。これは悪い世界に住む人間の特徴ではありません。教会にいる人たちも、これらの性質を持っており、毎日罪を犯しています。キリストは、こんな人間たちを集めていったい何をなさりたいのでしょうか。
それは、キリストが不完全な者を集め、ご自身の教会を建て上げようとされたからです。この弱い者たちを通して神の栄光を現そうと計画しておられるからです。誰も強い者、完全な者がすばらしいことをしても驚きません。多少は称賛しても、ある意味当然です。しかし、もし小さい者、弱い者、劣っていると思われている者が偉大なことをしたなら、それは完全な者が成し遂げたことよりも大きな影響、インパクトをもたらします。
愛に欠けていた者が愛にあふれるようになった。怒りっぽかった者が忍耐強くなった。自己中心であった者が他者のために仕えるようになった。家の手伝いをいっさいしなった人が今日お風呂掃除をしてくれた・・・こんな変化があったらそれは主も人も喜びます。
ただし、教会には問題があります。新約聖書にある教会はそれぞれに問題を抱えていました。中には分裂もあり、仲間割れする議論があり、道徳的な問題、経済的な問題、そして教会奉仕に関する問題がありました。それは教会には問題があるのが普通だということです。そして、そのような教会にし、そこから建て上げておられるのがイエス・キリストです。神は、愚かな者、弱い者、取るにならない者、見下されている者、無に等しい者を選ばれました(第一コリント1:26-28)。それは、教会にいる者が誰も「自分のおかげだ」と威張り、誇ることがないためです。むしろ「ここには主がおられる」と主が現わされ、賛美され、誇りとされるのが教会だからです。それが、ここで「与える」方、「仕える相手」、「すべての働きをなさる」方と記されている理由です。
誰もそのままでいい人はいません。いつも主から教えられ、造り変えられ、慰められ、変えられ、削られ、整えられていく必要のある者たちばかりです。何の努力もなしにキリストの栄光を現せる人はいません。
ただ、主から教えられ、みことばに聴き、それに従う人がキリストの栄光を現します。10数年前、あることで先輩牧師に相談したところ、「うん、問題がたくさんあっていいじゃない。教会が生きている証拠だよ」と返答されたことを今でもよく覚えています。聖書にある教会が問題を抱えていたように、私たち福岡めぐみ教会にも問題があるでしょう。しかし、それは主と向き合う機会です。皆が聖書の教えている教会を目ざし、考え、思い直していくチャンスでもあります。教会に立ち起こる一つひとつの出来事を通して、主は教えてくださり、私たちがそこから逃げずに主に向くなら、主は私たちがよりキリストのからだとして組み合わされ、栄光を現していけるようにみわざをなしてくださいます。主は、私たちに対して真剣であるからこそ、言いにくいことも言ってくださいます。どうでもよければ、ご自身を与えるほど教会を愛したりなさいません。真剣でなければ、みことばを送るはずがありません。私たちがそのままで放っておくのでよければ、御霊を送ったりなさいません。私たちが思いのまま過ごしてよいのであれば、わざわざ呼び集めたりはなさいません。
私たちは、主から集められた者たちです。一人ひとりが不完全です。だからこそ、同じ主から与えられ、あふれる必要があり、同じ主に仕える必要があります。私たちが求め、仕える相手を間違えないようにしましょう。
皆の益のために
最後7節は「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられている」とあります。これは、「御霊がすでにあなた方一人ひとりに与えられているので、賜物が皆の益のために使われるようになる」という意味です。逆から読むとわかりやすくなります。私たちが一生けん命なので、皆の益のために賜物が使えるようになり、教会らしくなっていくのではありません。私たちではなく、御霊が一人ひとりに現れている(与えられている、注がれている)ので、賜物を皆の益のために使うことができると教えています。御霊は、以下の聖句があります。
「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブの手紙4:5)別訳(欄外):「神が私たちのうちに住まわせた御霊は、ねたむほどに私たちを慕い求めておられる。」
私たちが奉仕ということ、教会ということを考えるとき、まず「自分の時間」「自分の犠牲」「自分の責任」から考えるのは間違っています。神さまが私たちを苦労させようとしているとか、苦しめようとか、奉仕によって疲れさせようとしていると考えることは誤りです。なぜなら、ここにはまず「御霊が私たちを慕い求めている」とあるからです。それは言いかえれば、御霊は私たちのことを真剣に考えておられるという意味です。
御霊はあなたのことで頭がいっぱいで、あなたを求めてやまないということです。こんなにも神さまが真剣に私たちのことを考えておられるので、私たちも主に対して心を向けることができます。キリストを十字架につけるほど私たちのことを愛しておられるので、私たちも主を愛そうと考え始めることができるのです。御霊が私たちを慕い求めておられるので、私たちも主に対して真剣になりたいと思うのです。
私たちが皆の益のために賜物を使うためには、御霊を通して主ともっともっと親しく交わる必要があります。もっともっと御霊の思いを受け止める必要があります。神さまは、私たちと親密な関係を築きたいと願っておられます。キリストのからだとして、ご自身の交わりのうちに入れてくださっています。そして、より親密になるためには、お互い一歩ずつ近づいて行くことが必須です。遠く離れたまま、親密になる、お互いの理解が深まることはありません。だから、神さまが私たちに近づくとき、間違いなく神さまは私たちのことを取り扱われます。それはより親密な関係になるために不可欠な作業です。ふさわしくない部分があれば変えられる必要があり、考えを改める部分があれば教えられ、諭される必要があり、傷のある部分は癒される必要があり、とがった部分があれば丸く削られる必要があり、荒削りな部分があれば磨かれる必要があります。
もし、こうして主に取り扱われることを拒むなら、私たちはそれ以上主と親しい関係には入れません。交わりを拒否するなら、そこでお互いが親密になる行程はストップしてしまいます。主に取り扱われることは、ときにみじめさを指摘され、高ぶりを示され、心が痛み、嫌な思いもするでしょう。しかし、そのことを恐れているなら、主と交わることはできません。
結婚する相手に対して「これから僕はあなたと週に一時間半だけ一緒にいたい。あとの時間は好きなことをしていたい。電話もラインも一日3回までにしてほしい。さあ、結婚しましょう」と言われたら、絶対に断りますよね。それはお互いの関係を築くのにふさわしい姿勢ではないからです。私たちの主に対する姿勢はいかがでしょうか。主の御霊は私たちをねたむほど慕い求めておられます。それは私たちとともにいるために、どんな犠牲もはらうし、どこまでも努力するということです。それを受けて、私たちは答えたいと願います。自分の願いや思いではなく、こんなにも私のことを慕い求めてくださる主に対して、私はどんな仕え方をしようか、生き方をしようか、いかにささげようかと考え、その通りしたいと願います。
これからの福岡めぐみ教会は、一人ひとりを慕い求めておられる主に対して、賛美し、礼拝し、応答し、交わり、仕えていきます。
特に、本日は教会学校教師任命式があり、午後には部の設立の話し合いがあります。次週には執事任命式もあります。教会の奉仕は決して軽いもの、楽なものではありません。真剣に神さまに対して考え、生きることを求められるからです。一瞬の決断だけでやっていけるものでありません。もしかしたら、日々葛藤し、奮闘し、祈りながらでないとやっていけない奉仕ばかりです。
しかし、そのとき私たちは主を求め、主と親しく交わり、親密な関係を築くことができます。何より、こんな自分を慕い求めてくださっている主の愛を知っていきます。主を知らない人生はむなしく、ちりのようです。しかし、主のために生きる人生は素晴らしい宝です。そうしてささげる奉仕が皆の益となり、キリストのからだを建て上げることになり、大きな喜び、祝福を受けます。奉仕を通し、主を求め、みわざを味わい、楽しみましょう。
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