top of page

「疲れた時に近づく主」

聖書 第一列王記19章1-8節


1.身体的な疲れ(1-3節)

 先週は、エリヤが完全勝利した場面を見ました。1対450人の預言者の対決、まことの神と偶像のバアルの神の対決に勝利し、さらに3年6カ月にわたる日照りの期間に区切りを付け、激しい大雨の中を疾走するのがエリヤでした。しかし、それは先週までの姿です。19章に入ると、猛々しいエリヤの姿はなりを潜め、意外な展開をしていきます。


 19章はアハブ王が妻イザベルに事の次第のすべてを話したところから始まります。通常、夫婦が良く会話している、特にここでは夫が妻に「一部始終」を話しているところに共感する女性たちもいるかもしれません。なぜなら、大方の夫は今日あったことや何をしてきたか、明日の予定は何なのかを妻に細かく話すことがないからです(私調べ)。しかし、ここで見えてくるのはそういった仲睦まじい夫婦関係ではありません。むしろ、夫であり王であるアハブが妻イザベルに、エリヤのことを言いつけて、解決してもらうようにすがっている姿です。その証拠に2節からはイザベルが主導権を握り、エリヤを追い詰めます。このいびつな力関係は21章のナボテのぶどう畑を強奪する場面でもより明らかになります。夫より、さらには王よりも巨大な権力を持っているのが妻イザベルという構図です。そうしてイザベルが決断したのは「明日の今ごろまでにエリヤのいのちを奪う」ことでした。

もし、それができなければ「神々がこの私を幾重にも罰せられるように」という狂気に満ちた宣言です。これを受けて、エリヤはどう立ち向かったでしょうか。前の18章では一人になっても数百人と対決することをいとわないほど勇敢でした。しかし、ここでは「自分のいのちを救うために立ち去った。ユダのベエル・シェバに」(3節)行きます。前の地図をご覧ください。これまでの17‐18章はケリテ川、ツァレファテ、カルメル山と北の領土が舞台でしたが、ここで逃げたベエル・シェバは大きく南下しています。北イスラエル王国から南ユダ王国の国境をまたぐ逃避行です。エリヤの状態が大きく下がっているのが分かります。これまで孤軍奮闘してきました。しかし、大勝利してもすぐにまた終わらない闘いが続き、今回は立ち向かうのではなく、逃亡することを決めました。身体的な疲れも相当たまっています。それによって、前向きな行動を決断することができませんでした。


 私たちもまだ元気なうちは、ストレスがかかっても「抵抗」したり「立ち向かう」ことができます。これは小さな宿題や買い物から、冠婚葬祭や重要な仕事といった大きな分野まで、エネルギーがあるうちは対処することができます。しかし、連続してストレスがかかると同じようにするのがしんどくなります。さらに、消耗した状態で大きな出来事が降りかかると、ついには抵抗できなくなり、逃げたり避けたりといった消極的な反応になります。

まさに、ここでのエリヤは身体的にも精神的にも力を使い切った状態だったので、イザベルに立ち向かうよりも南へ、南へと逃げることを選択しました。


 さらに、ここでエリヤはベエル・シェバに着いたとき、「若い者をそこに残し」自分一人で荒野へと入って行きます。ここまでは若い部下とも話をしながら逃亡してきましたが、ついにそれさえもおっくう(めんどう)になって、孤立する道を選びます。私たちも同じですよね。ちょっと疲れたとき、愚痴を聞いてくれる人がいると心強いですが、その人といつまでも一緒にいろと言われたら、かえって疲れることがあります。少しの不満なら相手の顔を見て言えるのですが、怒りが沸騰したときには自分の部屋に閉じこもるようなこともします。このとき、エリヤは疲労がピークに達し、体力的にも精神的にも限界を迎え、もう若い者と一緒にいる気力もなくしていました。そうして荒野の道をあてもなく一日中歩き続けます。疲労は、積極的な目標も、また主に従う信仰の力さえも奪っていくことが、とぼとぼ歩くエリヤから学ぶことができます。ちょうど先週、教会総会を持ちましたが、多くの積極的な意見が出されました。また、これまでの教会のあり方に疲れを覚える方がいることを考えて、改善すべき点を発言くださった方もおられます。疲れると失うのは、身体的な力であり、信仰の活力です。疲れ果てた者に、主がどのようになさるのかがこの章のテーマです。


2. 霊的な渇き(3-6節)

 エニシダの木陰にへたり込んだエリヤは「自分の死を願って・・・主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と言ってしまいました。聖書は模範人物ばかりではありません。もうダメだと思ったら、死んだほうがましですと言った記録があります。しかも、新約時代になっても偉大な預言者エリヤ(参照:マタイ17:3,27:49等)と呼ばれる人のつぶやきです。きっとエリヤの心には「あれだけの戦いに勝利したのに、現実はまだこの悪の王と女王が君臨しているのですか」「いったい私のあの頑張りは何だったのですか」「もう何もかも投げ出しくなった」という思いが去来していたのでしょう。初めは「自分のいのちを救うために立ち去った」のに、逃げまくり、人とのつながりも断ち切ったので、今では「もう十分。いのちを取ってください」と真逆のことを祈るまでになってしまいました。このエニシダの木は高くても全長1~3メートルくらいにしかならないそうです。そう、今やエリヤを守ってくれるものは何もない状態です。


 エリヤが荒野まで逃亡したのは身体的疲れと精神的な疲れが合わさったものですが、ここで自分の死を願ったのは、霊的な渇きです。実は、エリヤが荒野で一人になって初めて、主との一対一の交わりが実現し、そこで霊的な渇きを吐き出しています。それは、主なる神にしか解決することができない領域です。

「もう死んでもいい」と訴えたエリヤに対する神の答えはこうでした。「起きて食べなさい」(5,7節)。主なる神はエリヤがなお生きることを願っておられます。死を願って眠ったエリヤを若者は追いかけて来ませんでした。イザベルもまだ見つけることができません。ただ主の使いだけが現れ、声をかけ、食事を用意して勧めてくれています。これは重要な教訓です。以前、カラスに命じてエリヤを養うようにされたとき、エリヤはアハブ王にもひるまず、主のことばにまっすぐ生きる人でした。いうならば、とても信仰が強く、大胆に生きていたエリヤです。そんな彼に、神はパンと水を与えられました。そして、今のエリヤは真逆で、弱く、逃亡し、死にたいと言ってくるような状態でした。使命感のかたまりのようなエリヤではもうありません。それでも、主は彼にパン菓子と水を与えられます。主は、私たちの状態いかんで優しくしたり、冷たくしたりする方ではないことを知れます。神のあわれみと真実は変わることがないのです。こうした神のご性質を知ると、私たちは嬉しくなります。そして、主がエリヤの霊的な渇きを潤していく方法とは、特別な光とか神秘現象ではなく、一日に食べられる量の食事でした!私たち家族、福岡に赴任してから何度もこの食事の助けをいただきました。コロナ罹患、インフルエンザのたびに、教会の御使いが玄関扉に置いて行ってくださるので、普段よりも食事が豊かになるほどです♪そういう小さな奇跡、大きな助けをいただいています。

 このときのエリヤも少しずつの無理が死を願うまでに追い込んでいったのかもしれません。自分は大丈夫と過信していたところに訪れた試練だったのかもしれません。身体的な限界、精神的な余裕のなさが、この霊的な渇きに気づかせてくれました。そして、主なる神はこの霊的な渇きを満たしてくださる唯一の方です。このあとに、その驚くべき癒しと回復の方法が記されています。


3. 満たしてくださる主(7-8節)

 死を願ったエリヤに対する神の対応は「起きて食べなさい」と言うだけでした。食べ物を差し入れ、よく眠るようにしてくれ、ちょうどよい頃にまた起こしてくれて、食べさせてくれる。何とも驚くべき神の対応です!

そして、少しずつ回復してきたころ、もう一言付け加えます。「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」(7節)。休んでるのに、いや死んでもいいと気力も失っていたのに「旅は長いぞ」と言われるなんて、ええっと思いませんか?けれど、タイミングが絶妙です。まだまだ、主はエリヤに期待しておられるのです。一度燃え尽きたくらいで見放さない。一度、職場放棄をしたくらいで見限らない。部下を置いてけぼりにしたって、ガミガミ言わない。「エリヤよ、お前に託していたのに、逃げてしまうから、わたしの計画はおしまいだ」とは言われません。そのかわりに「エリヤよ、まだまだ旅の道のりは長い。 あなたとはまだこれからやりたいことがあるのだ」と言ってくださいます。主は、エリヤが治めた大勝利をもったいないことをしたとは、一度も言われません。積み上げたものが崩れても、眠り、食べ、休息を取って回復のときを設けてくださいます。いえ、そのための食事や場所までも用意してくださるのです。


 エリヤは学んだのではないでしょうか。いくら燃えていても、俺は一人でやっていた。いくら勝利しても、それは自分の頑張りのおかげだと思っていた。自分の熱心さに、主が答えてくださった、用いてくださったと考えていたかもしれません。だから、自分が疲れ、気力を失ったときに、もう死んでもいいやと投げ出しました。しかし、それは自分が神さまの先に立って頑張る生き方です。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます・・・あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(マタイ11:28-29)くびきを一緒に負ってくださる主イエスとつながっていないので、たましいに安らぎが来ません。自分で何とかしなければという使命感や衝動は一時的にしか持続しないのです。私たちは、主の望まれる速度で、主が担わせてくださる量で、主がともにいてくださる距離を歩みたいと願います。教会のひとり一人がそう歩めるよう、互いが主イエスとともにくびきを負いつつ、歩み、食べ、眠り、休み、礼拝しましょう。


最新記事

すべて表示
「教会を生かす主」

聖書 第一コリント12章4-7節  先週と今週は、聖書が教える教会の姿を学んでいます。聖書は、主なる神と人間との関係をさまざまなことにたとえて教えています。「羊飼いと羊」「陶器師と器」「ぶどうの木と枝」「花婿と花嫁」「土台と建物」などがあります。 ...

 
 
 
「あなたに現れる主」

聖書 第一列王記19章9-14節 はじめに  今朝、もっと主を感じたい、力に満たされたい、霊の喜びがほしいと願っておられる方がいるでしょうか。そうであれば、満たされるための秘訣は、私たちが飢え渇いていることです。主イエスも「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのとこ...

 
 
 
「本気で主を求める」

聖書 第一列王記18章36-40節 1. 今日、求める(25-29,36節)  先週は、エリヤ対バアルの預言者450人が二頭の雄牛にどちらの神が火をつけられるかの対決をしよう、と合意いたところまで見ました。今朝はその続きで18章全体をたどります(聖書朗読は36-40節)。...

 
 
 

Comments


福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

Fukuoka Megumi Church

日曜礼拝

 歓迎主日礼拝 10:30am-12:00pm

お問い合わせ

〒819-0041
福岡県福岡市西区拾六町1-22-19

メールはこちら

​電話番号は0922042386

© 2014 by Fukuoka Megumi Church. Proudly created with Wix.com

bottom of page