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「あなたに現れる主」

聖書 第一列王記19章9-14節


はじめに

 今朝、もっと主を感じたい、力に満たされたい、霊の喜びがほしいと願っておられる方がいるでしょうか。そうであれば、満たされるための秘訣は、私たちが飢え渇いていることです。主イエスも「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」(マタイ11:28)「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われました。招かれているのは「疲れた人」「渇いている人」です。主は、このような者を満たしてくださるのです。それゆえ、私たちがこの世に疲れたり、生活でいっぱいいっぱいになったり、身体に不調を覚えたり、投げ出したいなと思うとき、実はそれは主があなたをそばに引き寄せてくださる行程です。主が満たしてくださろうとしておられる最中です。それゆえ、私たちはどんなときも、神との出会いを逃さないようにしたいと願います。


 それがこの主の日の礼拝ではないでしょうか。そこを逃すと、私たちの状態はさらに深みへと下がっていきます。多少の疲れ、おっくうさを抱えつつも、礼拝にあなたの旅路の方向を定めて、一歩ずつ神の山ホレブに近づいて来てください。そこで、主はあなたに語ることばを用意して待っていてくださいます。さあ、エリヤの続きをご一緒に見てまいりましょう。


  1. ほら穴で(9節)

 先週までのエリヤは、無理をし過ぎていました。カルメル山の決闘が終わった後、顔をうずめて雨が来るように祈る。祈り続けて七回も祈りました。その後主の霊が下って、先に行ったアハブを追い抜かし、先にイズレエルに着きます。私たちでたとえるなら、朝一番の飛行機で東京へ出張に行き、そして仕事をして福岡に戻り、ユンケルとレッドブルを飲んで、そのまま休まずにもう一度職場に戻って仕事をし、その後山登りに行くみたいな感じです。尋常ではないスケジュールをエリヤはこなしてました。


 そんなめざましい働きをしたあとに死にたくなるほど疲れてしまったエリヤとその状態の彼に変わらぬあわれみをかけてくださるのが先週の場面でした。「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長い」と彼を支えてから背中を押したのです。


 今朝はその旅の続きです。昨日まで寝込んでいたエリヤがすくっと立ち上がり、歩きに歩き、四十日間の道のりを進みます。エリヤは「起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた」(8節)。神の与える食事は単に身体を回復させるだけでなく、気力も回復させてくれました。「力を得」とは徐々に上を向くことができるようになったエリヤの状態を表しています。

そこでたどり着いたのは「神の山ホレブ」です。ここは、かつてモーセが燃える柴を見て召命を受けた場所であり(出エジプト記3章)、また十戒を授かった山でもあります(申命記4章)。単なる山登りではなく、神と出会うための特別な場所に導かれました。エリヤがここからもう一度、神と親しく交わり、信仰の回復、新しい力が注がれていくにふさわしい場所です。そもそも、エリヤはイザベルの殺害宣告を受けて、それから逃げてベエル・シェバに来たはずです。さらに、エリヤはもうダメだ、死にたいと願ってエニシダの木の陰にへたり込んだはずです。それでも、その先に神との再会、絶望からの再起が用意されていました。


 四十日間歩き続けたエリヤはある洞穴を見つけ、そこで一夜を過ごします。そこで明確に主のことばがありました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」(9節)。これは主がわからないから聞いているのではありません。エリヤ自身が「自分は今どのように生きているのだろうか」「私はこれから何をしようとしているのか」を考え、答えるための質問です。エリヤは「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルはあなたとの契約を捨て・・・ただ私だけが残りました」(10節)と答えます。これはとても長いセリフです。エリヤは、一人で荒野にて過ごすうちに、段々と状況が整理でき、自分の気持ちをしっかりと伝えることができるようになっていました。つい四十日前までは「主よ、もう十分です。このいのちを取ってください」としか言えませんでした。それと比べると、ここでのエリヤはしっかりこれまでの状況を説明し、自分の気持ちを訴えています。


 エリヤの返答の中心は「ただ私だけが残り・・・私のいのちがねらわれている」点です。エリヤが感じていた問題を一言で表すなら、「孤独」です。「ただ私だけが残った」というこの言葉に、何とも言えないエリヤの心境が込められています。前回エリヤを追い込んだのは疲れだと言いました。そして、この神の山ホレブに着いたころには、エリヤには「私だけが」という孤独感が湧き上がってきました。自分だけで戦ってきた。そして結果、自分だけが残った。これから先もまた、自分だけか、というやりきれなさ。  しかし、どうも、物事の暗い面だけが見えているようにも思えます。18章の前半では、宮廷長官であるオバデヤが主の預言者をアハブ王からかくまったことも聞いていました。エリヤと心を同じくして戦っている人物は他にもいたのです。それもここでは見えなくなっていました。エリヤであれ私たちであれ、人間は落胆すると、どうしても「自分だけがどうして」という思いがたまり、この屈折した気持ちから抜け出ることはもう不可能になってしまいます。そうしたぐちゃぐちゃが重なって山のように高くなり、もはやどうすることもできません。そして洞穴の中=自分の殻の中に閉じこもります。


2. 主の声を聞く(9-13節)

 そんなエリヤに主は答えられます。「外に出て、山の上で主の前に立て」(11節)。エリヤは洞穴の中で主のことばを聞き、主に答えていますが、そこから「主の前に立て」と呼び出されます。そのために、主は不思議な方法を取られました。初めに「激しい大風が山々を裂き、岩々を砕」きます。しかし、そこに主はおられませんでした。「風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった」。さらに「地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった」のです。


 大風、地震、火とは、主の現れにともなって起こるしるしです。主は、ヨナを悔い改めさせるために、大風を吹きつけられました。詩篇にはたとえ地が揺れ動いても神は強き助けと賛美され、火はこのすぐ前の18章で主がエリヤの祈りに答えてくださったしるしでした。ここでは3連続でこれらのことが起こったのです。一見すると、それは華々しい主の登場の仕方でした。しかし、それらのどこにも主はおられませんでした。私たちは誰もが、目で見える、肌で感じる現象に弱いものです。教会の働きが大風や地震のような現象を伴って飛躍しているとき、私たちは簡単に喜びます。個人生活が順調に前進しているとき、私たちは容易に神に感謝し、賛美もできます。逆に、目に見えるような結果が何一つ出ない、すぐにその場で効果が現れないような働きが続くと、私たちは落胆してしまいます。神はここにおられない、私のことは気にかけてくれていないと結論付けてしまうのです。しかし、主はあえて大風や地震や火の中にご自身を置かれませんでした。これまでエリヤが経験してきたことは、主が烏を通して養ってくださる、死んだ息子を生き返らせる、石の上にたきぎを組んで、裂いた雄牛を置き、そこに水をかけると天から火が降って来るという劇的な働きの中に、神の臨在を見て来ました。しかし、今、目の前で次々と起こる大きな現象の中に、主はおられませんでした。その証拠に、エリヤは洞穴の中にとどまったままです(13節までいかないと、エリヤは外へ出ない)。「主の前に立て」と言われたのに、いった主はどこにおられるのでしょう。12節後半に「しかし火の後に、かすかな細い声があった」とあります。そうです、主はそよ風のような細い小さな声の中にご自分を置かれたのです。「かすかな細い声」とは、”still small voice”(KJV),

 “a gentle whisper”(NIV)と訳されています。静けさの中でエリヤは確かに主の声を聞き取りました。これまでは「主はこう言われる」とはっきりと告げていましたが、ここでは静かでかすかな声により、主のことばを聞きました。それは主が、苦しみや絶望に陥っているエリヤのことを、思いやってくださったからではないでしょうか。主なる神は苦しみの中で絶望に陥っている者を、激しいしるしによって力ずくでご自身の前に立たせることをなさいませんでした。主は、いつもとは別の方法で、静かなささやく声によってエリヤに語りかけ、彼が自分から出て来てみ前に立つように促されました。そして、この静かなささやく声を聞いた時に初めて、エリヤは引きこもっている洞穴から出て、主の前に立つことができました。このように主なる神は、私たちそれぞれの状況に応じた仕方で語りかけ、私たちが引きこもっている自分の世界から出て、主の前に立つことができるようにしてくださいます。そういった主の私たち一人ひとりに合わせた優しさがここに描かれています。身体はへとへとに疲れ、心はぺちゃんこにされていても、そこにも主はともにいてくださいます。主はあなたに語りかけています。


 そして、再び同じ質問をされます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。先ほどのエリヤの答えが聞こえなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。先ほど、エリヤは答えてからも洞穴の中に閉じこもってしまいました。それで今、エリヤは主の前に出ています。そこで問題を解決する必要があるからです。逃げて来たエリヤ、落ち込んだエリヤ、死にたかったエリヤ、洞穴に閉じこもったエリヤ。これらの問題を主の前で解決するのです。四十日という時間が解決するのではありません。しっかり、主の前で解決するために、主は同じ質問をされました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。主があなたにも繰り返し問いかけていることがあるのではないでしょうか。


3. 力づける主(-14節)

 エリヤは再び同じ言葉をもって答えました。10節と14節の言葉はすべて同じです。熱心に主に仕えてきたこと、自分だけが残っていること、いのちを狙われていることです。この後の15-18節で主はそれに対して答えておられます。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。」それは、エリヤが来た道を引き返し、ダマスコの荒野に向かえということです。主はもう一度、エリヤが逃れてきたあの現実の中へ遣わそうとしておられるのです。


 それはエリヤが、恐れと絶望による混乱から抜け出して強くなり、正確にものを見ることができるようになり、泣き言を言わなくなったからではありません。エリヤ自身は以前と変わってはいません。答えも、言葉も、答え方も一緒です。しかし、エリヤは主が自分をそのふところに迎え、静かにささやく声によって語りかけ、主の前に立たせ、言い分をたくさん聞いてくれ、その上で遣わそうとしておらえれる、ということを知っています。自分がどれだけ苦労をし、何が嫌で、どんな気分であったのかを全部聞いてくれ、それを知ったうえで「さあ、今来た荒野へ行け」と言ってくださっています。エリヤの行く動機が、彼の熱心や志願にならないように、主は「さあ、荒野へ帰って行け」とご自身で彼にことばをかけておられます。主がこう言われるのであれば、その力をエリヤは付けていると主が認めておられるということです。

 その行った先で、エリヤには3人の者に油を注ぐように命じます。最初はアラムの王となるハザエル、2人目は北イスラエルの王となるエフ―、3人目はエリヤの後継者となるエリシャです。実は、この後ハザエルはエフ―に、エフ―はエリシャに殺されますが、それは主の正しいさばきがなされることの約束の預言です。エリヤは再び、国と国との争い、権力同士の闘争の混乱の真っただ中に遣わされるのですが、その混乱さえも、主の支配下にあることをこの預言を通して教えておられます。恐ろしいことが連続している世の中も、主がご支配しておられると告げてくださっているのです。そして、争いだけでなく、自分の働きのバトンを渡す相手も備えてくださっています。それがエリシャでした(彼は第二列王記前半で活躍します)。これからエリヤがなすべきことを示してくださいました。自分一人で戦っていた、やってきたと思って疲れていけれども、バトンタッチする人を備えてあることも教えてくれました。


 さらに、エリヤに対しては「バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった七千人を残している」(18節)と告げました。このことは、このときまでエリヤに知らされてはいませんでしたが、エリヤが孤独を感じたり、死にたいと思っていたころから主はちゃんと備えてくださっていました。私たちがもうダメだと思っていても、主はその背後で後の励ましを築いていてくださいます。

 ここから、エリヤは行きます。荒野へ帰っていきます。彼は自分の熱心さは自分を支えないことを学びました。燃え尽きたからです。自分だけの働きでは、自分を祝福しないことも経験しました。孤独になったからです。しかし、主はどんな自分をも認めて、ともにいてくださることを学びました。彼が川のほとりにいても、やもめと息子の家に居候しても、カルメル山で火が降っても、逃げて倒れ込んでも、歩いて洞穴にいても、どこにいても主がそのときのエリヤの状態に合わせて語りかけ、みわざをなしてくださったことを経験しました。これから彼を支えるのは、主のことばです。主が「さあ、荒野へ帰って行け」と言われるので、そのとおりに従うのみです。なすべきことは、その先でまた主が示してくださいます。


 今年の私たち教会のテーマは「主を求め、みわざを味わう」です。これから一人ひとりの歩みに、主がともにいてくださいます。そして、そのときにふさわしい方法で主はあなたに語りかけてくださいます。エリヤに烏が現れるなら、私たちには何を通して語られるでしょうか。エリヤにオバデヤがいたように、私たちには人を通して語られることもあるでしょう。また、あなたが一人でいるときに、主は語ってくださいます。どうぞ、主よ、今の私にふさわしいことを語ってください。主のみことばを頼りにして歩めるようにしてください。その先にあるみわざを味わわせてください。一人ひとりに祝福がありますように!


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