top of page

福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「攻撃は最大の防御」


聖書 エペソ人への手紙6章14~18節

皆さんにとって、幼い頃の「ヒーロー」は誰でしょうか。漫画やテレビのキャラクター、スポーツ選手などそれぞれにあこがれた存在があったことと思います。私にとってのヒーローは「タイガーマスク」(プロレスラー)でした。おそらく、4歳上の兄に対抗したくて、強くなりたいと思っていたことが原因かと思われます。まずは、パジャマのズボンの上から短パンを履いて外見をまねし、おやつにおまけで付いてくるプロレスラーのマスクをかぶり、部屋一面に布団をしいてリングにし、壁をビニールひもで囲んでロープにして遊びました。兄には負け続けましたが、抱き枕を相手にすれば圧勝した気分でいました。今朝は聖書に出てくるヒーロー、アメリカでは「バイブルマン」というアニメがあるようです。これはクリスチャン生活とは戦いなのだと子どもに教えるのに、良い方法だとも思います。


先週(6:10-13)、クリスチャンの戦いについて学びました。悪魔が策略を駆使し、巧妙に仕掛けてきます。一人でも多くキリストから引き離し、永遠の滅びへと道連れにすることを目的に働いています。私たちは悪魔に無頓着、無警戒であってはなりません。また、先週の水曜祈祷会の分かち合いから教えられたことは、この悪魔は私たちよりも賢いという事実です。実に、アダムとエヴァを欺いたときと同じ悪魔が、今の時代にも様々なわなをかけています。私よりも長く生き、経験が豊富で、歴史上の色々な人間を相手にしてきた、まさに百戦錬磨の霊、闇の支配者です(*悪魔を褒めていません。むしろ最大限に警戒すべきです)。私たち一人ひとりを観察し、このような人間にはどのような手段が有効かをよく知っています。どうやったら信仰を捨てるか、教会から離れるか、聖書を読まなくなるか、祈ることを面倒にさせ後回しにさせるかをたくらんでいます。「敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」(第1ペテロ5:8)いる状態です。こうした現実の中、私たちは神の側に堅く立ち続ける戦いをしています。邪悪な日に打ち負かされるのではなく、終わりの日まで顔をあげて神の前に堅く立ち続ける。これらもろもろの悪霊に対抗するために、神は私たちが自分で立ち向かうのではなく、「神の武具」を与えてくださっています。丸腰で行くのは無警戒そのものです。そして、自分を過信することも悪魔が喜ぶことです。なぜなら、私たちは自分の力では悪魔に勝つことはできないからです(エデンの園以来ずっと歴史が証明)。主の祈りで「私たちを試みにあわせず」と祈るようにイエスさまが教えられたことも思い起こしましょう。


Ⅰ. 神の武具(14-17節)

  1. 帯

この手紙を書き送ったパウロは自分自身が捕らえられたこともありますから、ローマの兵士に精通していました。彼らの装備や様子を見て、それらをクリスチャン生活に大胆に起用したのです。順に神の武具を見てまいりましょう。全部で6つ挙げられています。


一つ目は「真理の帯」です。帯は着ているものが邪魔にならないようにまとめ、すぐに動けるようにしておく装具です。また、満腹になって動けなくなることがないように革製のものできつく締めあげました。また、帯を締めることはしもべの姿勢を表します。主イエスもたとえ話で「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい」(ルカ12:35)としもべが常に主人に仕えることの大切さを教える個所で帯を取り上げています。また、牢に捕らえられていたペテロも「帯を締めて履き物をはけ」(使徒12:8)とすぐに動いて脱出できるように、まず帯を締めよと命じられています。さらに興味深いことは、ベルトに武器を吊り下げるので、ベルトをしていなければ一切の武具を装着できず丸腰で戦場にいくことになってしまうことです。備えの一つ目として帯(ベルト)を締めるように命じられている理由がここにあります。

―帯を締める― 私たちは常に準備を整え、臨戦態勢でいることです。また、その帯が真理であるとは、腹の底にあるのが黒い思いや苦い思いではなく、真理であるようにということです。いつも真理を中心にし、右や左に揺さぶられない。不正の帯は、私たちを正しい道や方法には導きません。


  2. 胸当て

二つ目は「正義の胸当て」です。「胸当て」は全身を守るのに大切な防具です。心臓や肺、肝臓をカバーし、いのちを守るのと同時に、動きやすくする工夫がなされていました。頑丈な胸当てを着けていても、刻一刻と状況が変わる戦場において動きが取れなければ、敵の標的にされておしまいです。良い胸当ては守ることと動きやすいことを両立させてくれるものです。  ここでは「正義(=義)の胸当て」と呼ばれます。何が悪魔から自分を守るのか。何をもってして、悪魔の策略に対抗するのか。それは、自分の正しさによるのではありません。実に、神のくださる「義」(参照:ローマ1:17,3:22)によってのみ、私たちは守られるのです。たとえば、悪魔が私たちの欠けや罪を指摘してきたら、不安にならないでしょうか。「お前は本当に救われているのか?」「神は罪を憎むお方だから、そのままのお前では不十分だ」「もっと自分で努力して聖くならないといけない」とささやいてきます。しかし、どれほど悪魔から「お前は天国には不合格だよ」と言われても、私たちにはそれをはねのける胸当てがあります。それは、自分は神の与えてくださる義によって救われていることを知っているからです。福音とは「神があなたに与えてくださる義がある」というメッセージです。「あなたは自分自身の力や出来不出来によって救いを獲得するのではなく、神がキリストによって与えてくださる義の衣によって救われる」のが福音のメッセージです。それでこのエペソでも「古い人を、あなたがたが脱ぎ捨て・・・新しい人を着ること」(4:22-24)と教えてきました。神は、私たちをキリストにある者として見てくださいますし、悪魔もむき出しの私たちには楽勝なのですが、キリストに対しては敗北し、逃亡するだけです。だから、私たちは神の義であるキリストを胸当てとして悪魔に対抗するのです。そして、そこには常に勝利があります。


また、良い胸当ての条件が頑丈であることと動きやすいものであることでした。胸当てはそれぞれその人に合わせて作られていました。自分のサイズにあっていないものを身に着けても、守られない部分が出てきたり、動きにくかったりして意味がないからです。すべてを守り、また動きやすいようにカスタムされている胸当て。それほどまでに、神の義に親しくなじむことです。常に救いが神からのプレゼントであることと、まるで自分用に作ってくれた胸当てのようにそれがフィットし、違和感やほつれのない完璧な自分用に胸当て=自らの救いの確信を得られるものであることです。これは教会生活や個人でのディボーション生活をしっかりすることで自分にフィットしてきます。礼拝や交わりの中で救いの確信は強められていきます。


  3. 足

三つ目は「足には平和の福音の備え」です。これは現代の「サンダル」に近いもので、つま先部分は空いていて、かかとと足首を革ひもでグルグル巻きにして履いていました。戦隊として行進することも、戦場で戦うこともできるように造られていました。また、足底には鉄のスパイクが付いていて、どんな地形でも歩けるようになっていたようです。これが「平和の福音の備え」と言われているのは、私たちがこの戦いにおいて何をもたらすのかを示してくれています。聖書の初めから終わりまで貫かれているテーマとは「神の国」です。それは神の支配がすべてにおよんでいて、みこころが実現している状態、領域。堕落前のエデンの園での神と人との関係。人と被造物(自然界)の主従、調和関係。これらは完璧で「見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)のです。ただし、これはサタンの誘惑と人間の堕落、罪によって壊されてしまいました。人間には死や苦しみ、罪の重荷が加わり、労働や出産は苦しみとなり、夫婦をはじめとするすべての人間関係は壊れ地はいばらやあざみを生えさせるようになりました。


しかし、神さまは人と契約を結んで、人が悔い改め、神に立ち返るなら闇の中に住んでいた民は大きな光を見ると、救いを約束してくださいました。自力では自分を救えない人間のために、ひとり子イエス・キリストを送り、救い主として立ててくださいました。主イエスは罪人の身代わりに十字架にかかり、墓に葬られ、死の代価を支払い、三日目によみがえって永遠のいのちをもたらしてくださいました。人は、このキリストを心で信じ、口で告白することで救われます。この知らせこそ「福音」であり、私たちはサタンが仕掛けるこの世の戦いにおいて「キリストが勝利された」「キリストが打ち勝った」「キリストのうちに救いがあります」と平和の福音を届けるために出て行くのです。足に履いているのはどんな戦地や地形にも入って行けるものだと申し上げました。そうです、この福音が通用しない敵はなく、福音を届けられない地域もなく、届けなくてもよい人もいないのです。すなわち、私たちはどこへでも、誰にでも神の支配と救いと平安をもたらす福音の使者として、派遣されていくのです。そうです、エペソ2章で学んだように「神との和解」をもたらす使者として、争いや隔たりのあるところへと私たちは遣わされていくのです。


  4. 盾

四つ目は「信仰の盾」です。この時代の盾はおよそ6種類(6層)もの動物の皮で覆われていたそうです。それは簡単に矢や剣が通過しないように防ぐためで、できるだけ分厚く、軽くすることが重要でした。この盾で一番気をつけなければならないのは、乾燥することでした。皮が乾燥したままだと、次に出てくるように敵が放つ「火矢」によって焼き尽くされ、盾は燃え尽きてしまうからです。そのため、兵士はオリーブオイルを携帯しながら、いつも盾に油をなじませて手入れをしていました(参照:イザヤ21:5「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ」)。そうしてなめされた皮は丈夫で、しなやかで、簡単に刺し通されない盾となるそうです。


その盾をどうにかして突き破ろうと矢を向け、燃やして破壊しようと火を吹くのが悪魔の攻撃です。私たちは祈りが聞かれなかったり、願いがかなわなったり、努力が報われなかったりするとがっかりします。神への信頼が少しずつ奪われていきます。悪魔はそこに付け入るすきを上手に見出します。神を差し置いた欲望的な思いや神に対する否定的な思いに気づいたなら、すぐに消さなければなりません。兵士が盾を磨くように、自分の盾をメンテナンスし、破れがないか、敵の侵入を許すようなほころびはないかを点検しなければなりません。それを怠ると、悪魔の放つ火矢によって、すぐに疑いの火は燃え広がり、自分を守るものがなくなり、命取りとなり、悲惨な結果を招きます。モーセは同胞の民がいじめられているのを目撃し、怒りに燃えてエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めました。彼にとっては怒り、義憤が悪魔の策略に利用されました。ダビデは戦場にいる部下のことを思わず、自分は夕方まで寝てから、王宮の屋上を散歩していました。そこから見えた女性の美しさを見て姦淫の罪を犯しました。彼にとっては優雅な生活、自分の好み、誰からも咎められない環境が利用されました。パウロはクリスチャンであれば男でも女でも縛り上げて連行し、迫害を加えました。彼にとっては律法に熱心なこと、自分の義に熱心なことがとげとなりました。ペテロは、自分は決してイエスさまを裏切らないと断言しました。自分は大丈夫という過信、他の弟子たちよりもうまくやっていけるという慢心がサタンの入り口となりました。私たちにも共通すること、また自分の盾に空いている穴、手入れを怠っている面はないでしょうか。それが一か所でも、一点でもあればサタンはそこを狙って巧妙に誘惑をけしかけてきます。今朝、このみことばがあなたに警告していること、あなたが手をつけて繕うように促していることとは何かをよく探りたいと思います。


  5. かぶと

五つ目は「救いのかぶと」です。かぶとは頭部を守る大切な防具。おでこ、頬、首を包み込むようにカバーされていました。このローマ時代には銅と鉄の合金で組み合わされ、強度は抜群だったようです。また、ヘルメット上部には自軍の紋章が刻まれていました。どこに属しているのかを明確にするためです。そして、このかぶとを最後までかぶっていることが勝利の証しでもありました。戦場では、かぶとの上についている紋章で敵と味方を見分けました。顔がほとんど隠れますから、もし味方が不利になれば、優勢である敵のかぶとを付けていれば自分のいのちを狙われることはありません。私たちはどなたのかぶとをかぶるべきでしょうか。主の与える「救いのかぶと」をかぶります。それは、今は戦いがあっても、最終的にはどなたが勝利するのかを、私たちは知っているからです。なぜなら、クリスチャンは死に打ち勝ったキリストを信じている者だからです。


この6:10-17で3度繰り返されている「堅く立ち」という言葉。それは私たちが全力をふりしぼって、足をガチガチにさせて動かないというよりも、私たちが「救いの岩」に立ち続けることを励ましています。どれだけ力を込めて立っていても、土台が崩れればその上にいる者も流されてしまいます。けれども土台が立ち続けるならば、その上にいる者も守られます。イエスさまにその信仰がなくならないように祈ってもらったペテロは、イエスさまが目の前からいなくなってから、勇敢になりました。そして、イエスさまの見ているところでは三度も知らないと否定したのに、使徒の働き4章では「イエス・キリストの名・・・この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:10-12)と大胆に証ししました。それは、ペテロが救いのかぶとをかぶり続けていたからです。そこには自分の力の紋章ではなく、キリストの力、とりなしの紋章が掲げられていました。自分がだれに属しており、だれが自分を守ってくれ、だれに自分は従うのか。私たちも、この同じかぶと、すなわち救いのかぶとをかぶり、主を誇るものでありたいと願います。


  6. 御霊の剣(17節)

最後六つ目は「御霊の剣」です。実は、これが6つの武具で唯一、相手を攻撃する手段です。はじめに見たように、私たちは「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」と主が教えてくださったとおりに祈ります。むやみやたらに試みに立ち向かうものではありません。それほど強くないからです。主は、私たちが弱いことをご存知なので、自ら志願して試みを受けるような行動を取らないように注意を与えています。それゆえ、ここまでの神が与えてくださるものは、すべて防具・防衛・守りの武具でした。  しかし、唯一ここで積極的、攻撃用の武具を持たせてくださっています。それがこの「御霊の剣=神のことば」です。


この時代は短剣が主流でした。それは接近戦で用いる武具です。長い距離には矢を使いますが、接近線では剣=短剣を使います。ペテロもこの剣でイエスを捕えに来た大祭司のしもべの右耳を切り落としています(参照ヨハネ18:10、ルカ22:50)。そして、この剣とは「神のことば」であると明記されています。みことばによって、悪魔に立ち向かうこと。これこそ、唯一の攻撃、撃退の手段として私たちに与えられている武具です。イエスさまご自身も荒野における誘惑の際、3つの誘惑をすべて「みことば」によって退けられました(参照:マタイ4:3-11、ルカ4:1-12)。

私たちにも日常的な悪魔のささやき、誘惑があります。「もし、神が愛の神であるなら、どうしてこんなことが起こっているのか」「大丈夫。あなたが神を信じているなら何をしたってかまわないよ。なんでも赦してくれるのが神さまなんでしょ?」「謙遜やへりくだりとか何とか言ってないで、もうちょっと自分の力、賜物を存分に発揮してみなさい。そうしたらもっと成功し幸せになる」「大丈夫、そんなことしても死なないよ。信仰だってなくなりはしない」こうした誘惑に対し、イエスさまはみことば=短剣で勝利されました。「短い剣を御霊は与えてくださる」ことは、私たちにとって大いなる励ましです。短くてよいので、切れのある、鋭いみことばを蓄え、携えるのです(日ごとの暗唱聖句はとても有効です)。日頃からみことばに親しみ、よく耕された心の良い地に種をまいていただきましょう。神がそれを成長させ、あなたを信仰の勇士としてくださいます。神のくださる武具をしっかりと身に着け、キリストの勝利を味わう者とさせていただきましょう。


閲覧数:1回0件のコメント

最新記事

すべて表示

「心の嵐をしずめて」

聖書箇所 : ルカの福音書10章38~42節 はじめに 「なんで私ばっかり」と思ったことはありませんか? 家庭や職場、教会でもよく聞いたり、自分でも言ってしまうセリフかもしれません。 大学時代、バイクで遠出するのが楽しみでした。お金をかけない旅ですので、はじめの年は毛布だけ持って行きました。海辺で寝るととても寒いことに気づきました。次の年は寝袋を持って行きました。テントがないと蚊にさされることがわ

「天と地をつなぐ礼拝」

聖書箇所 : ヨハネの黙示録5章:6~14 はじめに 今朝はヨハネの黙示録をごいっしょに見てまいります。 黙示録は聖書の一番最後にあり、神の救済の歴史もこの書で終わり=完成に至ります。黙示録と聞くと、何だか怖そう、意味が分からない気がする、この世とは別物のように感じる・・・と敬遠したくなるかもしれません。確かに福音書などと比べて、とっつきにくい印象はあるでしょう。ただ、神の救いの計画の全体を知って

「唯一の希望」

聖書箇所 : 詩篇22篇:1~5節 はじめに 神の祝福をいただくことは人の根源的な願いです。 神さまに祝福を願ったのに、まったく違う結果になったという経験はありますか? 聖書には、神からの命令と祝福とが対になっている箇所を見つけることができます。 たとえば「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)とか「すべて疲れた人

bottom of page