聖書 エレミヤ書17章14-18節 |
はじめに
礼拝の生活を始め、続けていこうと1月から始めた礼拝・賛美の説教シリーズ、本日は9回目です。今年はイースターが3月31日ですので、4月からは違うシリーズを始めたいと考えています(聖書個所については祈り中です)。
礼拝の生活の秘訣は、いかなるときも信仰を働かせることです。思うようにいかなくても、願ったとおりに進まなくても、そこで主を仰ぎ見、賛美し、また祈る。そのように信仰を働かせることができるように、私たちは互いに磨き、支え、励ます共同体としての福岡めぐみ教会があり、神の家族があり、主の日の礼拝があります。私たちはここで励ましを受け、また必要な悔い改めをし、重荷を負ってくださるイエス・キリストと出会い、完成に向けて歩み出すのです。
神の家族は、互いに祈り合い、さばかず赦し合い、謙遜に仕え合い、聖霊によって心を新しくされ、また一つとされ、キリストがここにおられるのが見えるような姿を体現したいと願います。
そのため、私たちはみことばと祈りに専心できるよう集中します。ともにいることがおっくうに感じることもあるかもしれません。一人の方が楽に思うこともあるかもしれません。けれども、神は教会という神の民を通して私たちに働かれ、自らの弱さや罪に気づかせます。
一人では知ることのなかった自分の意外な姿、性質は、神の家族の交わりに身を置くことで気づかされます。そして、それが成熟のきっかけ、変えられる機会となります。ぜひ、私たちはここで神との交わりを味わいましょう。
例:ポイントをつかむことの大切さ
おいしい料理を食べたとき、何を思いますか?
味がおいしい、見た目もおいしい
どんな人が作っているのかな
やっぱ立地や景色も素敵だな
置いてある花、飾ってある絵もセンスがある
このように思うことはあるでしょうが、しかし、
シェフはどんなメーカーの包丁を使っているか
フライパンのサイズはどんな大きさか
厨房で履く長靴のメーカーはどこか
というようなことをすぐ考える人は少ないでしょうね。
今朝、主なる神はあなたに何を語られるでしょうか。今週、あなたにどのような思いを抱いて過ごすことを願われるでしょうか。主からのメッセージをともにいただきましょう。どうか、一人ひとりの必要をご存知の主があなたに語ってくださいますように。
傷口から祈る
今朝は旧約聖書にあるエレミヤ書になります。旧約聖書は大きくモーセ五書、歴史書、詩歌、預言書に分類することができます。預言とは、俗に言う「予言(例:ノストラダムス「△年〇月×日に地球が滅ぶ)」とは種類の異なるものです。また聖書では「占い、まじない、霊媒、口寄せ、死者への伺い」(参照:申命記18:9-11、1サムエル28章)も禁じられています。これらは、人が偽りの神を引きよせる行為です。
それに対し聖書の預言は「神から預かったことば」です。そして預言者は「神から預かったことばを民に語る者」のことです。天地創造も「神は仰せられた」ことで始まりました。私たちから神にではなく、神から私たちに語られるのが正しい神観です。それゆえ、私たちはもっぱら「聞きなさい」(申命記6:4)と言われます。それは主が語られることの裏返しです。
エレミヤはイスラエルの民に神のことばを語るのですが、人々の反感を買ったり、捕らえられ監視の庭に閉じ込められたり(32:2)と散々な日々を送ります。主のことばを語っても、民はそれを受け入れない。およそ40年に及ぶ預言者生活の大半をのような反応をする人々に囲まれて過ごしたのがエレミヤです。
今朝の個所は、そうした境遇にあったエレミヤの祈りです。17章14節にはこうあります。
「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。」
エレミヤは「癒やし」を求めていました。それは彼が大変傷ついているからです。エレミヤが悲嘆の預言者」とも言われる理由です(レンブラントが描いたエレミヤがあり、その昔美術館で鑑賞したのは良い思い出です)。
エレミヤが嘆き悲しむことになったのは、彼が神のみこころに反したからでしょうか。神に逆らった罰として人々から迫害を受けたのでしょうか。いいえ、そうではありません。エレミヤは神のことばを正しく語ったからこそ、王や人々に反発され、監禁までされました。
これは預言者や使徒、主の弟子たちの特徴です。すべてうまくいくことが祝福された弟子の生涯ではありません。むしろこの地上では表彰よりも迫害を受け、ほめ言葉よりも反感をもらい、感謝よりも軽蔑され、歓迎よりも煙たがられるのが主の弟子です。人の嫌がることをしたからではなく、主のことばを語り伝えたがゆえ、そうした境遇を経験するのです。神のことばを語る者は、たくさんの傷を受けることになります。
そんなに傷を受けるなら、クリスチャンとして生きることは遠慮したくなりますか?きちんと神のことばを伝えるという大事な使命に従っているのに、ひどい目にあうなんて神さまはひどいよ!と怒りたくなりますか?
でも、世の中にはその傷ゆえに誇ることがあります。
たとえば、登山家はケガをしたくないから山に登らないとは考えません。重い荷物を背負って山道を歩き、何カ月も体力の限界に身を置き、強い紫外線によって日焼けをし、凍傷で手足の指を失うこともあります。それでも登山に挑戦し続けることが彼らの喜びです。その傷は、自らが登山家として生きた証しとして、彼らをますます鼓舞するものとなります。登山家の集まりに無傷で美肌の人がいたとしたら、それは一度も山に登ったことのない人です。
登山家がそうであるのと同じように、預言者は神のみこころに従うがゆえの傷を持つのですね。もし、あなたが傷ついているとしたら、それは主の弟子として、クリスチャンとして誠実に生きていることのしるしです。伝道するとき、奉仕するとき、祈るとき、教会に集い続けるとき、交わるとき私たちは傷を受けるのです。しかし、その傷こそ私たちが何者であるかの確固たるバッヂです。嫌なこと、しんどいこと、癒えない傷があるとしても、疑わずに主の弟子として歩みを重ねたいと願います。
2. 癒やしと救いを祈る
エレミヤがそのような傷を受けたのは、彼が神のことばを民に語ったからです。その内容とは、イスラエルの民が悔い改めて主に立ち返らなければ、北から大きな破滅がもたらされるというものでした(参照1:13、4:6等)。時代背景から見ると、ソロモン王以後に南北に分かれていたイスラエル王国は、このエレミヤの時代の約100年前に北イスラエルがアッシリアにより滅ぼされました。
エレミヤが活動している南ユダはまだ存続しています。しかも、徐々にアッシリアが力を失っている状況だったので、人々は「滅びる、滅びると言っているが、そんな力をもった敵がどこにいるのか。お前の言っている預言はたわごとではないか」と相手にしませんでした。それで、民は「主のことばはどこへ行ったのか・・・それを来させよ」(17:15)とエレミヤをののしっていました。
この時代、人々から人気があったのはわざわいではなく「平安」を語る預言者たちでした。破滅なんて恐ろしいことは起こらないし、主は平安を与えますよと告げる預言者たち(14:13)が大人気でした。しかし、彼らについては『「わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている」』(8:11)とたびたびエレミヤ書で指摘されています(6:14)。悔い改めを迫るエレミヤと、そんな必要はないと言う預言者がいました。
これを牧師にするともっとわかりやすいかもしれません。
「皆さんは健康でトラブルもなくずっと安泰ですよ」と言ってくれる牧師と「皆さん、クリスチャンは大変ですよ。迫害や人々からの反感を受けます。緊張する場面にもしょっちゅう立たされます」と言う牧師のどちらを選ぶでしょうか。当然、人間的には聞きやすいことば、自分を気遣ってくれるメッセージを好みます。
決める基準は、あなたにとって都合が良いことかどうかではありません。大切なのは主が何と語っておられるかです。エレミヤ書の時代の人々は、癒やしや平安を語ってくれる預言者を敬い、悔い改めとさばきを語るエレミヤを退けました。平安ですよと言ってくれる方が気楽で自分を見つめ直す必要もないからです。そして、いつも自分に優しい側だけについていれば、格闘の場に駆り出されることも、傷を負うこともなく平穏です。
そのことを知っていたエレミヤですが、「あなたに従う牧者になることを避けたことはありません」(17:16)と神のことばをまっすぐに語る預言者の立ち位置から外れることをしませんでした。それゆえ、心身に傷を負い、耐えがたい痛みを感じています。それは、人々から反感を買うためではなく、民がその姿勢と行いを悔い改め、主に立ち返ることを願っていたからです。
誰でも、嫌われるのは避けたいことです。しかし、エレミヤにとって「神に従う牧者になることを避ける」のはもっと苦痛で恐ろしいことでした。居心地の良さで自分の立ち位置を決めず、ひたすら主に従うことだけを基準としていました。
エレミヤはその活動を実に40年間続けます。40年は人生そのものを表す数字・単位でもありますから、その生涯が傷と隣り合わせでした。それで、今朝の個所では「私を癒やしてください、主よ・・・私をお救いください」と祈っています。傷つきながら、主に祈れる理由とは何でしょうか。「主に従ったせいで、私はこんな大変な目にあっています!」と怒っても良さそうです(私ならそうかもしれません)。
エレミヤは祈るとき、「あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所」(17:17)という確信を持っていました。わざわいの日に、嘆いて終わりなら、祈りは主に届きません。私たちが主のいない世界で悩んだり、ふさぎこんだりするのはサタンの思うつぼです。サタンは、どうにかして神なんて無力だ、神はお前の味方なんかしないぞと私たちに思い込ませることに必死だからです。このことから、私たちも傷ついているのですから、主に祈ることをやめないように、と教えられます。わざわいにあう理由が分からないからこそ、陰謀論に惑わされず、まっすぐに神に癒やしを求めて向かいたいと願います。
3. 神を賛美する
エレミヤは40年間語り続け、祈り続けましたが、もっとすごいのは、その背後にある主の忍耐です。40年は主が一人でも多く悔い改め、まことのいのちを得ることを願い続けていた期間です。「人の心は何よりもねじ曲がっている」(17:9)にもかかわらず、主は忍耐して民が立ち返るのを待っておられました。それでエレミヤは「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないから(哀歌3:22)と告白しています。誰もが、主のあわれみ、忍耐によって救われるのだからです。
イエス・キリストも、民の悔い改めを願い、涙されました。「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。『「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらー。」』(ルカ19:41-42)主イエスが涙を流されたのは、この場面とラザロが死んだときの2回です。
その涙は、神の愛に応えて欲しいという思いにあふれた涙です。ただ怒りを押し殺すような我慢という意味で、主は忍耐をしていたわけではありません。主の心はかたくなな民を見てあわれみを注ぐことでいっぱいです。
今日のタイトルは「賛美と祈り」です。エレミヤはこの祈りの中で「あなたこそ、私の賛美だからです」(17:14)と告白しています。実は、賛美は祈りの中に位置づけられます。祈りが人から神に向かうように、賛美も人から神に向けられるものです。もし、賛美が自分に向いていたら自画自賛になってしまいます。
ここに、エレミヤが生涯を通して神に従うことのできた秘訣があるのではないでしょうか。神の召命に応えて立ち上がり、神のことばだけを語り、どんな境遇にあっても神から離れず、どんなに傷ついても人を呪わず、わざわいの日には主の癒やしを求め、主を信頼して賛美する。
痛みの中でも主の差し出す助けがあります。傷が深い中でも主の癒やしが与えられます。試練のうちにあっても主から脱出の道が備えられます。私たちが罪から立ち返って主に近づき、祈り、賛美、礼拝にその身を置くとき、回復が始まります。問題のただ中でも主の御前に出て礼拝している自分に気づくとき、そこから癒やしが始まります。自分の思いや考えの中で自分を見つめ直すのは自由です。けれども、主の与えてくださるあわれみの中で自分の問題や傷、そこからの立ち直りについて考えるならば、主からの癒やしや解決をいただくことができます。この礼拝、神の家族との交わりがあなたにとって主を知る場になることを願っています。
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