「この一匹の羊を」
- 大塚 史明 牧師

- 2025年11月30日
- 読了時間: 9分
聖書 マタイの福音書18章12-14節
1. 羊と私たち
神さまは聖書をただの堅い書物にはされませんでした。歴史物語や詩文、歌、預言などたくさんのジャンルが聖書には含まれています。今朝の個所はたとえ話です。たとえは、私たちに「そうだ!」と思わせるためのものです。ですから、たとえに出て来る「羊」が「私のことだ・・・」と思わせる説教が、正解だということになります。そのために、羊の特徴を3つあげてみます。
一つ目は、羊は遠くからだと綺麗で白く見えますが、実際に近寄ると茶色で汚れているという特徴があります。私の神学校時代、学園では羊が飼われていました。幾人かの学生がアルバイトで世話をしていました。その羊たちはメエメエと鳴いて集団で過ごします。そして、羊飼いの学生の言うことをよく聞きます。その光景はとても微笑ましいものですが、実際に近寄ると毛はゴワゴワして固まっていて、足だけでなくお腹全体が泥汚れでこげ茶色。顔もかわいいイメージですが、近くで見ると歯や目も鋭くて結構怖いのです。「おー、かわいいね」とすぐには触れない、ちゅうちょしてしまう汚れや怖さがあるのですね。よく「羊の毛をかぶった狼」と言われますが、そのまま「羊の毛をかぶった羊」も怖いものです。これが羊の第一の特徴であり、そのまま人間である私たちの特徴とも言えるのです。
確かに、人は離れていると(程よい距離を保っていれば)嫌なところは見えず綺麗に見えます。けれども、近くで過ごすとイメージと違って驚いたり、少し長く時間をともにするとあんな面があるのだとがっかりすることもあります。そうです、私たちは本性を見せられるほど立派ではありません。人前では良い顔をし、何事もなく取り繕うことがあります。たとえば、待ち合わせをしていたAさんが遅刻して来てこう言います。「ごめんね~。ちょっと他の用事があったのを忘れてて~」。あなたは「全然大丈夫。気にしないでね」と答えるかもしれません。けれども心の中では「この前もじゃない。これで何回目よ!」と怒るのです。表面的には許しても、ほんとうは許していないこともたくさんあるでしょう。また、家族に物事をストレートに言ってしまってけんかになったり、勇気を出して友だちに相談したら引かれてしまったりします。そうして、自分を見せないよう、見せないようにして縮こまっていくのが私たちです。泥や汚れで固まっているのは、羊の毛じゃなく、自分の心なのだと気づかされます。
二つ目は、羊はたえず群れで行動し、常に周囲を気にするという特徴です。映像で見る羊は、そこにいる全員が草を食べているものです。あるいは全員が移動している場面です。皆が草を食べているのに、一匹だけはそうでない羊というのを私は見たことがありません。羊は四方八方から影響を受けやすい生き物です。それが羊の特徴ですが、それは羊がとても臆病だからです。羊は自分が弱いのを知っていて、一人で生きていく力や術もないので、たえず皆と同じ行動をするように努力します。中にはちょっと強気にみんなと違う行動をするような羊もいるかもしれませんが、それも周囲を意識している証拠ですね。「僕だけは他と違うんだぞ、ほら」みたいに。まるで私のようですね・・・。
羊は他の羊を見て、群れでいなければ生きていけないように、私たちも他者を見ることなしには生きていけません。人と合わせないとギスギスしますし、自分一人だけ違っても何も気にしないという強気もそう長くは続きません。私の幼少期は、「昨日観たテレビ」の話題についていけないと仲間外れにされました。そして、わが家には「一週間でテレビ1時間ルール」があったので、皆の話題に合わせるのが大変でした。しかもそのうちの40分は「大草原の小さな家(NHK放送のクリスチャン家族の番組)」を観せられていたので、あとの20分をどうやりくりするのかを大塚少年はいつも考えていました。そして、テレビの話題になると「ドッジボールやる人この指とまれ~」と始めて、ピンチを切り抜けていました。この行動は、私の不安や恐れから来ているものです。皆と違うことが本能的に恐い、同じじゃないことに恐れを覚えるのです。不本意ながら陰口に誘われて加わってしまったり、「これ、みんなやってるよ」と言われて断ることができなかったりもします。それは、私たちも羊のように周囲を気にして、影響を受けながら生きてしまう存在です。今朝はそんな羊のような私たちへのメッセージです。
2. 迷い出て
イエスさまは「ある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら」と始められました。
羊の特徴を知れば、迷い出た羊は絶望的です。羊は、自分だけでは水場も分からず、緑の草のある場所も知らず、自力で帰る能力もなく、迷ったらそれでおしまいだからです。誰かが迎えに来てくれる以外には生き延びる可能性はありません。迷い出た羊、はじめはいつもと違った感じで楽しかったかもしれません。けれど徐々にあたりが暗くなり、他の羊の姿も見えなくなり、何より羊飼いの声が聞こえないと気づいたそのとき、絶望的に鳴くのが精いっぱいです。同じように、私たちもはじめは自分が迷い出ているとは考えません。自分が羊のように弱い存在だと認められません。どちらかと言うと、神さまなどいない方が楽で自由に感じるし、自分の人生を邪魔されないで生きられると思うのではないでしょうか。かえって神さまなんていたら窮屈になるからいらないと考えます。
本当に、私たちは迷わないのでしょうか? 私たちは「正しいことが何であるのか」はよく知っています。愛すること、赦すこと、寛容であること、忍耐すること。けれどもそれらが正しいと知っていても、それを行うことができません。愛したいのにぶつかり、赦したいのに過去にされたこと、言われたことの悔しさが消せず、忍耐したいのについカッとなってしまう。これらは、向かうべき場所があり、なすべきことがあるのに、できないで迷い出ている私たちの状態です。
羊には羊飼いが必要です。そして、私たちには救い主が必要だというのが、たとえの導入が問いかけていることです。私たち自身は人間で、神ではありません。全能でなく、限界があります。永遠でなく、はかない地上での命しか持っていません。このたとえはさわりから、私たちが弱いという以上に、神さまから離れて生き、迷い出ていることを示しているのです。私たちは神さまから離れているので自分勝手で、平安がなく、心配性で、傷つきやすく、焦り、迷うのです。これらはすべて、私たちが神さまから離れてしまっているときの生き方です。
3. 捜して見つける神
そんな絶望の場面から話始められたイエスさまですが、すぐさま続くのは
「その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹の羊を捜しに出かけないでしょうか」です。迷い出る羊を捜しに出かける羊飼いに焦点が移ります。それも、「九十九匹を山に残して」捜しに出かけます。たとえ話にはイエスさまが私たちに教えたいポイントと、そうでないポイントがあります。ここで残された九十九匹の羊がかわいそうとか、羊飼いは無責任だ、えこひいきだと結論づけるのはこのたとえの中心ではありません。ここでのポイントは羊飼いと一匹の羊です。そもそも、九十九匹をちゃんと導けるのですから、この羊飼いは立派な羊飼いです。それでも、迷い出る羊がいた。そして、羊飼いは面倒がらず、見捨てずに捜しに出かけるのです。
次の13節を読むと「もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます」とすぐ結論になります。どれくらいの期間だったのかは書いていません。その必要がないからですね。なぜなら、この羊飼いは見つけるまで迷い出た羊を捜してくれる人だからです。迷い出たということは、手のかかる羊だということです。
その羊が行きそうな場所を捜します。この聖書の舞台となった土地は荒野です。荒涼とした石と土が広がり、岩場がある厳しい地形です。そこを捜しに歩くのは容易な仕事ではありません。名前を呼び、心配しながら、ここにいるか、あそこにいるかと羊を捜します。そして、その姿こそ神さまの姿なのです。神さまは、あなたがいなくなっても、行きそうな場所に捜しに来てくださる方です。怒りっぽい人には、キレて失敗して後悔しているその時に、捜していたよと見つけに来てくれます。誰もたどり着かないような、誰も来てくれないような、誰も声をかけてくれないようなそんな場所にいるあなたを、神さまは捜して見つけてくださいます。
見つけるというのは、最後まであなたをあきらめない、見捨てないということです。これは口や文字ではすらすら言ったり書いたりできますが、実際にはとても難しいものです。ある人と食事を一緒にしても、その人の食べるのが遅かったらイライラするかもしれません。散歩をして歩幅や歩調が合わないこともあります。また、相手の話しを聞くことについても、最後まで熱心に聞くのは難しいことです。災害ボランティアの傾聴の学びで、講師が教えてくれました。人の話しを聞いていて、途中でアドバイスをするのは、「もうそれ以上あなたの話しを聞くのに耐えられないサイン」だそうです。聞いていて、良かれと思って、こうしたらいいんじゃないと教えてあげようと思ってアドバイスをするかもしれません。決して上から目線の発言ではないかもしれません。けれども、相手の話しを最後まで聞くこととは違うのだということです。おそらくその場合、あなたは「良い聞き役となり、アドバイスまでしてあげた」と感じていても、相手は「最後まで話しを聞いてくれず、途中で切り上げて説教までされた・・・」と感じているかもしれません! そのくらい、最後まで相手に尽くすのは大変なことです。そして聖書は、神さまの愛がまさに、最後まであなたをあきらめない、見捨てないものだと教えています。
神さまは、私たちの弱さをご存知です。私たちが強情で強がりなのもご存知です。人からは見えない汚さを持っているのももちろんご存知です。本当は臆病で、傷つきやすく、人をなかなか赦さない者であることもご存知です。そして、その上であなたを捜しに出かけてくださる方です。神さまは、迷い、荒ぶる私たちをそのままにはしておかれません。自分勝手に迷い出たのだから、その責任を取らせればいいと放り出されません。九十九匹を残してでも、一匹の羊を捜し出すためにその身を起こし、行動に移してくださいます。そして、あなたが試みに会うときには、その試みの場所まで来てくださいます。あなたが苦しんでいるときには、その苦しみの場所まで迎えに来てくださいます。あなたが、すべての人を拒絶してふさいでいるとき、優しく名前を呼んでそばに来てくださいます。そのとき、私たちは人とは違う神さまの愛を知ります。わかってくれる人が誰もいないその場所で、神さまだけはあなたを見つけ出してくださいます。あなたの傷も痛みも一緒に感じてくださいます。今年のクリスマスに向かって、ぜひ、この神さまの愛を思いめぐらし、神さまがあなたを捜し出す声を聞き取ることができますように。 ■

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