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「価値」

聖書 ルカ福音書 7章36-50節


  1. 罪を持っていても(vv.36-37)


今朝は食事の場面での出来事です。この日、主イエスを自宅での食事に招いたのはパリサイ人でした。主イエスは、当時の社会で敬遠されていた取税人や、のけ者にされていた罪人たち(例:取税人5:29,15:2)とともに食事することをいとわれませんでした。「あの人といたところを見られたら、神の国の働きができない」とは考えませんでした。そうしたイエスを見て、パリサイ人や律法学者たちは文句を言うのですが(15:2)、そんな彼らとも分け隔てなく付き合いをされました。少し先になりますが、14:1では「パリサイ派のある指導者の家に入られた」とあり、今朝の場面も「あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いた」ため実現した食事会でした。ある意味、イエス・キリストに近づく人には、立場や職業、派閥や性別、大人や子どもといった壁がないことが分かります。おそらく、イエスご自身にそんな近寄ってもよいオーラがあったのだろうと想像します。


先週、黄砂がひどかったせいでしょうか、私は頭痛で過ごしていました。ちょうどエステル会の日で、掃除や準備の頃から「今日の牧師は機嫌が悪いのだろうか」と感じていた方がいたそうです(!)。よく見ていてくれるなあという感想とともに、きっと「今日は近寄るな」「ちょっと話しかけないで」というオーラをまき散らしてしまっていたのかもしれません。

それを考えると、イエス・キリストの周りにこんなにも多種多様な人が集まっていたことは、話しやすいオーラ、近寄っても拒まれない雰囲気や魅力があったのだと思います。そうでないと、陰ある女性や小さな子ども、偉い学者や病を持った人などが近づくことはあり得ません。


今朝、そうして近づいてきたのは「一人の罪深い女」です。「その町に」とあるので、町中の人たちがその女性の罪深さを知っているような書き方です。おそらく、普段パリサイ人の家に行けるような存在ではありません。パリサイ人がそのような人を家に入れるはずがなく、互いに話をすることさえしなかった間柄です。それは、パリサイ人から見れば、罪深い女性と関わることは自らの身を汚すことになるからです。しかし、そこにイエス・キリストがおられれば、こうした両者も接点ができています。


この女性は「うしろからイエスの足もとに近寄り」ます。もちろん、自分は呼ばれていない食事会ですので、そ、もそもがおよび出ない存在です。自分は町で名の知れた罪深い人間。それでも、主イエスに近づきたい。しかし、堂々と迫ることができないので、今そっと「うしろから」近寄りました。この福音書を記したルカは、もっとも宗教的な聖さを求めるパリサイ人の家に、宗教的にも社会的にも汚れているとされる女性のいることが、神の国の到来を表しているのだと丁寧に描写している場面です。

教会も、主イエスの周りに色々な人がいたように、あらゆる人々がいると素晴らしいですね。ぜひ、自分と同じような人はもちろんのこと、自分とはまったく違うタイプの人も加わること、歓待することを祈り願ってまいりましょう。よく、牧師の会合に行くと「あの〇〇牧師は変わった人でね」「この中で私だけが常識人」というような会話をします。問題は、みんな「自分がまとも」だと思っている点です。ぜひ「あれ、自分はちょっとおかしいかも」「変わってるかも」と気づくくらいになってみてください。そうすると、教会の雰囲気が排他的ではなくなり、主がこの教会になら任せても良い、とあらゆる人を送ってくださるのではないかと考えます。



  1. 愛を注ぎたいなら(vv.38-46)


さて、この女性は主イエスに近寄ると、感動からか涙を流しました。その涙はイエスの足にしたたり、それを髪の毛でぬぐいます。それから足に口づけをして香油を塗りました。一連の動作が書いてありますが、同じことが今ここで起こったとしたら、異様な空気になるでしょうね。あり得ないことですが、もし私が話している間に同じことをされたら、足を引っ込めて困惑し、「やめてください」と叫んでしまいそうです。ただ、このときの主イエスの反応は何も記されていません。そのかわりに、この女性と彼女のすることをじっと見ていた人=家の主人であるパリサイ人のシモンの胸中が明かされます。

彼は、イエスさまが預言者だったらこの女の素性を知っているはずであり、「罪深い女よ、わたしにさわってはいけない」と正しい言動をするのではないかと考えていました。しかも、それは彼の心の中で思っていたことです。


このとき足に塗られた香油は女性にとっての大切な宝です。両親は女の子が生まれたら、嫁入り道具として香油を渡す準備を始めるそうです。それは安価ではなく、非常に高価なものでした。本来、香油は、花婿に迎えられるとき、花嫁である自分に注いで聖めるものです。「石膏の壺」に入った香油は代わりのフタが付いておらず、一度開けてしまえば、全部注がないといけない造りです。そんな香油を一振りではなく、おそらくすべてを主イエスのために使ったのが、この女性の行為です。


主イエスは「彼女の方を向いて」シモンに「この人を見ましたか」と言われています。これは、シモンに対する痛烈な皮肉です。シモンは彼女のことも、彼女のしたこともすべて見ていました。それにもかかわらず主イエスはシモンに「この人を見ましたか」と問われます。それは、シモンは彼女を見てはいても、本当には見ていなかったからです。彼女を「罪深い女」としか見ておらず、「こんな汚れた女性からされてこのイエスは平気なのか」とこの場面を表面的にしか見ていませんでした。その振る舞いの背後にある彼女の心の内は何も見えていませんでした。

すると主は、一人は500デナリ、もう一人は50デナリの借金を帳消しにされたたとえ話をされました。「二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょう」(42節)と質問されます。シモンは「より多くを帳消しにしてもらったほう」と答え、その判断は正しいとされました。


ここでは、何がポイントになっているのでしょうか。この罪深い女の罪は500デナリで、パリサイ人の罪は50デナリなので、両方赦されるなら、女の方がたくさん愛するようになりますよね、ということを私たちに教えたいのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。なぜなら、本来私たちの罪はそのように比べることなどできないからです。あの人より自分の罪は少ないから大丈夫だ、などと言えないのです。もしそのように、人と比べて自分の罪が多いとか少ないとか考えるのであれば、私たちはパリサイ人と同じことをしています。彼は自分とほかの人を比べて自分の罪が少ないことを誇っていました。しかし、私たちはAさんが500デナリの大きな罪の借金があり、またBさんは50デナリの罪の借金しかないと計ることはできません。実は、人間には誰もが自分の力では支払うことのできない途方もない借金を抱えているからです。シモンにも「罪深い女」にも、そしてここにいる私たちにも、自分の力では償うことのできない罪がある。

それゆえ、主イエスのたとえ話で「一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ」の借金していたというのは、「罪深い女」とシモンの罪の大きさが比べられているのではなく、自分の罪にどれだけ気づいているかが比べられているのです。罪の大小ではなく、罪の気づきという点においては、彼女はシモンより10倍以上です。彼女は自分が罪人であることを知っていたのです。具体的にあれこれの罪を自覚していたというだけではなく、なによりも神さまと自分との関係が壊れてしまっていることを悲しまずにはいられませんでした。誰からも罪を指摘されて生きてきました。生きた心地さえしなかったかもしれません。ただ、この主イエスは自分が近寄ることをよしとしてくださいました。

このように、罪を持っている者が近づくことのできる唯一の方がイエス・キリストです。主イエスは、ご自身に近づいてくる者を拒まれません。なぜなら、主は正しい人ではなく、罪人を招くために来られた方だからです。自分こそ正しいと自認している者は、主に近づくことをしません。ぜひ、この礼拝を機に主イエスに近づきましょう。それは、自らの罪に気づいて、主だけにあわれみを求める礼拝です。


  1. 罪に定められない(vv.47-50)


この女性は主イエスの頭に香油を塗ろうと思っていましたが、結局、主イエスの足に塗りました。この女性は初めから主イエスの前で泣こうと思っていたわけではありませんが、思わず涙がこぼれたのでしょう。心を開ける方がそこにおられたからです。


次に印象的なのは、香油が足に塗り込まれた主です。しばらくの間、イエスさまの足からは良い香りがしたことでしょう。それが女性ならまだしも、男性であり、おそらく前の職業は大工でしたから、体格の良い壮年が花嫁の付ける香水をプンプンさせているようなものです。それは恥ずかしいことではありませんか?それは大きな迷惑ではありませんか?それはちょっとした誤解を招くのではありませんか?しかし、主イエスは、この女性のしたことすべてを受け止められました。私は、ここに非常な慰めと驚きを感じます。主イエスは、私たちのするどんなことも受け止めてくださる方だからです。主イエスは、私たちが主にすることを否定なさいません。他の個所では「世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」(マルコ14:9)と言われました。こういう方にこそ、私たちは奉仕ができるし、自分をささげられるし、心底信頼でき、すべてをお任せできます。


この女性に、主イエスは「あなたの罪は赦されています」と言われました。この女性が、いきなり聖く正しい人間になったとか、罪深い女と呼ばれなくなったわけではありません。これは「神はあなたを罪に定めない」という意味です。

さらに、主イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われました。「安心して行きなさい」は当時の別れの挨拶(祝福)です。「平安(シャローム)の内に行きなさい」とも訳せます。罪による責めや重みに苦しみ、罪責感がのしかかる中でも、ひたすら主イエスをみつめ、主イエスのところへ飛び込んでいく者たちに平安が与えられるのです。その平安は、私たちをまるごと受け止めてくださる主イエスのもとで生きられることです。


この新しい週、なお罪に苦しみ、罪への意識に苛まれても、それにまさる平安が主イエスとの交わりに生きることでもたらされます。主イエスとの交わりの中で、私たちは自分の罪に気づかされ、与えられている赦しに気づき、その赦しの恵みに応えて主を愛し、隣人を愛していきます。主に近寄る者、主を礼拝する者、主にささげる者にかけられる声、祝福は「あなたの罪は赦されています・・・安心して行きなさい」です。


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