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「カミングアウト」

聖書 ルカの福音書8章43-48節


1.隠せない汚れ


今朝は、アメリカのバージニア州リッチモンドにあるノースランバプテスト教会から、宣教チームをお迎えしています。ジョナサン宣教師の母教会になります。リッチモンドはホワイトハウスから約2時間南下した所です。長旅を経て、こちらの宣教においでくださいました。ノースラン教会のモットーは「すべての人々がキリストに完全に献身するように届き、整える」です。宣教に情熱を注ぐ素晴らしい教会のメンバーとともに過ごせますことを感謝します。私たちも、大いに良い刺激を受けましょう。


さて、先ほど朗読した聖書箇所ですが、二つの出来事が重なって書かれています。8章40-42節と49-56節が会堂司ヤイロの娘の出来事、そしてその途中43-48が長血の女の人の出来事です。ヤイロの娘についての記事は中断される形になっていますが(これについては次回お話します)、今朝は8章43-48節にしぼってメッセージをいたします。


今朝登場するのは、12年間、自分の病に苦しみながらも常に計画を実行し、お金も注いだ女性の話しです。「長血」というのは、出血が止まらない症状で、女性に起こり得るもの、女性特有の悩みです。そして当時のユダヤ人の社会では、出血中の女性は「汚れている」(レビ記15:25-)と考えられ、隔離扱いされていました。

「触っただけで汚れがうつる」(濃厚接触者)とされていたので、家族と一緒に過ごすこともできなければ、町中を堂々と歩くこともできませんでした。今の時代のように、便利なナプキンが売られているわけでもありませんので、あふれ出る血を隠せません。必ずどこかに滲み出てしまうのです。ただ血が止まらないというだけではなく、「汚れている自分」を隠すことができず、人に知られてしまいます。汚れを隠せるのであればこれほど悩むことはなかったかもしれません。そのまま隠して生きられるからです。しかし、この病は隠して生きることを許してはくれませんでした。容赦なく、汚れは表に現れ、人目につくのです。それが彼女の痛みでもありました。身体もうずき、心もむしばまれていく。どうにかこの病気を治したいと思い、最高の治療を探し求めましたが、無理でした。


この女性が抱えていたのは、隠しても、隠しても、「汚れている」というレッテルを剥がすことができない悩みです。そして、これは私たちと無関係ではありません。私たちはみな、「誰かに知られたら困る」ことがあります。それを知られないように、あるいはじょうずに隠して生きています。それが隠せることであれば、気にしないで過ごせるかもしれませんが、もし、何をしても隠せないことであれば、四六時中それに付きまとわれ、振り回され、縛られて生きなければなりません。隠したいことが隠せず、周りの人に知れ渡ってしまうというのは、私たちにとって本当に生きづらいことです。この女性は12年間「医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった」(43節)ことがそれを証明しています。残念ながら、どんな優秀な医者も、どれだけお金を積んでも、この病は治癒できませんでした。そして、この隠しても隠せない病を、聖書は「罪」と呼びます。


7週間、アリエルとレイチェルがしてくださった英会話教室には、聖書を読んだことがない、神について初めて聞く方がたくさんおられました。そして、創造主なる神がすべてを知っておられること、私たちは人間には隠せていても、神さまには隠せないことがあること。それが罪だと学んだとき、クラスの参加者は驚いていました。そして、自分の中に思い当たることがあると分かち合ってくださいました。人には見られずにいても、神さまは見て、知っておられること。そして自分には見られたら不都合な思いや行いがあること。これらは、イエス・キリストの与える救いを理解する上で大切なポイントです。


2.お互いの求め


財産も人とのつながりもなくなった彼女の最後の望みがイエス・キリストでした。主イエスが来られたとき、彼女は「うしろから近づいて、その衣の房に触れ」ました。12年間、「汚れたやつめ、近づくな!」と人から言われ続けた彼女が、群衆の中に入って行くのには、大きな勇気がいったことでしょう。誰にも気づかれないようにと、おびえながらひっそりと近づいたのではないでしょうか。

彼女が触れた「衣の房」とは、イスラエルの民が主の命令を思い起こすために服の裾の四隅につけるよう、神が命じられたものです(民数記15:38)。この場面で女性が決死の覚悟で触ったのは、衣の房=神のことばだったのです。彼女は最後の望みを、神の力にかけました。それが、主イエスが言われた「あなたの信仰があなたを救った」(48節)という信仰の姿です。何も持っていない彼女ですが、彼女は信仰を持っていました。「人にはできなかったことが、神にはできる」ともっとも低い姿勢で這いつくばって主の前に出て来た信仰です。この信仰により、彼女は癒されました。


ここまで、彼女の計画通り隠れて物事は進みましたが、予想もしなかった展開になります。主イエスが「わたしにさわったのは、だれですか」(45節)と聞かれたのです。こんな大勢の人がいるのだから、誰がさわったのかを知ることなんてできないと弟子のペテロは言いますが、主イエスは「自分から力が出て行くのを感じ」(46節)たと続けられます。彼女が隠れたつもりでいても、イエスさまはそれに気づいておられるのです。現在、世界の人口は80億を超えています。その中のたった一人(自分)がイエスさまに近づいて触れたなら、どうなるでしょう。はい、ここで主イエスが、大勢の群衆の中からこの一人の女性に気づき、足を止めて、力を使ってくださったのと同じように、たった一人であっても、あなたの求めや祈りに、主イエスは気づいてくださいます。

彼女は癒やし求め、ようやく本物を見つけ、そのまま帰ろうとしていました。彼女の目的はひそかに達成され、終わろうとしていました。しかし、見つけたのは彼女だけではありません。実に、主イエスも真の信仰者を見つけたので、彼女をそのまま帰そうとはされませんでした。主イエスはご自身の力、ことば、愛に対する応答を待ち、期待されるのです。誤解を恐れずに言えば、イエス・キリストはご自身の愛に対する聖なる見返り(応答)を求めておられるのです。


3. 新しい生き方


すると、彼女はもう「隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し」理由と癒やされたことを「すべての民の前で話し」ました(47節)。汚れているとなじられ、人前に出ることなど考えられなかった彼女。うしろからそっと近づき、主イエスの顔を見ることなく立ち去ろうと考えていた彼女。「主よ、助けてください」と主イエスにさえ言えなかった彼女。それなのに、今やすべての人の前で話すはめになってしまいました。しかし、これは彼女をさらすためではありません。彼女の病だけでなく、生き方をも救い出すために、主イエスがなされたことです。


主イエスは「娘よ・・・安心して行きなさい」(48節)と言われました。いきなり「娘よ」と呼んだのです。

これは彼女が主イエスにとって娘のような年齢だったからではありません。彼女には夫はいなかったかもしれませんし、子どもを産めなかったかもしれません。また、病のせいで、親しい付き合いをする家族や友人は一人もいなかったことが想像できます。だからこそ、彼女に「娘よ」と語りかけたのです。少なくともこの12年間はとっても孤独だった彼女に、「娘よ」と語りかけられました。それは、「あなたはわたしの家族だ」ということです。「病気が治ってよかったね。元気でね。達者でね」と言いたくて呼び出したのではありません。主イエスは、彼女に「あなたはわたしの家族だよ」と伝えたかったのです。大勢の前で「あなたはわたしの大切な娘、家族だ」と認めてくださったのです。


彼女にとっての救いは、単に病気が治ることではありませんでした。彼女には家族が必要だったのです。また、人前に呼び出され、告白をさせられ、話を打ち明けたことで、今後、彼女は人前で生きるようになりました。ここで、主イエスに引っ張り出されなければ、これからも隠れて生きていたことでしょう。もしかしたら、病が癒やされたことさえも、黙っていたかもしれません。それは、それまでの彼女の生き方がそうだったからです。周囲の人々の彼女を見る目がそうだったからです。「汚れた者」「近寄るな、離れてくれ」「あなたと関りを持つつもりはない」いつもそういった目を向けられていました。

そんな彼女が「わたしの娘よ」「わたしの家族よ」と言われ、その後の生き方も変えられました。これが真の救いです。彼女は、二度と主イエスに会わないつもりでしたが、主イエスはそこで終わってほしくありませんでした。主イエスはこの女性を神の家族にしたいと願い、神の子どもとして生きていってほしいと思っておられました。主イエスと関係なくひっそりと隠れ、黙って生きるのではなく、娘として、家族として生きてほしかったのです。


このあと、彼女はここで話したように、イエス・キリストがどれだけ自分に素晴らしいことをしてくださったのか話し続けたでしょう。ただの病ではなく、自分の生き方さえも変えてくださったことを証ししたでしょう。自分がどれほど頑張っているか、よくやって来たかではなく、主がどれほど愛してくださったか、愛してくださっているか、いかに素晴らしい方かを伝えたのです。


自分のことではなく、イエス・キリストを伝え知らせる。これが宣教です。そして、それなら、私たちの誰もができるのことです。二度と主イエスと会うつもりがなかったこの女性は、病気が治り、イエス・キリストと新たな関係をスタートさせました。私たちもこの夏、今週から、いえ本日からイエス・キリストとの新しい関係に生かされましょう。どうかあらゆるところで、キリストの愛の深さ、大きさ、偉大さ、確かさを宣べ伝えられますように。


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