「あなたは神の宝」
- 大塚 史明 牧師

- 7月27日
- 読了時間: 8分
聖書 イザヤ書43章4節
1.本当の価値がわからない世界【沼】
自分の価値はどのくらいだと思いますか?
自分で価値があると思っている(好き、肯定的)
周囲の決める自分の価値が、自分の価値である(人の目が気になる、自分で決められない)
才能、友だちや人間関係の数、お金や物、職業、 生まれた土地や住んでいる場所などで価値を測る
学校や会社では「〇〇できる子に育てます」「社会に役立つ人材を育てます」というスローガンのもと、様々な教育や訓練がなされます。しかし、それだと何かができるから価値がある、誰かの役に立っているから価値があるということになります。もしそうでない場合は価値がない=無価値、あってもなくてもどうでもいい存在になります。これは、本当に正しい価値の測り方でしょうか。また、こうした社会や学校や家庭に生きることは、人間(自分や子ども)を幸せにするでしょうか。この世界では、私たちは自分の本当の価値が分からず、それを探し求め、迷い、惑わされ、もがいて生きています。私たちの世界は、自分の価値が分からなくなるほど虚しく、混乱した世界です。できることが多いうちは褒められたり、役立つ人と評価されていたのに、病気や障害、老化などによって、価値が減ったり、なくなってしまった気にもさせられます。本当にこれで良いのでしょうか。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い」
これは、聖書のことばです。神は「あなたは高価で尊い」と言っておられます。私たちには、自分でも他人でも社会でもなく、神に価値を決めてもらう生き方があります。「あなたは高価で価値がある」と言われるために、何の条件もありません。「いい子だから」「字が上手だから」「みんなに優しいから」という条件付きではない価値の付け方を、神だけはしてくださいます。ただひたすら、神はあなたに向かって「あなたは高価で尊い」存在として見てくださっているのです。
神が「あなたは高価で尊い」と言われるのは、神は絶対的価値観であなたを見て、評価し、取り扱ってくださる方だからです。「絶対的価値観」とは、あなたが何かできる、何かをしたといった条件や他者との比較で、あなたの価値が変わってしまうことはありません。
反対に「相対的価値観」というものがあります。これは〇〇ができるからという条件や、あの人に比べたら優れているという比較によって価値が付けられるものです。
社会や学校、家庭は、相対的価値観であなたを評価(格付け)します。つまり、これは変動制なので、いつも頑張らなければならないし、失敗すれば落ち込むし、人との比較の中で焦ったり、自慢して傷つけたり、ねたんだり、のろったりして生きていかなければなりません。
絶対的価値はあなたに不変の価値を付け、平安を与え、競争から解放してくれます。相対的価値はあなたに不安定な生き方、心配を植えつけ、競争や勝ち負けで自分や他人を評価させます。どれだけ頑張っても、何を達成しても、いつまでも真の平安が得られないのは、相対的価値観で生きているからなのですね。驚くかもしれませんが、ぜひ「あなたは高価で尊い」と無条件で言ってくださっている神の絶対的価値観を受け入れてみてください。すると、次第に自分のことも、子どものことも、他人のことも同じように絶対的価値観で見て接することができるようになります。
2.価値は造った者が決める
絶対的価値観を教えるために、聖書は私たち人間の価値をお金にたとえています。(例「なくした銀貨のたとえ話」ルカ15:8-10)。人間の価値をお金にたとえるなんて意外に思われるかもしれませんが、お金の仕組みを考えるとよく分かります。お金はそれを製造した人(国)が価値(金額)決めます。新札でも旧札でも、新品の硬貨でも古びた硬貨でも「同じ価値」です。これは、造った者がその価値を最初に決めているからですね。見た目にはどんなに汚れていて、しわくちゃで頼りなさそうに見えても、お金の価値は変わりません。十円、百円、千円、一万円といった具合に、最初からお金には価値が付けられているからです。これは絶対的価値観です。
そして、私たちがお金にたとえられるのは、私たちも、神によって造られた存在だからです。私たちの価値は造った神が決めます。私たちが自分やお互いに価値を付けようとするのは間違っているのですね。そして、私たちはみな、神によって造られた存在なので、どのような状況、状態であっても非常に高い価値があります。神は、私たちを価値あるものとして造り、今も大切に思ってくださっています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」といわれることは、厳しい現代社会に生きる私たちにとって宝です。
実は、神以外に、こんなことをあなたに言ってくれる人はいません。そして聖書を開くなら、神があなたに語りかけてくれます。この夏の英会話教室、先週の英語プログラムを通じてみなさんに伝えたかったのは、このことです。そのためにアリエルとレイチェルは2カ月以上、ノースラン教会チームは12日間の犠牲を払って福岡へ来てくださいました。あなたが、聖書=神のことばを聞いて生きるために。
さらに、お金はひっそりと山奥にあったとしても、紙切れや遊び道具と同じで価値を失います。同様に、私たちも神から離れると本来の価値を失ってしまいます。最初に見たように、この世は、社会に役立つ人だから価値がある、お金や地位がある人だから価値があるという間違ったものさしで人間に価値を付けるからです。それゆえ、私たちは創造主である神のもとに帰る必要があるのですね。人は、造ってくださった神のもとに帰ってこそ、真の価値と正しい人生観、自己肯定感をいただいて生きることができます。人が、創造主のもとへ帰るならば、喜びと平安とが与えられます。私たちは、世にあるモノでは満たせない部分を持っています。この部分は神にしか触れることができず、神にしか満たすことができません。聖書は、私たちを間違ったもので満たそうとする沼から救い出すことができます。「聖書はそんなことを言っているんだ、神さまに愛される生き方があるんだ、教会にいる人と過ごすとなんか新鮮・・・」といった印象を持っていただけたなら、あなたが神を基準にして人生を歩み直すきっかけになるのではないでしょうか。ぜひこの夏だけの経験に終わらせず、続けて教会や聖書、クリスチャンとのコンタクト、関係を持ち続けることをお勧めいたします。
3. 価値を輝かせて生きる
最後の質問です。お金の価値は、買ったものでよりはっきりします。ある人はお米、ある人は車、ある人はお出かけや旅行、ある人は学費や教育費に使います。それによって、お金の価値が目に見えます。先週、誰とは言いませんが、大量にポケモンカードを買った人たちがいました。子どもだけでなく、大人も嬉しそう。
カードを開けるときは、手袋までしていました。私は、カードの価値が分からないのですが、彼らの表情を見ていたら、ポケモンカードがどれほど価値のあるものなのかが分かりました。また、手袋をして開封していたことも、カードの価値の高さを物語っていました。
さて、私たちはどうでしょうか。私たちも価値ある者です。非常に高価で、尊い存在です。その私たちは、ただ存在するだけでなく、何に使われるかで、価値がさらに輝きます。もし、あなたがいつも文句ばかり言っていたり、人生はつまらないなあと嘆いてばかりいたら、あなたの価値をそういったものに使ったことになります。本来は、もっと価値ある者なのに、使い道が間違っているので、価値自体も低いように感じてしまうのですね。
逆に、人生でとっても苦労することもあります。病気のこと、家族のこと、お金のこと、勉強や仕事のことなど。私たちの人生の半分は苦労で出来ているのかもしれません!しかし、それはあなたの本来の価値を、神が使おうとしておられると言えないでしょうか。誰にとっても幸せでハッピーなことであれば、誰にだってできます。辛いこと、難しいこと、試練は避けたいのが本音です。しかし、ずっとスムーズな人生は誰にも用意されていません。子どもには子どもの悩みがあり、親には親の戦いがあり、年配者には年配者の葛藤があります。
もし、あなたが「人生は辛い」「なんで自分だけ」「いつ脱出できるんだろう」といった悩みや戦いがあるのなら、それはあなたの尊い価値を使っている証拠です。簡単なことではなく、難しいことのためにあなたが使われているなら、それはあなたに高価で尊い価値があるからです。安物ではなく、高価なものに使われているからです。簡単に手に入るものではなく、苦労を重ねて宝になるもののために、あなたは使われているのです。
教会のシンボルは「十字架」です。それは、神が私たちのために使った価値を表しています。十字架は、イエス・キリストが最期に死なれた場所です。神は、もっとも大切なひとり子であるイエス・キリストを、私たちのために十字架につけてくださいました。そこに、私たちの価値があります。あなたは、神がひとり子であるイエス・キリストを十字架につけてくださったほどに価値があり、愛されているのです。どんな身代金よりも高い価値を払ってくださいました。それで、十字架を見ると、私たちは、神の目にうつっている自分の価値がわかるのです。神が、私たちのために支払ってくださった代価、あなたにはそこまでの価値があるのです。あなたははそれほどまでに愛されているです。あなたが世にあるものではなく、神によって満たされることを、神さまは願っておられます。ぜひ、神の愛、神がイエス・キリストを犠牲にしてまで買い戻そうとしているあなたであることを見つけ、気づくこの礼拝であるようにと願います。

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