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「救いのパン」

聖書 ヨハネの福音書6:47-51


1.死の道


「人が死ぬ瞬間の5つの後悔」(ブロニー・ウェア、オーストラリアの緩和ケア病棟に勤務)という本があります。多くの方々を看取ったその人が、人間が死ぬ時に後悔することは次の5つにまとめられると記しています。


  1. 自分に正直に生きればよかった

  2. 働きすぎなければよかった

  3. 思い切って自分の気持ちを伝えればよかった

  4. 友人と連絡を取り続けていればよかった

  5. 幸せをあきらめなければよかった


これらの問いかけは、今生きているうちに考え、そうだと思ったら考えを改め、行動に移すと良いとされるものです。1.「もっと自分に正直に生きればよかった」とは、「他人の期待に答えて生きる必要はない」と言い換えられます。特に日本人の美徳の一つは「他者を思いやり、気づかう」ことにあります。はっきり物を言わない、遠慮深い、恥ずかしがり屋と言われることもありますが、その根底には、自分だけのことを考えられない性格があります。良い意味でも悪い意味でも「他者がどう思うだろうか」を考えて行動するのが日本文化の特性の一つです。

ちょうどバランスよく、自分のことも他者のことも考えられると良いのですが、「誰にとってもちょうど良い人」という人間は存在しません。自分を優先すれば隣人にしわ寄せがいき、Aさんの意見に合わせればBさんの意見に合わなくなることもあります。他のリストにある「働きすぎはよくないからいつも自分だけ早く帰る」ことはできないし、「思い切って自分の気持ちを伝えたら引かれた」なんて経験も大いにあり得ます。今から後悔しないように切り替えて生きられれば良いですが、なかなかそうもいかないなぁというのが本音です。


なぜ、始まりから「死ぬ」ことをお話したかというと、本日のテーマが「いのち」だからです。「人は死に向かう存在である」と提言した学者がいます(ハイデッカー、20世紀最大の哲学者と呼ばれる)。人間はいつか、確実に死を迎えます。必ず死ぬことを前提に、自分の生き方や存在について考えなければなりません。まさに絶体絶命なのが私たちなのです。


今朝の聖餐礼拝で覚えたいことの一つ目は、【主と出会う前の】私たちは死の道を歩んでいるということです。聖書はその私たち、絶体絶命の私たちにも救われる方法があると教えています。私たちは、ただ、イエス・キリストを信じることによってのみ救われます。今朝の聖書箇所の始まりはこのように告げます。


「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47)。イエス・キリストにこそ、永遠のいのちがあります。逆に言えば、「イエスを信じない者は、死の道をまっしぐらに進んでいる」ということです。私たち人間は、自分のことさえもままならず、自分の周囲のこともコントロールすることはできないのに(先週も夕方にバーッと豪雨があり、天気の調整どころか、予測さえも正確にできない)、ましてや人生全体をうまくやっていくことはできるはずがありません。


皆さんの中には電車やバスが好きな方もおられると思います。例えば、列車は「〇〇行」に乗れば、必ず終着駅

に向かい、到着します。「天神行」に乗ったのに唐津に着いた、なんてことにはなりません。そう考えると、恐ろしいことです。私たちは生まれたときから、全人類が「死」という終着駅に向かっています。もうその列車に乗ってしまっています。創世記にあるように、初めの人間が神に背き、神から隠れ、神に背を向け、自分勝手に生きるようになってから、世界はずっと死に支配されています。死の駅に向かって、全員がその列車に乗っています。列車が突然行き先を変えることはありません。死の恐怖によって、一生奴隷としてつながれている(参照:へブル2:15)のです。見過ごせない、笑って済ませられない問題がここにあります。


2.いのちのパン


しかし、今朝のみことばでは「まことに、まことに(原語:アーメン、アーメン)」とイエス・キリストが切り出しており、大事な知らせがあることを私たちに気づかせてくれます。「死に向かう存在」から「永遠のいのちに向かう存在」へと変化を遂げることができる、という知らせです。「死と滅び行き」の列車から「永遠のいのち行き」へと乗り換えることができる。そのためにする唯一のことが「わたしを信じる」という点です。


今朝、覚えたいことの二つ目は、主は永遠のいのちを与えてくださる方だということです。「死」は私たち人間に生きたいという欲求と死にたくないという思い、そして

漠然とした不安をもたらします。私は病気に弱いので、少しでも発熱するとすぐに死を考えます。自分で自分を不安にさせるので、もっと具合が悪くなってしまいます。死を意識すると、人間は不安になりますし、焦ります。

しかし、そこからの救いがある。死と正反対である「永遠のいのち」をもたらすことのできる方がいる。それがイエス・キリストです。49-50節は地上のパンと天からのパンの対比が説明されています。「あなたがたの先祖たち(出エジプト記でのイスラエル民族)は荒野でマナ(パン)を食べたが死にました」(49節)。そのパンは身体の飢えを満たしても、それは地上における限られた時間だけのこと。それを食べて満腹しても、やがて死ぬのです。

しかし、イエスは「天から下って来た生けるパンです。それを食べると死ぬことがありません」(50節)と言われています。この方を信じる者は永遠のいのちを得、死ぬことがありません。


ここでのキーワードは「食べる」です。食べることが信じることのしるしとなっています。今、これから食べるのと同じように確実に、天でも救いにあずかっていることの確証です。実に47節から58節の間に10回も「食べる、食べた」という語が使われていて、「食べる」が、ここでの焦点となる言葉、行為であることが明らかです。


「食べる」ことは、勇気が必要です。妻が何かいつもと違う料理を作ってくれたとき、私はすぐには食べません。それが何なのか聞きます。どんな料理なのか。誰のレシピを見たのか。そして食べるときもありますし、もっとひどいときにはにおいをクンクンとかいで試すこともあります。そんなとき、妻は笑いながら「失礼しちゃうわね!」と言います。そう、食べるのには勇気がいるのです。食べるには、相手への信頼がなければ、決して食べられません。


そうすると、ここで言われている「食べる」とは、単にパンを口の中に入れる、飲み込む、栄養とするということではなく、キリストに信頼しているかどうかが焦点であることに気づきます。

キリストの差し出すパン。また、キリストはご自身が天から下って来た生けるパンだと言われます。さらに「わたしを食べる」(57節)とも言われています。私たちは、この方を信頼していなければ決して食べることなどできません。死に向かう存在である私たちの前に立ちはだかり、「まことに、まことに、あなたがたに言います」と宣言しに来てくださっているキリストのことばをどのように聞いているでしょうか。


「わたしはいのちのパンです」(48節)と宣言なさる方を見つめましょう。今、心のうちを探ってみましょう。自分の中に、キリストに従うことを妨げているものがないだろうか。疑う心があれば、それが溶かされるように主の前に差し出しましょう。迷う気持ちがあれば、一歩先へ飛び込んでいけるように勇気をもらいましょう。キリストなしで生きていくことがどれほど恐ろしいことであり、不安を増大させていくことなのかを教えられたなら、ここで主が差し出されるいのちのパンを受け取りましょう。


3.確かな救い


さらに、主イエスは次のように結ばれます。「だれでもここのパンを食べるなら、永遠に生きます」(51節)。これは主が約束しておられることです。本日の聖餐礼拝で覚えたいことの三つ目は、主イエスを信じる者は、永遠のいのちを持っているということです。主の差し出されるパンを食べるなら、その人のうちには永遠のいのちが宿り、平安、喜びを味わうことができるようになります。これまで食べてもまた飢えるパンをとっかえひっかえしていたのが、ようやく本物の救いのパンにあずかることができるようになります。


聖書が一貫して教えているのは「あなたは自分のことを愛しなさい、好きになりなさい、肯定しなさい」ではありません。そうではなく「神があなたを愛しておられることを受け取りなさい」です。だれでも、自分の中には自分でも受け入れられない性格、目をつぶって隠しておきたい罪があります。単純に自分のことを好きになるのがはばかられます。世の中は「あなたらしく生きること」「自分らしく生きること」を追い求めるよう促します。しかし、そこに救いはありません。永遠のいのちは、キリストが与えるパンにしかないからです。どれだけ自分のことを好きでいられ、自分を肯定できたとしても、キリストのもとに立ち返らないかぎり、救いは訪れません。


では、私たちが受け取るべき神の愛はどこにあるのでしょうか?神がしてくださったことの中に愛があります。神は、そのひとり子イエス・キリストをこの世界に送り、十字架につけました。神は痛みをもって、時間をかけて、面倒なことを省かないで、神の愛を示してくださいました。全能の神であれば一気に奇跡を行って世界中の人を信じさせることもできたのに、そうはなさいませんでした。そもそも、人に救いの道をいっさい与えずにさばくこともできたのに、そうされませんでした。ここに愛があります。


愛は犠牲をかけて、具体的に、身体的に、また心に届いていくものであることを、この聖餐式は教えてくれます。そうして、自分は神に愛されていることを味わい、受け取ることができます。


キリストの約束通り、「私はひとりではない、いつもイエスさまが一緒にいてくださり、イエスさまの中に生き、イエスさまに愛され、赦され、守られて歩んでいるのだ」ということを信頼して生きられるのです。


「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)



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