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「光れ」

聖書 ルカの福音書 8章16-21節


1. 福音の明かり


先週は種まきのたとえでした。種は神のことば、地は私たち一人ひとりの聞き方です。どのように聞くかによってまったく意味がないか、100倍の実を結ぶかの違いが出ます。今朝はその続きです。18節で「ですから、聞き方に注意しなさい」と言われているので、先週のことを思い返しながらセットで聞いてまいりましょう。


主イエスは「明かり」について話し始め、明かりは器や寝台で隠さず、燭台の上に置いてその光が見えるようにする、と言われました。種と同じ文脈にありますので、この明かりも=みことば=神の国の福音(10節)を指していることがわかります。あなたが聞いて受け入れた福音は、見えるようにして生かされることが本筋だということですね。それについてこんな話があります。ある人が退職まで一つの会社で勤め上げました。退職の日、社長さんと話をします。社員:「社長、本当にお世話になりました。ところで、私はクリスチャンですので、これから教会生活を思いっきり楽しもうと思います」 社長:「おお、君もそうだったのか!私もクリスチャンだよ。もっと早く言ってくれればよかったのに」 これは笑い話でもありますが、考えさせられる題材でもあります。二人とも、数十年間自分がクリスチャンであることを言わずに過ごしてきたことになります。この「明かり」のたとえで言えば、器や寝台の下に置いて隠して生きてきたことになります。

ここ九州の地は「隠れキリシタン」で有名です。現代でもよく「私は隠れキリシタンなので・・・」と遠慮がちにクリスチャン生活を送られる方がいます。はたして、それは主イエスが望まれている生き方でしょうか。主イエスが語られた福音を体現していることになるのでしょうか。「隠れキリシタン」には、次のような経緯があります。


1549年にザビエルが鹿児島に上陸し、宣教を開始します。薩摩、平戸、山口、大分で宣教し、その蒔いた種は多くの実を結びます。大名や民の多くがキリシタンになり、貿易交流も盛んになりました。そのうち、それが脅威となり1587年に豊臣秀吉による「バテレン(神父)追放令」、1612年~の江戸幕府による「キリスト教禁止令」が出されます。はじめの宣教から数十年でこうした禁止令が出されるまでになりました。先月お話した「二十六聖人」の殉教は1597年2月の出来事です。その理由の一つは、キリシタンたちが明かりを照らし続けたことです。禁教になるほど、処刑されるほど彼らがキリシタンとしての生き方を表明していたということです。それから1865年に大浦天主堂で潜伏キリシタンが信仰を明かすまで、キリシタンは隠れて信仰を守り続けました。当時は聖書を持っている人はいませんでしたので、特別な祈りや福音の教えを唱え、守り、伝えることで信仰を受け継いでいきました。彼らは隠れキリシタンと呼ばれますが、今と状況が違います。当時はキリシタンであることがわかれば連行され、殺される危険がありました。それでも彼らは主への信仰を持ち続けました。それに対して、現代は信教の自由が保障されています。今の日本では、クリスチャンだからと言って連行や処刑するなら、暴行した人が法律で罪に問われます。法律や国家権力を見て隠れキリシタンになる選択は迫られませんが、人間関係、社会生活において、私たちは隠れること、隠すことを意識的にも無意識的にもしてしまうのかもしれません。余計な波風を立てたくない、クリスチャン生活と日常生活を分けて暮らしている、そもそも自分がクリスチャンであることを言う必要性を感じない・・・というところなのかもしれません。


しかし、ここで主イエスが話されているのは、私たちが隠れたり、隠したりすることではなく、「入って来た人たちに光が見えるように」生きることです。なぜ、そこにこだわるかと言うと、私たちがモジモジするか、ハキハキするかの問題ではありません。明かりの役割は暗やみを照らすことです。隠されているものを明らかにすることです。つまり、何が正しいことで何が罪なのかをはっきりとさせるということです。主が喜ばれることは何で、主が禁じておられること、悲しまれることは何かを示すためです。神のことばによって善悪を規定することは、主の御心による支配と人の罪の支配との分岐点となります。みことばを基準にしてはっきりと道が分かれていくのです。


2. みことばを行う


それから、主イエスの家族母マリアや兄弟たちがイエスに会いに来た場面に移ります(19-21節)。マタイ12章やマルコ3章にも同じような出来事が記されていますが、どうやらこの頃からイエスさまの働きが忙しく、家族がゆっくり会うことができなかった、あるいはイエスの噂が大きくなりすぎ、気が変になったのではないかと家族が心配して会いに来るような事態になっていたようです。このルカでも、大勢の人がいるために、家族がやすやすとは近づくことができない状況でした。


ここで主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです」(21節)と言われました。18節とペアのように、みことばを聞くことと行うことが会話の中心であることがわかります。


昨日、教会近くにある狭い川沿いの道で車とお見合いになってしまいました。一車線分しかないのですが、こちらが後退しようにも、多くの車が行き交い難しい状況でした。私が「こちらのすき間から通れるよ」と合図したところ、対向車はゆっくり進んでくれ、ほんの数センチの攻防を繰り広げながら、すれ違うことができました。その運転手、なんと80歳代の女性の方です。助手席も同じような年配の女性でした。私は、そんな年齢の運転手がこのミッションをやり遂げたことに感嘆しました。こちらがいくら通れそうと言っても、動かない選択もできたはずです。なぜその女性がギリギリのすき間ですれ違えるほどの運転技術と思い切りを持っていたのかはわかりませんが、実行されることの素晴らしさを体験しました。


主も、私たちに同じ思いをもって語られます。私たちがそのことばを聞くだけでなく、行うことを期待して語っておられるのです。聞くことと行うこと。これら二つのバランスが大切です。もし、みことばを聞かないで行いだけをしたら、自慢くさくて恩着せがましくなり、喜びがなく疲れます。誰でも、奉仕っぽいこと=行いだけならできます。岩の上や茨の中でもある程度育つ種と同じですね。一見、順調そうに見えても、根の部分で自我や責任、あるいは誰もやらないからという思いがあると長続きしません。やがて疲れ、しぼみ、枯れてしまいます。みことばから始め、みことばを聞き続ける丁寧な作業が必要です。それは、この礼拝から始まっているように思います。


また、もし、みことばを聞くだけで行いがなければ、いつまでたっても成長がありません。聞くだけで満足し(それでいいと思っている)、行動するのが恐くなり、面倒くさくなり、その先にあるはずの祝福を受け取り損ないます。みことばの種にはいのちがあるのに、発芽させていません。吸い込んだ息を吐きだして呼吸するように、みことばを聞いたなら、行いを伴わせたいと願います。


3. 教会の役割


本日はペンテコステ、聖霊が降った記念日です。教会の誕生日でもあります(使徒の働き2章)。主が地上に教会を建てられた目的は、聖徒たちが聖霊の力を受けて、イエス・キリストの復活の証人となることです。教会の具体的な形は、イエス・キリストをかしらとし、主の民であるクリスチャンをからだとし、一人ひとりがその各部分として結び合わされています。からだは、かしらの命令、指示を聞きます。これが、私たちがみことばを聞く理由です。そして、かしら(脳)の指令を受けたからだは、その通りに動きます。これが、私たちが行いをする理由です。


私たち福岡めぐみ教会は、イエスを主・かしらとするキリストのからだです。キリストが、私たちに命じておられること、願っておられることをしっかりと聞き取り、また行動に移すことで使命を果たしていけます。主イエスは、復活して天に昇られるとき、大会社でも学校でもなく、教会をお建てになりました。それは、この地上で教会がもっとも大切だからです。神が地を治め、民を導くために必要なのは教会です。この地上で唯一みことばを土台として、福音を伝えることを使命とするのは教会だけです。ここにいる私たちは、一人ひとり主によって呼び集められた者です。生まれ育ちや性格、得意不得意も違います。そんな私たちは聖霊が注がれているので、いっしょにいて互いに励まし、祈り、仕え合うことができます。

では、この地に福岡めぐみ教会が建てられた理由、使命とは何でしょうか。この地で福音の明かりを輝かせるためです。ここにいる人、また入って来た人たちが福音の明かりを見て、救い主を知り、イエスを主と告白して救われるためです。そのための礼拝、ゴスペルハウス、エステル会、各部の奉仕、英会話教室、そして本日午後のしじみ狩りです。礼拝や祈り会などは、福音そのものかと賛同するかもしれません。しかし、例えば英会話教室やましてやしじみ狩りは、私たち教会が本当にすべきことと言えるのでしょうか。答えは・・・はい、これも私たちの使命です。なぜなら、英会話教室という器の中に、福音を入れて届けているからです。しじみ狩りという器の中に、福音の喜び、豊かな交わりを入れているからです。


主イエスもよく人々とともに食事をされ、丘を歩き、湖に行かれました。誰もそれを単なる食事や旅とは結論付けません。なぜなら、そこに主イエスがおられるからです。主とともにいると、その口から出る力あることば、神の国の教え、教えてもらう祈り、御手がなすわざ、流してくださる涙から愛や恵みをいただくのです。私たちは、今、この地でキリストが生きておられるように、あらゆることに福音を入れて人々に届けたいのです。それがキリストのからだとしての教会だからです。この教会を通してあなたがしてくださっていることは、誰のためでもなく、ただ主イエス・キリストの栄光が現れるためです。


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