「種と地」
- 大塚 史明 牧師

- 6月1日
- 読了時間: 11分
聖書 ルカの福音書8章4-15節
1. 神の国の聞き方
主イエスは、群衆に向かって話す機会が多くありました。大勢の人が話しを聞きに来たのは、主イエスの話しが面白かったからでしょう。また、よくわかる話(話し方)をされたからでしょう。学者しかわからない話であれば、人々は集まってきません。大人しかわからない内容であれば、子どもたちは寄ってきません。そして、主イエスはよくたとえを用いて話されました。聖書を読むと、「イエスさまってたとえ話が上手で面白い!」と感想を持つ方も多いようです。
そして、本日のポイントは「どのように聞くか」です。主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)、「ですから、聞き方に注意しなさい」(18節)とこの話のカギは「聞き方」だと繰り返し言及しています。ただ聞くのと、聞く耳を持って聞くのとでは大きな違いです。喜んで聞くのか、批評家のように聞くのか、寝ながら聞くのかでは大きな違いがあるでしょう。あるいはパジャマ姿で聞くのか、背筋を伸ばして聞くのか、何か食べながら聞くのか、掃除をしながら聞くのかでは、聞いた話の入り方が違うでしょう。私が1年に一回楽しみにしている番組に「M-1グランプリ」という漫才の大会があります。全国から応募した芸人たちが予選から始めて決勝戦をします。1万組を超える漫才師が頂点を目指して戦うのです。そして、このM-1グランプリに優勝するとその漫才師は一生芸人として食べていけるようになります。毎年、楽しみに見るのですが、この大会を楽しめない人たちがいます。それは「審査員」です。お笑い大会なのに、審査員だけは難しい顔をして聞いています。審査員は漫才に点を付けて評価しなければなりません。そして、自分の入れた点数が、競っている芸人たちの一生に影響を与えるので、適当なことはできません。最近は、誰が決勝に進むかと同じくらい、誰が審査員をするのか注目されるほどです。みんな、審査員をやりたくない、ただ一緒に見て笑いたいと言っています。
もし、私たちがみことばを審査員のように聞くのであれば、楽しむことはできません。「ここが変だ」「あそこを言い間違えた」「そんな解釈はおかしい」と気を張っていたら、その人自身も、また説教者(私)もやりにくくて仕方がありません。主イエスの話しも、大勢の群衆は喜んで聞きましたが、別の人たちは「いつイエスを殺してやろうか」「いっちょ、これで試してやろう」と考えながら聞いていました。こんなにはっきり聞き方が分かれるのは、主イエスが「神の国の奥義」(10節)について話されたからです。本当の神がどのようなお方で、本当の神の国がどのようなものであるかは、神ご自身によって語られ、明かされ、教えてもらわないと知ることができません。人間は、神について想像することはできますが、それが本当かどうかは誰にもわかりません。ただし、神が口を開いて教えてくださるのであれば、それが正しいか間違っているかが分かります。時々、私がみなさんにクイズをするのと同じです。さて、昨日土曜日の夕食、私は何を食べたでしょう?考えてみてください。色々な答えがあると思いますが、本当に何を食べたのかは、私が答えるまで決して分かりません。食べた後のフォークとお皿があっても、ハンバーグかもしれないし、もしかしたらお寿司かもしれません。正解は、本人から聞くまで分かりません。
主イエスが人々に話されたのは、まさに「神の国の奥義」です。自分の考えとは違うことを、言われることだってあります。自分の想像やこれまでそうだと思ってきた常識、ずっと受けて来た教育と異なることだってあります。それゆえ、主イエスの話しを聞くと、自分との衝突が起こります。そのとき、批評家のように自分で判断してやろうとして聞くのか、学校で習った教育やテレビで言っていることと違うから相手にしないのか、あるいは子どものように目を輝かせて聞くのかの違いが出てきます。もし、「聖書には関心や興味があるけれど、自分にとってしっくり来ないんだよな~」という方がおられるなら、ぜひ聖書と自分の世界観の違いが何かを知るために今朝の話しを聞いてください。もし、「礼拝とかだるいし。自分にとって何の意味もない」と無関心や冷めている方がおられるなら、ぜひその理由を知るために今朝の話しを聞いてください。
2. 種の行く末
さて、主イエスのたとえ話は種を蒔く人が種蒔きに出かけたところから始まり、蒔かれた場所により、それぞれ違う結末の話が続きます。ちなみに「種は神のことば」(11節)のことです。「ある種は道端に落ち」(5節)ます。種が道端に落ちるとは、そのままほったらかしにされている状態です。つまり、神のことばを聞くけれども、聞きっぱなしで何の手入れもしません。そのままほったらかしなので、みことばの種から芽が出ません。礼拝中に他のことを考えると、聖書を開いてはいても、何も入って来ないのと同じです。また、礼拝中は聞いていたとしても、礼拝が終わるやいなやササーっと心が離れ、何を聞いたのかも関係なく過ごすならば、まさにそれは道端に落ちた種のようです。神のことばをしっかりと受け取ることがなければ、いくら聖書を開き、礼拝に皆勤したとしても、何も変わりません。
道端に落ちたこの種の解説は12節にあり、「みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て・・・」とあります。私たちがみことばを忘れるように働きかけるのが悪魔なのだ、ということです。悪魔は私たちがみことばによって救われることを邪魔するのが仕事です。悪魔は主イエスにかなわないことを知っているので、人間を相手にわなを仕掛けてきます。特に、こうして教会に集い、ともに聖書を聞いている私たちからみことばの種を取り除こうと必死です。
悪魔と聞くと、バイキンマンのようにいかにも悪魔っぽい姿かたちをして悪いことをそそのかし、悪事へ誘うイメージを持つかもしれません。しかし、実際の悪魔は私たちの味方のように近づいてきます。実際の悪魔は私たちに優しくしてくれ、私たちに都合の良い、聞きたいと願っている言葉を運んで来ます。間違いを犯したら悔い改め、正直に伝えなければならないのに、悪魔は「黙ってたらいいんじゃない?その方が楽でしょ?隠してた方が得だよ。もっと悪いことしてる人がいるから平気平気!」と言ってくれます。それは、私たちの耳に心地の良い言葉かもしれませんが、神の真理からはかけ離れています。そして、私たちは生まれつき自分に優しく、都合のよいことが好きなので、神のことばよりも悪魔の誘いを受け入れてしまいます。なぜなら往々にして、神の真理は、自分の都合に合わず、立場を悪くするからです。それゆえ、聖霊によって生まれ変わらないと、種である神のことばを受け付けることができません。
次は「岩の上に落ちた」(6節)種です。これは道端よりもましで、時を経ずして生長します。しかし水分がなかったので、すぐに枯れてしまいます。これは13節に解説があります。この聞き方は、すぐに信じてしばらくの間はその状態が続くけれど、根がないので、試練があると引き下がってしまうものです。根がないとは、それ以上みことばが入っていかず、苦戦する状態です。
礼拝でいいなと思っても、実生活の中では自我やこだわりが勝り、神に従うことをしないならば、そのみことばは根付かず枯れていのちを失ってしまいます。今は「クセがすごい」と漫才のツッコミが流行っています。自分独特のクセが、それ以上神のことばが侵入しないようにブロックします。「え、そこまで神に従うの?」「聖書って、こんなところまで踏み込んでくるの?」と毛嫌いし、反抗し、神のことばがそれ以上侵入するのを妨げます。そうした根無し草は定着しません。みことばは自分の中から消え去り、結局は元通りの状態になります。
先週、2人の宣教師たちが、家財道具を運びに教会に来ました。それを率いているのはタム宣教師です。手伝いの宣教師たちには「やらない」「ノー」という選択肢はありません。リーダーであるタム宣教師が「やりなさい」「これとこれを2階に運びます」と言えば、彼らはその通りにします。そこで自分のこだわりを出したら、帰国させられてしまいます!誰しもが、自分の中に持っている堅い岩地があります。他人を寄せ付けず、神をも近づかせない堅い部分があります。主は、みことばによってあなたの岩地を砕き、みことばを根付かせたいと願っておられます。それでも、頑固にノーと言いますか?それでも私は変わらない、このままでいい、神にもこの領域、生き方、考え方に入って来てほしくないと拒みますか?それは、本当にあなたの祝福、成長になることでしょうか?
さらに「茨の真ん中に落ちた」(7節)種があります。そこに蒔かれた種は生長し、ある程度根も張るのですが、さらに伸びようとするとき、上に茨が覆いかぶさっていて実なしで終わってしまうパターンです。これは、14節とセットになっています。そこには「時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟するまでになりません」と説き明かされています。私たちの生活空間があまりにも広いと、そこに茨も張り巡らすようになります。気が散るばかりで落ち着きのない生活をしていると、結局は主が見えなくなるのです。
トルストイ(ロシアの作家)の本に「人にはどれだけの土地がいるか」という話があります。もっと広い土地が欲しいと願っている人が、好きなだけの土地がもらえる村があるという話を聞きつけ、その村に向かいます。ただし、土地をもらうためには日の出にスタートして、日没までに帰らないといけないルールがありました。その人は、途中で曲がろうと思ったけれど、目の前にもっと良い土地を見て、どんどん歩き続けます。そうこうしているうちに、日が沈みかけたので帰ろうとしますが、もう体力が残っていません。必死に歩き続け、最後の力を振り絞って出発地点にたどり着いたとき、その人は息を引き取って死んでしまいます。その人に必要な土地は、彼の頭から足の先までの小さな土地だったという話です。際限なく心配する、制限なく欲や望みを追求するのは、まさに茨が覆っている状態です。
最後の「良い地に落ちた」(8節)種は15節とセットで見ることができます。100倍の実を結ぶ聞き方とは、「立派な良い心で」聞くことです。立派と訳されている語は正直な(honest)とか誇らしく(honorable)という意味も含まれるそうです。それは、神のことばを聞ける嬉しさ、神のことばを誇らしく聞くあり方です。
今月、牧師と宣教師のカンファレンスがあったとき、ある人が証ししておられました。「私は臆病で、英語もできません。けれども、ある時からシンガポールの人たちを受け入れて一緒に宣教することにしました。それは、もし、この差し伸べられた協力の手をはねのけるなら、次に神さまはもうチャンスを与えてくださらないかもしれないと考えたからです」と言っておられました。もちろん、神さまはいつも恵み深い方ですが、私たちがそれを当然だと思ったら、良くありません。私たちが、今この場でこうしてみことばを聞いていることはまたとないチャンスです。当然だ、面倒だ、やっかいだとはねのけているなら、もう次の機会はないかもしれません。神が今語ってくださっていることが嬉しくて仕方がない、誇らしい、こんな自分に語り続けてくださることが名誉に感じる。そういう聞き方を獲得したいです。そういう雰囲気、熱気やある種の真剣さがヒシヒシと感じられる礼拝、教会を作り上げたいと願います。そうした中で聞くみことばは、しっかり根を張り、実を結んでいきます。
3. 種を蒔く人に
結びに、このたとえの最初に注目しましょう。この話は「種を蒔く人が種蒔きに出かけた」(5節)で始まります。ただ「種が落ちて・・・」とか「道端の種は」とはしないで、わざわざ「種を蒔く人」を登場させ、その人が「種蒔きに出かけた」とその行動を描いています。実に、種は自然や勝手に落ちるのではなく、種を蒔く人がいるのが前提になっている、ということです。そして、種蒔く人がその手の中で握りしめ、あたためているなら何も進展しませんが、その人が「種まきに出かける」ことにより、すべてのストーリーが始まります。種とは神のことば、そして種を蒔く人とは、神のことばを伝える人のことです。そして、種蒔きに出かけたとは、神のことばを届けに出かけた、神のことばを携えて外に出た、人に会った、人に知らせた、人に聞かせた、人に聞いてもらったということです。この労苦が前提にあることを忘れてはなりません。
そして、これは私たちにどんなメッセージをもたらすのでしょうか。そうです、私たちは種を蒔く人になりたい。私たちは種を蒔く教会でありたい。種蒔きに出かける教会でありたい。それは、わざわざ腰を上げる必要があるのです。ここから一歩、足を踏み出すことが必要です。勇気のいることです。そして、踏み出すために互いに励まし合いが必要です。声をかけ合いながら、腰を上げたい。誰か特定の人がやればいいのではなく、ともにやりたい。
本日は、手話ゴスペルハウスチームが中津聖書教会へ出かけています。中津にみことばの種を持って出かけています。あちらの教会にろうあの方がおられ、その方が友人を連れて来たい、そんな願いもあってのことでした。
また、今週から始まる英会話教室も、私たちが種を蒔く人、種を蒔く教会となる機会です。今は種蒔きの季節、種蒔きに出かける時が来ました。ただの英会話教室を開くためではなく、みことばの種まきの働きです。そのために、ぜひ一回でもよいので女性は水曜午前のクラス、男性は金曜夜のクラスに参加してみてください。どうしても英語が苦手、時間の調整がつかない、人と会う余裕がないという方は、準備や掃除、のぞきにでもよいので立ち寄ってください。たくさんの人が関わることが美しく、またキリストのからだらしいことだからです。
どうか、私たちがこのみことばを聞くだけではなく、このみことばを聞いて行う者として、種であるみことばを受け取り、自分の中にある岩地を砕き、さらに深く掘り下げ、伸び行くときには上に広がる茨を取りのぞき、実を結ぶように歩みましょう。種にはいのちがあります。主に信頼して、みことば通りに進み行きましょう。

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