「生還」
- 大塚 史明 牧師

- 6月29日
- 読了時間: 8分
聖書 ルカの福音書 8章26-39節
1. 何度も何度も
今朝は、嵐を通って向こう岸に着き、主イエスがそこで出会った人との話です。以前、ジュニアクラス(中高生)に好きな聖書の箇所があるかと聞いたとき、「豚が湖に入っていく話!」と即答した子がいました。それほど印象深い話であり、当時この場面に遭遇した人々は、それこそ一生忘れられない出来事だったと思います。私たちも同じインパクトを、聖書を通していただきましょう。
さて、湖をガリラヤから反対側、ゲラサ人の地に上がると、「悪霊につかれている男がイエスを迎え」(27節)ました。彼は長い間服を着ず、墓場に住み、鎖と足かせでつながれています(29節)。何度も暴れて荒野へ逃走し、人々から厄介者として監視されていました。主イエスが舟で嵐の中を突き進んだのは、そんな彼にわざわざ会いに行くためだったことが分かります。社会から切り離された墓場に押し込められていた彼であり、誰にも制御、対処、改善できない衝動や性質をもった彼と出会いに行かれるのがイエス・キリストです。
彼の大変さ、症状は相当のもので、30節には「レギオン・・・悪霊が大勢彼に入っていた」と説明されています。
レギオンとは、ローマ軍の兵隊の集まりを指す語で、600~2500名で編成されます。彼はそれ位多くの悪霊が引き起こす悪い衝動や考えに乱されていました。
彼のことは、最初からはっきりと「悪霊につかれている男」と記され、問題の本質はまことの神を知らないことでした。それで第一声は「私とあなたに何の関係があるのですか」(28節)と叫んでいます。それは「自分は神なんかと関係がない」「こんなひどい自分に今さら何の用だ」「自分は神から見向きもされていない」といった意味だったでしょう。彼は早く解放されたい、悪霊の縛りから解かれたいというよりも、イエスを最初から毛嫌いしている思いがあるようです。
これは彼だけの症状ではなく、自分にも当てはまることがあると思うのです。私たちも実に様々なものによって縛られています。具体的には、学校・職場・地域での立場、家庭・兄弟や親族間での簡単ではない関係、背負わされたり感じたりする責任感、〆切や期限、経済状況、しみついた習慣や思考回路、持病等色々あります。人間が生きるのは、実に複雑だということですね。そしてそれぞれに違った縛りや負担を抱えながら生きています。誰かの悩み、苦しみがそのまま100%分かるわけでも、混乱をときほぐすことができるわけでもありません。たとえ、イエス・キリストであっても自分の混乱状態や長年の問題は解決できないのではないか。そうであればほうっておいてほしい。「私とあなたに何の関係があるのですか」という声は、まるで私たちの声を代弁しているかのようです。何度も同じ問題に苦しみ、何度も諦めて何度も叫んできたのは彼であり、私たちなのです。
2. 神についての誤解
そして「お願いです。私を苦しめないでください」と続けます。これは、悪霊の特徴をよく表しています。神からできるだけ離れていたい、できるなら離れていてほしい、関わらないでほしいと私たちに思わせます。そして、私たち自身も、神との関りをもったらややこしくなるのではないか、神は自分を苦しめる存在、無力で無関係な存在だ、という誤解をもっています。「聖書の神などに関わったら、人生を支配されてしまう」「不自由で間違った方向に連れてかれるのではないか」「そもそも神を信じるなんて弱い人間の成れの果てだ」「自分は神に頼り、神にすがるほど落ちぶれてはいない」といった声がして、素直に神に飛び込むことができないでいます。
この舞台となっているゲラサ人の地は、この後すぐ分かるように、多くの豚が飼われていました。豚は、ユダヤ人には食べることを禁じられている汚れた動物です。そんな豚を平然と飼っていたのがこの土地です。罪を罪として意識しない社会。聖書とは無関係の世界。そういう意味での異邦人。こういう日常に身を置いていれば、必然的に神を求めることなどできなくなります。それが当たり前だからです。そうして様々な間違ったものにひかれ、求め、墓場でグルグルと走り回り、心の叫び声を絞り出して何とか日々を送っている。それは創世記のアダムとエバ、蛇が誘惑した時から何も変わっていません。
神を脇に置いて生きるように誘惑され、段々それが普通になっていき、神とのつながりがないいのちだけが残ります。それは、人生の墓場そのものです。なぜなら、真の希望も愛もなく、本来あるべき人生の目的から切り離されて生きているからです。本当の問題は神から離れ、神に近づかずにうまくやっていけると思って生きていることです。ついに、それが苦しくなり、叫び声をあげて、墓場を徘徊している。その所に、嵐を乗り越えやって来られたのが目の前におられるキリストです。
この方が、今、礼拝している私たちに出会ってくださろうとしています。
悪霊は、あくまでキリストから離れようとするので最後のお願いをします。底知れぬ所に行けと命じるのではなく、目の前の山肌にいた豚に中に入ることを許可するように悪霊が懇願し、イエスはそれを許可されます。「イエスはそれを許された」(32節)とは、その力、権威がイエスにあるということです。その数は2000匹ほど(マルコ5:13)でした。彼の、そして私たちの苦しんできた傷の数々です。人の要求に振り回されて生きて来たこと、言われもないことを広められて苦しんできたこと、様々な顔を使い分けて疲れ果てていること、言いたいことが言えずに押さえつけられてきたこと、また自分が人に対してしてしまった過去・・・自分の中でうごめき、自分をむしばんできたすべての問題が今雪崩のように湖へなだれ込んで滅んでいく。一掃されていく悪霊の姿は、それを一声(ここでは無言)で可能にされたキリストの力の現れです。
圧倒的な光景を人々は見て「自分たちのところから出て行ってほしい」(37節)と頼みました。こんなすごい力を持った方なら、町にいてほしいと願うのにと考えるかもしれませんが、彼らは主イエスとこの男の一連の会話を知らない、ただその周辺にいた人々です。主イエスの力をどんなに間近に見ても、それを自分で受け取る人と周りで見るだけの群衆、この対比を聖書はしっかり描いています。主イエスの救いを受け取るのか、それとも見ているだけか、一歩前に出て主イエスに近づくのか、出て行ってくださいとお願いしてしまうのかの違いがあります。
主イエスは、彼が人々に見せていた部分も隠していた部分も、そのすべての闇を追い出し、神の支配へと一新してくださいました。神なんか信じたら変になる、神なんかに頼んだら不自由になるというのは誤解であり、嘘です。彼は「正気に返って座っている」(35節)からです。実は、キリストに出会わないと、私たちは正気=本来のあり方が分からないで生きていることになるのです。早くこのキリストと出会わないと、生きている間は墓場で叫び回ることになります。いざ、神についての誤解を解いて、「私を正気に返してください」と願いましょう。
3. 使い分けずに生きる
さて、このあと主イエスは人々の依頼通りに舟で帰ろうとされるのですが、彼は主にあるお願いごとをしました。
救われた彼は「お供をしたい」(38節)と主イエスに頼みます。しかも、しきりに=何度もお願いしたのです。元々、1人で墓場を走り回っていた彼でした。誰の言うことも聞かない、聞きたくない、誰もそばになんかいてほしくない。そんな彼が今、人生で初めて「お供をしたい=いっしょにいたい、ついて行きたい」という方に出会いました。自分を傷つけ、誰とも関係を持たずに叫び続けていた彼は、まったく新しく変えられました。私と何の関係があるのか、離れてくれ、苦しめないでくれと神との関りを拒み、負担に感じていた彼が、今イエス・キリストについて行きたい、誰よりも主イエスの近く、そばにいたいと願っています。ただ悪霊が追い出されて終わりではなく、この「お供をしたい」と願い出てからの新しい人生こそが、救いの姿ではないかと思います。
私たちも、このストーリーに生きる者でありたいと願います。「この方について行きたい」「どうしてもこれからの人生をキリストのために生きたい」そういう、救われた者しか歩むことのできない人生を切り開いていきましょう。
彼への答えは「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい」(39節)でした。主イエスは、彼に家へ帰ることを命じられたのです。そして、彼は「立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広め」ました。
どうして、主はついてくるようにではなく、彼が家に帰って証しすることを命じられたのでしょうか。彼が来ると、また悪霊につかれて面倒だから? いいえ、そうではありません。その理由は、彼に人生を使い分けて生きなくても良いことを味わってほしかったからではないでしょうか。彼はこれまで自分が分からなくなるほど、多くの間違ったものに捕らえられ、支配されて生きてきました。それは生きた心地もしない、喜びも何もない日々でした。しかし、それらから解放され、今は自分の主がキリストであることを知るようになりました。正気に返り、主の前に座り、ひれ伏してみことばを聞き、礼拝する者へと変えられました。
家に帰って神がしてくださったことを話して聞かせるとは、そうして主に救われた者、主を礼拝する者として生きなさいということです。もう使い分けることなく、主の前にいるのと同じように家族の前でも生きる。それが、彼にとって一番救いの喜びを味わうことのできる道でした。彼が救われて帰った家。家族はどんなに驚き、あきれ、喜んだことでしょう。そして、彼を救い、変えてくださったイエス・キリストの名を崇めたに違いありません。私たちも、彼と同じ方を救い主と仰いでいます。苦しみや縛りから解放してくださる方、こことあそこで使い分けなくてもよいように真の自由を与えてくださる方につき従ってまいりましょう。

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