「航海」
- 大塚 史明 牧師

- 6月15日
- 読了時間: 9分
聖書 ルカの福音書 8章22-26節
1. 向こう岸へ行こう
今朝は、主イエスの「湖の向こう岸へ渡ろう」(22節)という呼びかけから始まっています。先週までは種まきのたとえ、明かりのたとえがあり、そのテーマは「神のことばを聞いて行う」(21節)ことでした。それらに続いて
「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われるのは、まさにその実践をしようというお誘いです。
会社ではOJT(On-the-Job Training)と言う、実務を通して仕事を学ぶ方法があります。これと反対の方法は、全員参加の講習や勉強会です。座学で一般的な知識や基本的なことを学び、OJTで実際の現場で仕事をして身につけます。ここでダンス教室を頭に思い描いてください。昔、「Shall We Dance?」という映画がヒットし、ハリウッド版にもリメイクされました。ダンスは学んだだけでは踊れるようになりません。教えられたことを、手取り足取りやってみることで踊れるようになります。踊り方をテキストで読んだだけで上手に踊れる人は誰もいません。実際にダンスを始め、相手の足を踏んづけたり、ステップを間違えたりして習得していきます。ここでの主イエスの「向こう岸へ渡ろう」も同じです。私たちがずっとみことばを聞き、その意味を理解し、全巻を暗唱できるようになっても、それは半分程度の意味しかありません。みことばを行うことでその意味が分かったり、伝えたりすることができるからです。
教会でもはじめからすべてがうまくはいきません。互いに仕え合いなさい、祈り合いなさい、愛し合いなさいと言われていることは知っていても、うまくできません。おぼつかないダンスみたいなものです。ときには自分の足がもつれて転倒したり、つまずいて相手に寄りかかったりします。でも、それを繰り返して上手になっていきます。教会でのちょっとしたトラブル、失敗はそのプロセスです。むしろ、そういうことのあることが、みことばを行っている証拠でもあります。つまずきや失敗、うまくいかないことがあるのは生きた教会、ダンスをしている教会のしるしです。
もし、主イエスに「向こう岸へ渡ろう」と言われたら、まず何をしますか? 私なら空を見て雨や風がないか確認します。そして、もし悪ければ天気予報を調べて、湖が穏やかな日に出航します。もし舟を選べるなら、できるだけ大きくて頑丈な舟にします。白い帽子を被ったかっこいい船長がいて、2等クラスの大部屋ではなくて1級かできれば特級個室で、専用食堂や映画館がある船。ただし、あまりにも豪華客船だと重くて沈みそうだからちょうどいいくらいの大きさがいい・・・とキリがありません。その横に、いかだのような貧相な舟があったら、絶対にそちらは選びません。しかし、主イエスは「さあ、舟を見なさい。頑丈で、快適に過ごせるよ。これで向こう岸へ渡ろう」と言われません。なぜなら、ここでのレッスンは舟ではなく主イエスを信頼するものだからです。
主イエスは安心、安全で快適な舟ではなく、主イエスとともにいることを選んでほしいと願っておられるのです。主イエスは、私たちが舟の造りの丈夫さや天候の先行きの安全を確認する人になるのではなく、主イエスがともにいることの平安、主イエスの力を知る人になることを願っておられます。
これは、私たちの人生にも同じことが言えます。私たちはより頑丈な舟=健康、安定した生活、将来の蓄え、安全な人間関係、邪魔者は排除という人生を求めます。しかし、そんなものを手に入れている人は誰一人としていません!皆、それぞれに悩みがあり、病気にもなれば、ケガもし、事故やわざわいにもあいます。健康や安定した生活を求めるよりも、主イエスのおられる人生を選ぶ! これに尽きます。
2.嵐の中で
そんな主イエスの呼びかけから始まった船出は順風満帆のように思いますが、すぐに意外な展開になります。「突風が湖に吹きおろして来た」(23節)のです。主イエスが「さあ、向こう岸へ行こう」と言った矢先に困難や試練がやって来たのです。さらに「彼らは水をかぶって危険」な状態になってしまいました。そんな状況下で弟子たちは「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と訴えます。弟子の中の少なくとも4人は漁師でしたから、突風の中で舟を操った経験もあったことでしょう。しかし、このときはそんな彼らの腕前をもってしても、立ち向かえないほどの雨風と荒波でした。まさに嵐の中で「死にそうです」と叫ばなければならない状況に飲み込まれていました。
主イエスは、私たちが嵐に遭うこともご存知だし、そのときに慌てふためいたり、死にそうだと叫んだりすることも承知の上です。むしろ、そうしたときにちゃんと慌てる、ちゃんと揺れ動く、ちゃんと死にそう!と叫ぶことの大切さがあるのかもしれません。いつも冷静沈着ではいられない人間の弱さや習性を無視したり、感情を押さえつけて過ごすことを、そもそも主イエスは私たちに期待しておられません。それより、必死なときには必死な顔で、恐ろしいときにはガタガタ震え、悲しいときには涙を流し、楽しいときには大いに笑い、悔しいときには大声で叫ぶことを良しとしていてくださるのではないでしょうか。
ある少女の動画があります。その子がお父さんに「なぜ、私が落ち込んでるときや元気ないときに笑かそうとしてくるの?」と聞きます。父が「なんで、笑うことはええことやん」と答えると、その子は「あんな、私は朝も昼も夜もずっとニコニコしてなきゃいけないわけ? 私も人間なんじゃから泣きたいときは泣くし、笑いたいときに笑うけん。ほっといてくれる?」と返すのです。
私よりもよっぽど深い人間理解をしています! 自分のことを考えてみても、この教会にいる人のことを見てみてもそうですよね。元気なときもあれば、落ち込むときもある。こうして舟がピンチになったとき、叫ぶ人、全体に指示を出す人、冷静に行動し始める人、慌てふためいて何もできない人など、一人ひとりの反応は違っていたと思います。ただ、それが舟上での弟子の姿であり、教会でのクリスチャンの姿です。試練や問題に突き当たったとき、そこで感じること、味わうこと、迷いうこと、揺れることをしないのは、どうやら神の御心ではなさそうです!私たちは、困ればちゃんと困っている顔をし、迷えばちゃんとウロウロし、焦ればちゃんと叫ぶ付き合いを、主イエスとするのですね。
実に、このとき主イエスは眠っておられました。もし、私たちが自動販売機のように、「危険なときにはすぐに神が助けてくれるんでしょ!」と考えていたら、この嵐の中で眠っている主イエスを見て、どう感じたでしょうか。「もう、あてにできない」「何のつもりで眠っているのか」とあきれたり、不満を言ったり、「なんかひどくない?」と未来永劫語り告いだかもしれません。しかし、ここで主イエスは、私たちが死にそうな舟の中にいっしょにいてくださっています。私たちが身の危険、絶望の叫び、言葉にできない寂しさを覚えるとき、主イエスもそこに身を置いていてくださっています。これこそ、この航海・船旅のレッスンで学び取るべき真理です。
3. 信仰はどこに
嵐を静めた主イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」(25節)と言われました。これは辛辣な言い方にも取れますが、別の意味も考えられないでしょうか。それは「あなたの信仰は、こういうことでなくなってしまうものなのですか」「今、信仰をなくしてしまうほど、不安や心配でいっぱいいっぱいだったのですか」「わたしがともにいることに信頼するのが信仰ではないのですか。今、現にわたしはあなたとともにいます」と。私たちがすぐに失ってしまう信仰をいっしょに取り戻してくださる方のことばだとも言えます。イエスがともにいてくださる、だからこそ私たちが信仰を持ち続けられるのです。
ともにおられるという信頼、イエスへの信頼を、弟子たちはここで取り戻すことができます。こんな嵐の中でも、いや、こんなひどい嵐の中だからこそ、最大の恵みである主イエスがともにいてくださることを思い出すことができます。湖の上で揺れる舟にいても、凪にする力を持っておられる主イエスがそばにおられることを思い出す。弟子たちがすべきことは、状況の正確な判断や解決手段の話し合いではありません。そんなことを始めれば、目の前にある問題にばかり囚われ、責任をなすりつけ合い、あれやこれやと議論するだけで終わってしまいます。そうではなく、弟子たちに必要なことは、同じ舟に乗っておられるイエスさまを見ることでした。
私たちは、自分の目の前の問題ではなく、目を上げて、主イエスを見て、この方に全幅の信頼を寄せていきたい。数字やもの、人材、そして自分自身を見た時に、足らないことばかりが目に入り、不安で前に進めなくなります。嵐や風によって水が舟の中に入り込んでくるように、私たちの周りにおくびょうの風が吹き荒れて、心の中に不安や恐れが流れ込んできます。教会にはあれがないから問題なのでないか。私の能力が足りないからこうなるんじゃないか。あるいは、もっとあの人がこうしてくれたら、この人がこうしてくれたら、と不満を隠し持っているのではないでしょうか。そうしたさまざまな不安や不満を自分の心の中で戦わせてしまいます。
しかし、今朝のみことばは、目の前で吹き荒れる嵐のような状況や、次々と入り込んでくる水のような不安ばかりに、私たちが囚われていると気づかせてくれます。 そうした目に見える物に囚われてはならない。たとえ過酷な状況であっても、目の前の現象や状態だけではなく、主イエスが揺れる舟に乗っておられると思い出す必要があるのだと教えられます。
そして、私たちが主イエスを仰ぎ見る時に思い出すのです。「何も不安なことはない。何も不足はない。わたしがあなたと同じ舟に一緒に乗っている。わたしはあなたとともにいる。だから、安心しなさい」こうしたシンプルなことが、もっとも大切です。
端的に言えば、主イエスがおられるから大丈夫! この信仰を一人ひとりが確実に獲得しましょう。この弟子たちの姿から学び、私たちもまた主イエスに目を移していきましょう。叫んでもいいから、主イエスに目を向けましょう。航海に出た湖の上で留まるときも、漂うときも、揺れるときも。そうするなら、主イエスは私たちに、「わたしがあなたとともにいる。」と言ってくださっています。嵐でその御声が聞こえなくならないように、こうして教会でささげる礼拝で、しっかり御声を聞き取りましょう。そうしてこれからの大海原をイエスがともにおられる舟で航海する福岡めぐみ教会であることを願います。

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