「変化」
- 大塚 史明 牧師
- 5月25日
- 読了時間: 8分
聖書 ルカ福音書 8章1-3節
247人。これは何の数字かわかりますか?福岡めぐみ教会のYouTubeの登録者数です。先週も熊本市で九州とシンガポールの牧師たちの集まりがあったのですが、お二人の方が「毎週、福岡めぐみ教会のYouTubeメッセージ見ています」と声をかけてくださいました。では、次の数字は102人です。これは何でしょうか。これは手話ゴスペルハウスのYouTubeの登録者数です。一般に「フォロワー」とも言われます。今はこのフォロワー数が多い人には宣伝してもらいたことや案件がたくさん舞い込み、コマーシャルをして財をなしている方もおられます。何と言っても、小学生男子のなりたい職業は一位からサッカー選手、野球選手、お医者さん、ユーチューバーです!私たちの教会の中からもユーチューバーが出るかもしれません。ちなみに女子はイラストレーター、保育士、医師、獣医、美容師だそうです。
今朝はルカ8章に入ります。主イエスの福音宣教が展開し、どんなフォロワーがいたのかが記されています。1節では主イエスには、12人の弟子(使徒)たちを伴ったことが記されていますが、今朝の1~3節の中心は、彼らではなく女性たちです。2節から「また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち・・・」と女性たちの紹介が続きます。主イエスに仕えた女の弟子たちの多くは、主に悪霊や病気を治してもらった人たちでした。皆が弱さを経験し、苦しみを経験していたのです。その苦しみやもがきの途上で主イエスに出会い、病気を治してもらい、悪い霊から解放されたのが彼女たちです。これらの女性たちに共通しているのは、主イエスの救いや癒しによる経験を通して、主に従う者へと変えられたという点です。今朝のタイトルは「変化」です。彼女たちには明確な変化がありました。病から健康な体になったとか、悪霊につかれていたのに、悪霊がいなくなったという変化ではなく、以前はそれぞれに病や悪霊に悩まされていたけれども、今は主イエスに従う者へと変わったという変化です。この変化を私たちに読み取ってほしいと、ルカは願って記しているように思います。
女性たちの中で初めに紹介されているのはマグダラのマリアです。マリアはかつて、「七つの悪霊に支配されていた」とあるので、おそらく、その生活は大変だったことでしょう。しかし、かつて生活することも大変だった女性が、主イエスとその弟子たちの宣教をサポートしていたのだということが、ここから分かります。主イエスの宣教期間は合計で三年半ほどと考えられています。その伝道資金(費用)はどこから出ていたのでしょうか。そのヒントがここです。主イエスと弟子たちの活動を支えていたのは、マリアを筆頭(例)とした、苦労をしている女性たち、権力を持たない者、この箇所にしか出てこない目立たぬ人たちでした。
ルカは、このような女性たちが主イエスと弟子たちの宣教をサポートしてきたのだということを、ここで明かしています。この後、「種まきのたとえ」や「明かりのたとえ」が続きます。見えない燭台の灯りのような働きをしていた女性たちの献身的な姿を、ルカがここで見えるようにしようとしているのです。これは、決して小さなことではありません。一粒の種が地に蒔かれて、30倍、60倍、100倍の実を実らせるために、このマグダラのマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナといった人たちが、その心の中に蒔かれた小さな種を受け取り、イエスと弟子たちとを支えるために多くの財産をささげました。そのおかげで、やがて各地に福音が広がっていきました。そんな伝道の源は、この女性たちなのでした。ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ。それは、この時代にユダヤ地方を支配していたヘロデ・アンティパスの財産管理を任されていた執事をしていた人物の妻です。夫はそれなりの地位であることが分かります。夫は政治権力の中枢に立つ職務にありました。その人物の妻がキリストに従うようになることは、結構ヤバかったはずです。権力者が反逆するのではないかと危険視されたことでしょう。また、たびたび家を空けることにもなり、夫婦で価値観や会話がかみ合わないこともあったでしょう。そんな経験をしつつ、ヨハンナは主イエスのフォロワーとなってからも、主に従い、福音のためにささげ続けました。
2. 持てるものすべてで
「彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた」(3節)とあります。ここで言う財産とは、いわゆるお金、献金だけのことでしょうか。もちろんこの時代、献金をもって支えた女性もいたでしょう。けれども、誰もがみんな同じようにできたわけではなかったはずです。この前の7章後半に書かれていた罪深い女は、主の後ろからひれ伏して、足に涙を流し、油を注ぐという奉仕をして仕えました。さまざまな仕え方があるのですね。
私たちの教会でも年間の予算を立て、決算を報告し、毎月の会計報告が出されています。それは単なるお金の出入りだけでなく、福音宣教のためにどのくらいささげられ、何に使われているのか、これから必要なのはどの分野でいくら必要なのか、そうしたことをよく把握するためです。そして祈り、ささげ、互いに感謝し、主イエスがいのちをかけて表された福音を私たちも担っていることを知るためです。私たちも、誰だって有り余る中からとか、余力でとか、超残りもの、あまり物をささげる方はおられません。皆が、少し心の痛みや迷いを感じながらも、まず神の国のためにささげておられる、尊い献金です。そして、本日本日配布された6月の予定表や3ヶ月分ごとの奉仕表を見ると、さまざまな仕え方があることがわかります。予定表を見て一人ひとりの名前を挙げて祈ることもできます。すべて、神の国のための奉仕です。大切なのは、主に救われたという事実に対する感謝がどれほど大きいかということです。彼女たちにとって、主に従っていくためには、リスクを冒す必要がありました。家庭での時間の使い方、お金のやりくり、伝道旅行に行く男性たちの準備、帰って来たときの食事作りなどしたはずです。それは、彼女たちにとって主イエスに触れていただいたこと、救われて生まれ変わったことが嬉しくて仕方がなかったはずです。そして、自分の人生を主のために使っていく決心、私を用いて欲しいという願いが、今朝の記事からは見えてきます。
私たちも、同じ福音が与えられ、救いを受け取り、今キリストのからだである教会に加えられています。一人ひとりがなくてはならない存在です。主によって組み合わされ、結び合わされて支え合い、教会は建て上げられています。もし、私たちがイエス・キリストのために何かを願い、何かをささげるならば、主は喜んで受け入れてくださいます。また、主はどんな小さな働きも、それこそ目に留まらない働きも、またわずかであっても、主にささげるならば、それを大きく豊かに用いてくださいます。
3. 最後までついて行く
今朝は女性たちが主イエスの宣教に仕えていたところですが、ルカ23章、24章を見るとさらにすごいことが分かります。それは、この女性たちは主イエスの十字架までついて行き、復活を目撃したからです。イエス・キリストが十字架につけられる前の段階で、「弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げて」(マタイ26:56)しまいました。最後までについて来ていた女たち」(ルカ23:49)です。彼女たちはイエスが十字架にかかられ息を引き取ったすべて、また遺体が引き下ろされ墓に納められる一部始終を見ていました。それから日曜の朝に復活された初めの証人になったのも、マグダラのマリアをはじめとするこれらの女性たちです。彼女たちのすごいところは、初めに熱狂し、仕えていたことではありません。宣教旅行について行ったり、後方支援をしたことではありません。もちろん、それも尊いことですが、何より重要なのは彼女たちが最後までつき従っていた点です。終わりまでやってこそ、本物の主の弟子であり、真のフォロワーです。今日始めたことを、最後までやり遂げること。そんなファイティングスピリットをこの始まりの箇所から見ていくことができます。
先月、長崎へ行ったときに26聖人殉教の地(西坂)を訪れることができました。ズラッと横一列に並んだレリーフ像は圧倒的な存在感でした。作者の舟越保武は岩手県出身で盛岡時代はゆかりの地や作品を訪ねました。その中で最年少12歳の少年(ルドビコ茨木)は、出発地の京都で左耳をそがれ、寒い冬の中長崎まで連れ回されます。そして最期の地となる長崎のその丘に着いた時、「僕の十字架はどれですか?」と聞いたそうです。途中、何度も信仰を捨てれば命は助けてやると言われても、「地上の命と永遠のいのちを取り替えることはできません」と拒み続けました。その表情には悲壮感はなく、むしろパライッソ(パラダイス、天国)へ行ける確信と喜びに満ちていました。そして、一番小さな十字架を見つけて、自らそこへ進み出て行ったそうです。京都から一緒に連れ歩かされた26人(はじめは24人だった)は、同じ話題を繰り返し話していたそうです。それは「最後までやりきりましょう。いっしょに天国で会いましょう」という内容です。私たちの教会で、どんな会話がなされているでしょうか。互いに、どんな言葉を使って話しているでしょうか。もちろん、労わりや労いも大いに注ぎましょう。そして互いに「最後まで天を見上げましょう」「主イエスについて行こう」「十字架を背負いましょう」「終わりまで信仰を燃やしていきましょう」と励まし合い、支え合えたらと願います。
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