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「知恵」

聖書 ルカの福音書7章24-35節


  1. 神の声を聞きに(vv.24-27)

聖書は神の言葉、神からの手紙またはラブレターと言われます。あるいは聖書は神の知恵、道案内(例:詩篇119:105,130)でもあります。さらに「仰せられた」(創世記1:3)「主の御声」(出エジプト15:26)「天から声があり」(マタイ3:17) 「自分に語りかける声を聞いた」(使徒9:4)「神はこう言われました」(へブル1:6)と「神の声」ともされます。「神の声」は音としてだけでなく、文字として読むこともでき、手話で表すこともでき、心に刻むこともできます。


今朝の箇所で主イエスは「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか」(24節)と切り出しました。実に 3回も「何を見に行ったのか」とたたみかけます。また、私たちと対話をするように「風に揺れる葦ですか」「きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちですか」「預言者ですか」と付け加えられました。これは主イエスがせっかちにひとり言をいったのではなく、中心点を明らかにするためです。つまり、荒野には神の声を取り継ぐ預言者を見に行ったことを明確にする話し方をされました。しかも、「預言者よりもすぐれた者」とバプテスマのヨハネの偉大さを強調しています。まとめると、「あなたがたは神の声を届ける偉大な預言者を見に荒野へ行ったはずだ」と主イエスは言っておられます。


荒野は、神の声を聞くのに最適な舞台です。なぜなら、荒野には楽しい乗り物アトラクションもなければ、おいしい屋台もありません。ただそこで過ごすしかない場所が荒野です。何もないからこそ、集中して神の声を聞くことができます。そこで、自分の人生を豊かにするのは何かを考えます。また、荒野には自分を守ってくれる施設や安心材料が一つもありません。今は油山に1泊7-15万円もする夜景が売りの宿泊棟がありますが、本当の荒野には星空が見えるホテルとかいい感じのテントはありません。そこで自分を養い支えるものは何かを考えるのです。荒野とは、神の声を聞くための場所です。


そして、私たちの礼拝、教会も「神の声を聞く」ためにあります。一人ひとりが神の声を聞くためにあるのがこの場所、この時間です。教会は人々が神の声を聞くことのできる唯一の荒野です。では、本当の荒野のように、この教会から何もかもなくしてしまいましょうか。その方が、みんな神の声を聞きやすくなるでしょうか。少し考えてみましょう。教会を本物の荒野にするために、玄関扉をなくしましょうか。人工の椅子も捨てましょうか。神の声を響かせるために、人の声はいっさい消しましょうか。屋根も照明もなくしましょうか。


すると、どうなるでしょう。かえって落ち着きませんね。玄関や扉がなければゴミも入り放題、散らかります。

椅子がなければ足腰が痛くなりますし、屋根がなければ夏はひどい日差しに悩まされ、雨の日は冷たくって仕方がありません。また、お互いがいっさい関りをもたなくなったら、いつ何をしたらよいのか分かりません。礼拝の順序も秩序もなくなってしまいます。とうてい、神の声を聞くどころではなくなってしまうのです。説教者である私がとてつもなくぶっきらぼうだったり、清潔感に欠けていたら神の声を聞く妨げになるでしょう。


そうです、私たちは人々が神の声を聞くために準備し、奉仕するのです。受付で声をかけるのも、講壇にお花を飾るのも、今日はキッチンから少し良い香りがするのも、あなたが神の声をじっくりと聞くためです。照明があってよかった、椅子があってよかった、屋根があってよかった、隣にサポートしてくれる人がいてよかった。それはあなたが神の声を聞き、自分の人生の支えとなる方を知るため、自分の人生を守ってくださる方を見出すためです。


私たちの教会は今年礼拝部、教育部、伝道部をスタートさせます。自分が誇るために奉仕するのではありません。ひとり一人が神の声を聞くために、仕えるのです。自分の寂しさを満たすために、暇をつぶすために奉仕するのでもありません。自分を消して、神の声が通りやすくなるために奉仕するのです。


  1. 偉大な者とは(vv.28-30)


神の声を届けるために、人生をささげたのがバプテスマのヨハネです。先週、少し見たように、彼は生まれながらにして聖霊に満たされ(1:15)、正しいことをして捕らえられ(3:20)、首をはねられて殺されます(9:9)。主イエスも「ヨハネより偉大な者はだれもいません」(28節)と太鼓判を押しておられます。それほど、ヨハネは主に忠実であり、預言者中の預言者です。「しかし、神の国で一番小さな者でさえ、彼より偉大です」と続けられます。主イエスが強調したいことが、ここにもあります。ヨハネが偉大なのは「女から生まれた者で」という注釈付きです。つまり、通常の人間の中でヨハネはもっとも偉大な者と言っています。しかし、ここでのポイントはヨハネよりもっと偉大なのは「神の国に入る者」だということです。


「ヨハネの教えを聞いた民はみな・・・バプテスマを受けて、神が正しいことを認めました」ここにも「聞く」ことの大切さが鮮やかに表されています。偉大な者とは、自分ではなく神が正しいと認めること。その反対は、自分は正しく、神など認めない態度です。30節のパリサイ人や律法の専門家は「神のみこころを拒んだ」と明記されています。それは、自分こそが正しいと思い自負していたので、心にも言葉にも行動にも、神を認める余地や悔い改めるすき間がありませんでした。地上でどんな偉大な者でも、神の国に入ることがなければ空しいだけです。

私たちと神とでは、偉大な者の基準が違います。私たちは何をしたか、どんな人物であるかに従って、その人の偉大さを測ります。しかし、神はご自身の前にへりくだる者を受け入れられます。神の国に入るのは、自分の義を唱える者ではなく、自分の罪を言い表し、悔い改める者です。


この神の国こそ、聖書の中心テーマの一つです。主イエスは神の国についてたくさんのたとえ話をされました。そして、人はキリストを信じて新しく生まれ、神の子どもとなり、神の国に生きる者とされます。そのようにキリストを信じ、心に迎え入れた者には神の国の喜びが実現していきます。具体的には、罪責感や孤独、死の恐怖からの解放、乱暴な性格や自暴自棄の癒やし、真に価値あるものに生きることを実感するようになります。なぜなら、神の国は、神ご自身が治め、神のご性質によって支配されるものだからです。神の国に入る者は、キリストの支配によって導かれて生きるようになります。それまでは罪が私たちを支配していました。憎しみや敵意、失望や落胆が巧妙に誘惑して近づき、そのたびに負けていました。一時的には気分がすっきりしても、後になって後悔や嫌悪感に襲われます。これはサタンによる支配=罪の奴隷の特徴です。しかし、自分を動かし、自分を支え、自分が従うものが神の声になるとき、人は生まれ変わります。自分を支配する方が変わるからです。

たとえば、教会のシンボルは十字架です。これはもともと処刑の道具でした。しかも超のつく極悪人だけに使われる死刑の道具です。なぜなら、それほど十字架刑は残酷なものだからです。「木(十字架)にかけられた者は神にのろわれた者」(申命記21:23)とされています。そして、まさにイエス・キリストはこの十字架につけられ、苦しみを受け、死なれました。文字通り「神にのろわれた者」となられたのです。またそれだけでなく、墓に葬られ、三日目によみがえられました。すると、それから十字架の意味が変わりました。十字架は私たちをのろう道具ではなくなったからです。十字架は私たちの身代わりにイエス・キリストがつけられた赦しのシンボルとなりました。墓は地上の終わりではなく、永遠のいのちの入り口のシンボルとなりました。これは支配者が変わったからです。


罪は死によって私たちを恐怖で縛りつける支配者でした。しかし、イエス・キリストは死から復活されたことにより、死に勝利されました!もはや、死はキリストに太刀打ちすることができないのです。そして、キリストを救い主と迎えるなら、私たちにもキリストの支配があらゆるところにもたらされるようになります。信仰とは、その祝福、勝利、喜びを受け取る単なる器にすぎません。器は何を入れているかが大事だからです。あなたの器に自分の義や正しさ、人への恨みや批判があるなら空しいことです。キリストの勝利、いのち、喜びを入れましょう。


  1. 答えよう(vv.31-35)


主イエスは今朝の結びで、これを聞いている人々に向けて、たとえを話されました。「笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった」(32節)。主イエスはここで、人々のことを踊らない人や泣かない人に似ていると言っているのではありません。そうではなく、「踊らない、泣かない」とぶつぶつ言っている人に似ていると指摘しているのです。これ、ちょっとショックではありませんか?思い通りにならない、してくれないと文句ばっか!と言われていることになるからです。


「あなた、文句ばっかりだよね」「君はよく人を批判してるよね」「今のあなたは嫌な人みたいになってるよ」と言われたら、自分ってそのように見られてるんだなと少なからずショックを受けます。そして、それは嫌なことではありますが、聖書にあることを読んで、「これ、自分に言われてるな」「自分のことだったらキツイな」と思えたら、実はそれこそ正しい読み方になります。聖書を人に突き付けるよりも、自分に痛みを覚える読み方は正しいことです。なんだか心がズキズキ、ちょっと自分について真剣にならないといけないと感じているとしたら、それはあなたが神の声を聞いている証拠です。



実際、この時代の人々は禁欲的なバプテスマのヨハネを見て、皆と同じようにしない彼を変人扱いしました。またイエス・キリストが取税人と食事をしたり、遊女と話したりするのを見てあれも罪人だとつぶやきました。自分の思い通りではなかったり、自分の考えに合ってないものは否定し、非難し、文句を言っていました。


これは、私たちにも身に覚えのある姿勢です。「神さまって私が思ってたのと違う」「教会にいるあの人って何か変じゃない?」「せっかく私がアドバイスしてあげてるのに、あの人ったら全然聞かないのよ」こうした不平不満や偏った考えは、日常的に持っているのではないでしょうか。


先日、次女とスポーツ観戦に行きました。試合前のファンサービスでサインボールが投げられ、私がそれを取ることができました。ちょうど私たちの真後ろには子連れの家族がいて、その男の子が、私がサインボールをもらった選手の名前を連呼していました。それで、私はボールをその子に渡してあげました。すると、その子のお父さんがぼそぼそっと「どうもすみません」と言いました。しかし、それっきりでした。次第に私の気持ちはモヤモヤし始めて、「もったいないことしたなあ」「ちゃんとしたお礼を言ってくれてもいいのになあ」「もうちょっと感謝されたかったなあ」と思いながら試合を観ていました。

ここでぶつぶつ文句を言っている人は、私の姿です。サインボールをあげたのに、感謝してくれない。その選手のファンっぽかったのに、そんなに嬉しそうじゃない。なんなら試合中寝てただろ・・・無償の愛の実践は難しいことを学びました。


イエス・キリストの無償の愛に対して、私たちは答えているでしょうか。もちろん、主イエスは私たちがその愛を拒んだからと言って、化けて出たり、恨めしいことを言いに来たりはしません。けれども、あなたが答えるのを待っておられます。


「見よ、わたしは戸の外に立って叩いている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)             


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