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「あなたの名が天に」

聖書 ルカの福音書10章17-24節


1.  イエスさまの周りにいた人たち

イエスさまの周りには多くの人々がいました。大きく分類すると、敵対者、群衆、弟子の3つに分けることができます。

まず、イエスさまの周りには敵対者がいました。イエスさまの教えや行動をよく思わない人です。この人たちは律法学者、祭司長、パリサイ人と呼ばれていました。彼らは、イエスさまを無視するのでも遠巻きに見る傍観者でもなく、敵対心を抱いている人たちです。同じルカの福音書10章の「祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていた」(19:47)「律法学者たちと祭司長たちは・・・イエスに手をかけて捕えようとした」(20:19)「機会を狙っていたい彼らは・・・回し者を遣わし」(20:20)などから、イエスさまに対して殺意を抱いていたことがわかります。彼らは、イエスさまの話を聞き、奇跡のしるしを目撃していた人物です。また、律法についての専門家で聖書の多くの部分を暗唱し、律法の行いに欠けるところもない人たちでした。


しかし、彼らはイエスさまを受け入れることはできませんでした。それは、イエス・キリストが福音を教えていたからです。人は行いによるのではなく、救い主が必要だと教えたからです。「あなたがたは立派です、行いも素晴らしいから天国へ行けます」とは教えなかったからです。かえって「行いによって義と認められる人は一人もいません」とはっきり告げました。「あなたがたは聖書の中に救いがあると調べていますが、救い主であるわたしのもとには来ません」と面と向かって話されたからです。

律法学者やパリサイ人は、イエスさまの教えをよく聞いていたからこそ、敵対者になりました。彼らの間違いはひとつだけです。自分の行いで神さまのあわれみや救いを獲得できると考えていたことです。自分に救い主は必要ない。自分は十分にやっていると高ぶっていました。そのために、「あなたには救い主が必要です。自分の行いに頼っていてはなりません」という聖書の教えに反感を持ち、しまいには、そんなイエスさまを消してしまいたいという考えに至りました。


これは、私たちのみことばの聞き方にも通じます。音として、意味としてイエスさまの教えやみことばを知っていたとしても、それが敵対心を生み出すものにもなりますし、心がイエスさまから離れていく聞き方もあるということです。神さまにできないことは無く、みことばには力がありますが、神さまは私たちの意志や気持ちとは関係なく働いて、人間をロボットのように操作されません。神さまは、人をそういうものとして造ることもできたのに、そうなさいませんでした。神さまは、私たちがみことばを聞き入れないことも、慕い求めることもできるように造られました。私たちがみことばを捨てることも、みことばから実を結ぶこともできるように造られました。みことばを敵対する心ではねつけることも、みことばを信仰の心に結びつけることもできるように造られました。みことばを蔑むことも(箴言13:13)、みことばに仕えることもできるように造られました(ルカ1:1)。それは神さまが、私たちから愛の応答を引き出そうとしておられるからです。

私たちが自分の意思とは関係なしに誰かに従うのは、とても怖いことです。あなたの友人がそのような態度であなたと一緒にいてくれるとしても、ちっとも嬉しくはありません。「君といっしょに食事がしたいんだ」「どうして私となの?」「なんだかわからないけど、そういうことになっているんだ。勝手に口が動くんだよ」なんて言われたら、相手の義務感しか感じません。無表情で尽くしてくれることは、逆に心配になります。何か裏があるのではないかと疑りたくなります。反対に、もし心底嬉しそうに一緒にいてくれるなら、幸せを感じますよね。双方の心が通い合うからです。愛こそ、互いの関係を強めます。神さまは私たちとのそのような関係を願ってくださっているのです。そのために、私たちの自由を奪わず、無理強いをせず、脅迫せず、焦らせることなく語り、接してくださいます。私たちが鈍くてもやがてそれに応答するなら、神さまはその時まで待ち、「遅い!」とか「なんで初めからそうしないんだ!」とは言わずに迎え入れてくださいます。


ただし、みことばは、私たちの心の奥底、判断の源、価値観、人生観、世界観、プライドを揺さぶってくるので、私たちは抵抗し、みことばこそ私たちの強敵となるのが自然です。今まで、自分以外や自分がよいと思ったもの以外に従ったことがないので、自分の耳、意志、心をみことばに従わせることが困難に感じます。それで、みことばは敵対心を引き起こすのです。律法学者たちは真剣にイエスさまの教えを聞いていたからこそ、怒りました。真剣は良いことです。でも自らの聞き方、そして神さまがどのような思いでみことばを語ってくださっているのかを、よく掘り下げて吟味する必要が私たちにはあるのです。

次にイエスさまの周りにいるのは群衆です。文字通り、彼らはたくさん、大勢います。ルカの福音書でも「群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って」(5:1)「大勢の群衆がイエスを迎えた」(9:37、他7:11、8:19)など、とにかく「大勢の群衆」がいたことが分かります。敵対者もそれなりの数がいましたし、「大勢の弟子たち」(6:17)もいましたが、一番多かったのはこの群衆のゾーンにいる人々です。群衆とは、どのような人たちだったのでしょうか。彼らはイエスさまの教えを喜んで聞く人たちです。彼らはイエスさまをその目で見た人たちです。彼らはイエスさまの奇跡を経験した人たちです。それくらい、イエスさまを間近で味わうことのできた人たちです。弟子と呼んでよいほどの距離、時間、内容を過ごしていますが、「群衆」のままの人たちです。聖書は「群衆」と「弟子」を区別して記しています。群衆のすべてがイエスさまの弟子になっていたら、数千人、数万人の弟子が生まれていたはずですが、聖書を読むとそうではなかったことが明らかです。敵対者、群衆、弟子の中でもっとも高い比率を占めているのがこの群衆です。


この比率は、私たちはもっとも群衆になりやすい、ということを教えてくれます。みことばを聞き、イエスさまのことを知り、たくさんの証しや証言も聞き、神さまのみわざと思えるような経験もしました。けれども、群衆以上には踏み込まない。なぜでしょうか? いいことだと分かっているけれど、これ以上は神さまに入って来てほしくない。今のままでいたい。自分で人生をコントロールしていたい。

イエスさまの教えを喜んで聞いても、そのまま帰るのが群衆です。イエスさまのパンの奇跡を経験しても、それ以前と以後で何も変わらないのが群衆です。そして、群衆のままでとどまっていると、さらに重要な局面であやまちを犯してしまいます。それは十字架の場面です。「イエスを十字架につけろ!」(23:21、23)と要求したのは、敵対者ではなく、群衆(民衆)でした。群衆は「十字架だ。十字架につけろ」と声を張り上げ、イエスさまを死刑に追い込んだのです。十字架を背負って歩くイエスさまをののしり、罪人の赦しのために祈るイエスさまを目の当たりにしながら「民衆は立って眺めていた」(23:35)のです。そして、イエスさまが息を引き取ってしまうと「悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った」(23:48)のです。全部目撃しても、そこから一歩先へは決してイエスさまに近づこうとはしない人たち。それが群衆です。皆が熱狂して聞いていると思えばその中に入り、皆が十字架につけろと叫んでいれば、自分も声を枯らす。皆が悲しみながら帰れば、自分もそのまま帰路に着く。これが群衆心理であり、群衆の中に身を置く自分の姿かもしれません。


あなたも、群衆にいる限り同じです。イエスさまの教えは聞いていても、決して従わない。イエスさまの招きを受けても、決して応答しない。イエスさまの祈りを聞いても、決して心を開かない。皆と同じように帰ってしまうのです。あなたが、群衆から一歩進み出る朝が来ているのではないでしょうか。


2.  なくならない喜び

ここまで敵対者、群衆と見てまいりました。律法学者たちは聖書を知っていましたが、イエスさまを本当の意味で知りませんでした。みことばを実践していましたが、心の中には殺意がうごめいていました。群衆もイエスさまの教えを聞いていましたが、一年間聞き続けても神さまとの関係に何の変化もありませんでした。イエスさまのしるしを経験しても、毎日変わらない生活をしていました。そんな中、劇的な変化を遂げた人がいます。それが「弟子」です。「主は(十二使徒とは)別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされ」(10:1)ました。その彼らが帰って来て、「悪霊どもでさえ私たちに服従します」(10:17)と喜んで報告したとき、イエスさまは「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(10:20)と言われました。弟子には喜びがあります。これは先の敵対者や群衆は絶対に持っていない宝です。彼らには喜びがありません。しかし主の弟子には喜びがあるのです。しかも、「あなたがたの名が天に書き記されている」喜びです。


重要なのは、私たちの喜びの源がどこにあるのかです。ここで「喜んで帰って来た」(17節)と「喜びなさい」(20節)は同じ言葉です。自分たちのわざが通用した、やったことが人に歓迎されたことに弟子たちが「喜んで帰って来た」のに対し、イエスさまは「あながたの喜びはそういう地上の行いに基づかず、天にあなたの名が記されていること=神さまがあなたを救ったという確信にある」と教えられました。一時的なもの、自分の能力に基づいたもの、状況によってたまたまうまくいったことを喜んでいたら、いつも喜ぶことはできません。けれども、変わらない天にあるものを喜びとするとき、私たちは「いつも喜んで(原語:誇って)」いることができます。もし、私たちの喜びが自分に対する評価や財産、学歴や職歴、友人の多さや賞状の多さであったなら、それらは危ういのです。この世は永遠の喜びから心をそらそうとするものでいっぱいです。「一時的な満足でいいじゃない」「何を喜ぶかなんて毎年変わるよ」「そんな永遠とかイエス・キリストとか面倒だよ」とたくさんの惑わしがあります。しかし、私たちの希望の源が主のしてくださることにあるとき、喜びは消え去ることも、奪われることもありません。


弟子になるには求められるレベルがあるのではと考え、遠慮してしまうかもしれません。けれども、私たちに力や知恵や立場や資格があるから弟子になれるのではありません。あるプロ野球選手は、職人に何本も作らせてから、自分にふさわしいバットを数本だけ選んで使います。職人が丹精込めて作ったバットも、使われるか使われずに捨てられるかはその選手の眼力によって決められます。人間が使う道具でさえそうであれば、神さまが使われる人はいかがでしょう。神さまの目にかなった完璧な人がいるのでしょうか。いいえ、だれも主の弟子にふさわしい者などいないのです。人間同士のパートナー選びでも不満や不足、争いがあるぐらいですから、神さまに認められる資格を持つ人など誰一人としていません。

しかし、神さまはある方法をもって弟子を選ばれます。それは、神さまの招きに答える人です。まさに「『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください』」(イザヤ6:8)とあるとおりですね。主なる神さまは、ご自身の招きに答える者を弟子としてお使いになられます。私たちに求められているのは、自分の資質や実績ではなく、主の招きの声を聞いたなら、それに答えることだけです。


弟子たちが主イエスの弟子になったのは、その招きに答えたからです。十二弟子の前にイエスさまが来られ、「わたしについて来なさい」と招かれ、そのみことばに従って彼らは弟子となりました。イエスさまはそうやって私たち一人ひとりのもとにも訪れ、同じみことばをもって弟子として招いてくださいます。ここにいる私たち一人ひとりにも、誰のことも飛ばさないで「わたしのもとに来なさい」と声をかけてくださるのです。


私たちはとても価値ある者です。神さまがひとり子であるイエス・キリストのいのちと引き換えに買い取ってくださったほどに価値ある者です。私自身は自分に何の価値もないと決めていても、主はそのようにご覧になっておられません。あなたを救うために、キリストのいのちという代価を支払ってくださいました。これによって、私たちは神さまの目に自分がどれほど大切な存在であるかを知るのです。これを宝にして歩むのが主の弟子であり、その喜びは天に書き記されているので揺らぐことがありません。


3.  良い知らせのために

私たちは、どこで喜びをかみしめるのでしょう。救われて本当によかった、救われてから地上の人生がさらに豊かになったと言えるでしょう。海辺を歩くとき、星を眺めるとき、おいしいものを食べるとき、温泉につかるとき、お化粧がうまくのったとき・・・・・・これらも間違いではありません。けれど、これらが喜びの中心ではありません。聖書で一貫している喜びの中心とは、福音に生きるということです。福音を聞き、福音を知り、福音を味わい、福音を伝えるということです。


イエスさまの弟子たちは「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びとし」(使徒5:41)て生きるようになりました。いっしょに楽しいことをする仲間は大切ですが、いっしょに苦しみを担ってくれる仲間はもっと尊いです。いつも楽しみを与えてくれるのはありがたいですが、自分を信頼して大変な任務を与えてくれるのは、さらに力が湧きます。イエスさまと弟子たちとは、そのような関係でした。愛も苦しみもともにし、種蒔きも刈り入れもともにする関係です。そして、イエスさまは一人ひとりがつまずかないように、信仰がなくならないように祈ってくださっています。「あなたがたも離れて行きたいのですか」(ヨハネ6:67)と弟子たちに声をかけられたイエスさまは、私たちが揺れ動く者であることを十分に理解した上で、主の弟子として最後までいっしょに従ってきてほしいと願いをかけてくださる方です。この主の熱心によって、主の弟子たちは支えられるのです。これは、私たちも同じです。私たちは主について行くのですが、主が私たちを支えてくださるのです。

先週のみことばのはじめのくだり、イエスさまは「ご自分がこれから行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ」(10:1)、七十二人を遣わされました。そうです、私たちもイエスさまの働きをするために遣わされています。福岡めぐみ教会は大変恵まれていて、本日、感謝アワーをもったように二組の宣教師(あと一組はアメリカに滞在中)が遣わされています。イエス・キリストの弟子がたくさんいます。私たちは、主の働きをなすために祈られ、生み出され、支えられ、存在し、これからも歩んでいきます。イエス・キリストの教会であり、キリストのからだとして福岡めぐみ教会が立っていかなければ、何の意味もありません。ただ楽しい仲間、楽しい時間があるだけではなく、福音に生きる人として交わりをもっていく。福音を伝える者として励まし合っていく。今日、私は主を礼拝した。今日、私は主のために犠牲を払った。今日、あの人がイエスさまに仕えるようにAさんに仕えているのを見た。そうした弟子の姿と言葉と証しとが満ちていくように願っています。そしてどうか主が、私もその仲間に入れてくださいますように。


遣わされる中で、失敗や落胆するとき、忍耐しなければならないときや疲れが出るときもあるでしょう。しかし、今朝の「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とのみことばを思い出し、主によって前に進みましょう。

私たちは福音のために労苦し、福音のために話し合い、福音のために奉仕し、福音のためにささげます。福音のために手足を使い、福音のために口を開き、福音のために悩み、福音のために奮闘しましょう。福音のために料理し、福音のために椅子をならべ、福音のために花を生け、福音のために電気のスイッチを入れ、福音のために郵送物を送り、福音のためにスリッパを磨き、福音のために買い出しをしておられる方々がいます。


天にその名が書き記されている私たちにとって、主イエスのために生きるのは最高の喜び、栄誉、目的です。最高の喜び、栄誉、目的のためには、最大の犠牲を払います。それは必ず報われるので、無駄にはなりません。主は、いのちの犠牲を払って私たちを招いてくださいました。この主の招きに答えましょう。         ■                              


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