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「死を恐れない」

へブル人への手紙2章15節


  1. いろいろな恐怖

今年のレント(受難節)では「十字架上で七つのことば」を見てまいりました。主イエスは罪ある私たちの身代わりとなって十字架につかれたこと、その十字架の死によってすべての罪の支払いが完了したことを学びました。今朝はイースター、復活を祝う礼拝です。キリストは死んで終わり・・・であればそれこそ希望がありません。「あの方は立派な人物だった」と歴史上の英雄や偉人たちと変わらないからです。しかしイエス・キリストは死からよみがえられました。キリストの復活がなければ、地上に教会は誕生しませんでした。この2千年間、日曜に礼拝することも決してありませんでした。弟子たちはイエスを主と信じることなくそのまま隠れ続けるか、散り散りバラバラになって過ごすしかありませんでした。しかし、今も世界中で教会があり、(基本的には)日曜に礼拝がささげられています。それはキリストが復活されたからです。福音とは十字架と復活です。十字架が歴史的事実であったように、復活も歴史的事実なのです。私たちの信仰は確かな根拠に基づいています。


さて、私たちの生活は様々な恐怖に囲まれています。人間はおびえて過ごすのですね。例として(▶スライドを参照)、閉所恐怖症、高所恐怖症、集合体恐怖症など身近に感じるものがあります。あるいは二重アゴ恐怖症、片栗粉やピーナッツバター恐怖症といったものもあるそうです! また日本では4が、西洋では13が不吉な数字とされ、階数や部屋番号などでそれらの数を抜かす風習があります。

黙示録13:18から666が悪魔の数字とされたりもします。逆に、幸運を呼ぶと考えられている数字もあり、ラッキーナンバーの7や近頃では車のナンバーに「・358」が争奪戦になっています。これは縁起のいい数字を並べたものだそうです。これらのものには根拠がありませんが、何かしら人間は恐怖を感じ、できることならそれらを避けたいという考えの現れであると言えます。もしかしたら、これらの縁起や慣習によって安心できるときがあるかもしれません。一生の間、大病しない人や災害に遭わない人もいるかもしれません。けれども、私たち人間にとって絶対に避けることのできない恐怖、危険があります。それは「死」です。私たち人間は必ず死にます。これはもう100%の確率であって、避けようがありません。どんなに成功した人でも、国王でも、偉人でも死ぬことは間違いがありません。あのダビデが「私の心は内にもだえ 死の恐怖が私を襲っています」(詩篇55:4)と記しています。


死に対する対応策はあるのでしょうか?

①考えないようにする。自分には大災害は起こらない、自分は例外だと考えることによって平静を保とうとします。しかし、これらによって死を避けることはできません。

②気晴らしをする。楽しい時間を過ごすことで死を意識の外に遠ざけたり、忘れたりすることはできますが、死そのものを打ち消すことはできません。

③冷凍保存する。よく映画などで肉体を冷凍保存して未来に解凍するようなシーンがあります。研究結果によると、冷凍したものは元通り復元することは不可能だとのことです。グラスに水を注ぐと、その中にある氷は「キシキシッ」と音を立てて崩れていきます。同じことが、冷凍保存の身体にも起こるそうです。

④名声を残したり、家族に覚え続けてもらう。私たちは祖父母あたりまでの名前は言えても、それ以上はほとんど覚えていません。また名前を記憶されていたとしても、生きている時のように楽しんだり、喜んだり、交流ができるわけでもありません。

見てきたように、死には解決方法がないのです。それだからこそ、「福音」が必要です。人間には避けることも解決することもできない死の問題を解決してくださる方がおられる。これが復活のメッセージです。いよいよ、聞いてみたいと思いませんか?


2.死の解決者

第一コリント15:3-6をご覧ください(▶スライド参照)。インドネシアに宣教師として遣わされた先生が、まず現地の人にこの数節を読んで聞かせたと言っておられました。福音はこの箇所に凝縮されていると言っても過言ではない重要な数節です。「・・・聖書に書いてあるとおりに・・・三日目によみがえられたこと・・・ケファ・・・十二弟子・・・五百人以上の兄弟たちに同時に現れ・・・大多数は今なお生き残っています」。この箇所は、キリストが復活した証明です。ここにはキリストの復活の目撃者が実に512人以上いたことが記録されています。ジャーナリストによると、ある出来事が実際に起こったかどうかは「二つの異なった視点からの証言」によって証明されるそうです。たとえば、私がサニーで3割引のエクレアを買ったことは店員ともう一人別の買い物客が目撃していれば証明されます。交通事故現場で目撃者を募るのも、当事者以外の証言によって事実関係が明らかにされるからですね。ここでキリストの復活は一人の弟子や12使徒(ユダを除く)、そして五百人以上が目撃していると書いています。さらに「大多数は今なお生き残って」いるので、彼らに証言を取ることが可能でした。おそらくこのコリント人への手紙はイエスの死後25年後くらいに書かれたものです。当時のことをよく知る人たちが生き残っていていたので、聖書がでたらめであれば彼らは復活を否定する証言ができました。その当時からキリストが復活したと記している聖書が重んじられ、回覧され、人々に伝えられ、語り継がれていたことが復活の事実認定をするのに十分な証拠となります。私たちも数百年前にザビエルがいたことは分かりませんが、25年前に入江先生夫妻がここで宣教を開始したのは事実と知っています。目撃者がここに多くいるからです。同様に、聖書が証言しているキリストの復活は、五百人を超える目撃者によって事実だと知的、理性的にも認められているのですから、信じるに値することなのです。


このようにキリストは本当に復活されました。では次にその意味を捉えましょう。「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(へブル2:14-15)。聖書は「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」と教えます(ローマ5:12)。この死とは、肉体的な死であり、霊的な死です。罪によって私たち人間は誰もが肉体的に死ぬ者、霊的には(=神との関係において)死んでいる者として生まれます。私たちは、自分の肉体を死なないようにすることも、自分の霊にいのちを与えることもできません。私たちは罪と死に支配されており、またその奴隷であるため、私たち以外の誰かがこの状態から救い出してくれなければ一生涯解決はありません。そして、この死の問題を解決してくださった方こそ、イエス・キリストなのです。


キリストの復活は、死に対する勝利であり、悪魔に打ち勝ったしるしであり、罪の奴隷からの私たちの解放です。もはや、悪魔は死によって人間を奴隷にしておくことができません。どんな罪を犯した者であっても、です。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。キリストにある者は罪に支配されません。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです」(ヨハネ6:39)という主の約束はまことです。キリストはただこう宣言しているだけではなく、ご自身が復活し、約束は本物だと知らせてくださいました。「わたしを信じる者を一人も失わずによみがえらせる」。これがキリストを信じる者の人生の土台となります。キリストはご自身のもとに来る者、ご自身を信じる者を決して手放されません。一人も失うことなく永遠のいのちを与え、復活のからだによみがえらせてくださいます。キリストを信じる者はイエスを死の解決者として信じ、それを事実として新たに生き始めるのです。

3.自由にされた

私たちは自由にされました。罪の支配下にはもういません。キリストの救いの中に生かされています。死で終わる生涯ではありません。死から復活した永遠のいのちに連なる者とされました。死はいのちを生み出せませんが、いのちはいのちある者を生み出します。復活のイエス・キリストのいのちから、私たちは新しく生まれた者です。この救いは、失われることがありません。


例を挙げて話します。皆さんの前に氷の張った湖があると想像してください。私が湖の向こう岸にいて、皆さんに「大丈夫ですから、安心して渡って来てください」と言ったら、どうしますか?どのように氷の上を歩くでしょうか。おそるおそる、ソロリソロリとなるべく体重をかけないように進むかもしれません。ある人は二本足に体重をかけるのを恐れて四つん這いで進むかもしれません。なぜ、そうするのでしょうか? 氷がどのくらいの厚さか分からないからですね。多少のことでは割れない、歩いても大丈夫なのか保証がないからです。私たち家族が以前に住んでいた岩手県には岩洞湖というワカサギ釣りで有名なスポットがあり、そこでは氷の厚さが15センチになると解禁され、人々は歩いたり、テントを張ったりして釣りを楽しみます。さて、私たちの救いはおそるおそる進まなければならないものでしょうか? 死に向かってビクビクしないといけないものでしょうか? 次にあげるみことばに注目しましょう。

「あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています」(第一ペテロ1:21)


私たちの信仰と希望は神にかかっています。私が大丈夫と言うような不確かなものではなく、またそれは分厚い氷よりも確かな、神の真実に基づいたものです(▶スライドの図を参照)。私たちの信仰は人の言葉ではなく神の約束に支えられています。ですから、自分がどのように進むか=割れないようにそっと歩いたり、救いを失うかもとビクビクしたり、救われているかどうか定かではないと首をかしげたりする必要は一切ありません。一生涯死の奴隷として恐怖に脅えていたはずの私たちは、死を滅ぼしたキリストの救いにあずかりました。この変化は人生でもっとも大きなものです。若さ、美しさ、富、健康、長寿、繁栄を求めていた私たちが、キリストのために生きることを求めるように変えられたのです。キリストが復活されたのなら、キリストの言われたすべてのことばは真実です。聖書に記された主の約束を握りましょう。必ず、そうなります。私たちは救われ、神の祝福を味わい、イエスを主として生きる道を与えられました。それは罪と死の奴隷として歩んでいたものとは正反対の自由な者としての人生です。からだを殺しても、たましいを殺せない者を恐れていた私たちが、復活のからだにあずかり、たましいの救いを与える神にあるものとされました。イースターから、私たち全員が生まれ変わり、神の約束を握り、キリストのために勇気をもって生き始めたいと願います。■


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