「主の祈り(5)」~日ごとのパンを~
- 大塚 史明 牧師

- 4月12日
- 読了時間: 9分
ルカの福音書11章1-4節
どこから
今朝は「主の祈り」シリーズの続きになります。お手元に主の祈りのカードがある方はご覧ください。今朝は「私たちの日ごとの糧を、毎日(今日も)お与えください」です。これまで「天の父」「神」が主題でしたが、ここから「私たち」へと変わります。そして、私たちのために祈る最初が「日ごとの糧(原語:パン)を、毎日お与えください」です。「食事のために祈りなさい」ということです。聖書は精神的な教えや心の持ち方という内面だけでなく、肉体や身体の必要、食べることといった身近な暮らしについても教えています。
「日ごとの糧」とは毎日の食事のこと。現在、一日三食というのが大方の生活リズムです。ただ、例外もありスペインやメキシコでは一日五食だそうです。ヨガに傾倒する人は一日一食のみです。一日何回食べるかは別として、いつも食卓が備えられるように祈るのです。それは、食べ物があることが当然ではないと知るためです。
一家の主がその妻や家族に言ってはいけない言葉があることをご存じでしょうか。それは「だれのおかげで飯が食えてると思っているんだ」「俺が外で働いてきた稼ぎでお前を養ってやっているんだぞ」です。昭和の時代は通用したかもしれませんが、今そのようなことを言えば熟年離婚され、孤独な老後生活を送ることになります。
この祈りの一つ目のポイントは「糧はどこから」来るのかです。
イラストをご覧ください(お母さんが食事の準備をして、みんなでご飯を食べている)。おいしそうに食べていますが、もし子どもが「このおかずおいしいね。いったいどこから来たんだろうね」と聞いたらどうでしょう。またお父さんが「確かにおいしいよね。けど、どこから来たのかとか余計なことは考えないで今は食べよう」と返答したとしたらどうでしょう。おかしな点はありますか? そうですよね、この料理を準備したお母さんへの感謝がありません。もし、お母さんの存在を無視して料理だけを食べるとしたら、お母さんは次の日から料理をしたくなくなるでしょう。お母さんは怒って当然です。その存在を認めず、感謝しなくてよいものとされているからです。
これと同じことを私たちはしがちです。先ほどの昭和の頑固おやじではないですが、「私を敬い、感謝すべきだ」「私は自分の力で生きている」「毎日家族が不自由なく暮らせるのも私のおかげだ」「お母さんがご飯を作るのは当たり前だ」と口や態度に出したり、心で高ぶったり、考えたりするものです。そんなとき、この主の祈りを思い出し、この祈りの立ち位置へと引き戻される必要があるのです。いったい、この食事はどこから来たのだろうか。だれが与えてくださったのだろうか。また、飲み食いだけでなく、五感を通して味わうすべての営みにも同じことが言えます。私たちは息をする、風を感じる、香りをかぐ、鳥のさえずりを聞く、子猫をさわるといった何気ない所作を毎日、毎時間、毎分、毎秒しています。しかし、それらはどこからともなく来ているのではなく、まさに神からの恵みなのです。
すべて当たり前や自分のおかげではなく、主から来ていることを覚えましょう。お椀一杯の味噌汁にどれだけの神の恵みが盛り込まれているか。料理する人、いっしょに食べる人、作物を育てる人、運ぶ人、売る人、太陽や雨・・・人に知恵と力を与えられた主の恵みがなければ実現していません。福岡では豚骨ラーメン屋の近くを通るとスープの香りがします。あのクセの強いにおいが好きか嫌いかはさておき、日ごとの糧を与えてくださる主の恵みを思い出させてくれるなあと思います。私たちは神の恵みに生かされ、その恵みは満ち、目の前に届けられています。その感謝を実践するのが食前の祈りです。クリスチャンは食前に感謝の祈りをすることが多いかと思います。私も感謝して食べるようにしています。岩手の名物に「じゃじゃ麺」というものがあるのですが(スライドの写真を参照)、これは太い麺に肉みそときゅうりが添えられていて、テーブルの調味料をお好みで混ぜて食べるソウルフードです。観光客にも人気なので、老舗はいつも繁盛し、行列ができます。あるとき、私がじゃじゃ麺を頼んで食前の祈りをしていました。すると店員さんが近くに寄って来て「よかったら食べ方をご案内しましょうか?」と言われました。おそらく、どう食べていいかわからずうなだれている観光客に見えたようです(祈っていたのに!)。
2.どこまで
二つ目は、この祈りが「糧をどこまで願うのか」です。よく見ると「日ごとの糧を毎日」と二つの区切りがあることが分かります。
一つは「日ごと」というその日の分を祈ることです。そして、もう一つは「毎日」求めることです。今週全部のことをまとめて祈るとか、一気に一か月分祈っておこうと横着をしないで、毎日祈ることです。「日ごと」というのは、私たちの欲を制限し、自制するのに有益です。食欲に代表される私たちの欲には際限がありません。食べ放題で神の栄光を現すのは至難のわざでしょう。その欲に歯止めをかけるように「日ごとのパンを」求めるように教えています。「その日の分」「一食分」を祈ることで十分だということです。これと似ているのが「明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」(マタイ6:34)というみことばです。いつも心配ばかりしている私たちに、その日の分だけ心配すれば十分だと教えてくれます。なぜなら、すべてを創造された神は、あなたの必要をご存知だからです。野の花を装い、空の鳥を養う方が、あなたのことを大事にしてくださらないはずがないと気づかせるものです。同じく、一羽一羽のすずめに目を留め、私たちの髪の毛さえもすべて数えておられる方が、私たちに必要なものを与えてくださらないわけがありません。いつも欲しいもので頭がいっぱいの私たちだからこそ、この方のなさることに信頼して、その日の分だけを求めればよいのです。この祈りは、どこまでも私たちが自分の欲にしたがって求めないように、そっと確かな真理を教えてくれます。そうでないと、私たちはどこまでも多く、どこまでも勝手に求めてしまうからです。
昨年、急な入り用ができたときのことをお分かちします。
長女の進学に合わせて、パソコンが必要となりました。夫婦でそのことを祈っていると、翌週に盛岡の後任牧師から連絡があり「今、本棚で探し物をしていたら、お金の入った封筒を見つけたので送ります」とのこと。それは必要な金額を満たすものでした。その封筒が挟まっていたのは、妻の母が使っていたディボーションの本でした。こんなことは人間には計画できないし、タイミングも完ぺきでした。これは数え切れないほどの神の恵みの一つで、私たちの毎日の食卓にも、同じように主の深い知恵と恵みによって糧が届けられているのです。私たちを愛し養ってくださる主が、ちゃんと必要を満たし届けてくださいます。時には先ほどの話のように明らかに分かる方法で届きます。それは、私たちがもっと親しく、信頼して主に祈るようになるためです。また私たちが知らないところでも、主は実に多くのことをしてくださっています。以前、何かの番組で人類未踏の地にドローンを飛ばしたら、辺り一面に大変綺麗な紅葉の景色が広がっていたのを撮影していました。神は人の見えるところだけでなく、見えないところにも働き、その知恵と力をまざまざと現わしておられる方だと知らされました。私たちも、行く道すべてにおいて主を知りたいと願います(箴言3:6)。
3.さらに
さらにこの祈りは、ただ地上でパンが与えられたら満足するように、と教えるためのものではありません。私たちが地上の幸せを求めて信仰を持つと、地上のことだけを求めて終わってしまいます。仕事、健康、家族、学業、楽しみ・・・これらが与えられたとしても、それがすべてではありません。地上で獲得したり、経験したりすることはいずれ変化し、なくなるものだからです。ある人は「一時的に役立つものは、つまりは永遠に役立たないのだ」と指摘していました(リック・ウォレン)。
イエスさまが荒野で四十日過ごした後、悪魔に試みられたとき、最初に受けた誘惑は「空腹を満たすために石をパンに変えよ」でした。これは、食べ物など、生きるために必要だと自分が思うものが人間にとって強力な誘惑であることを教えています。そのときイエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と答えて、その誘惑を退けられました。この祈りをさらに深く味わえば、私たちは日ごとの食卓にのぼるパンだけを求め、感謝すればよいのではないと分かります。身体のためのパンだけでなく、霊の糧であるみことばのパンを求めることを教えてくれるのがこの祈りです。今日も食卓で食事にあずかり、そうして身体が支えられるのと同じように、今日もみことばを食べ、内なる人が健やかにされ、支えられていくことを求めるのです。
そうでなければ、私たちは食べてなくなるパンだけを追い求めて生きる空しい人生を送ることで一生懸命になってしまいます。
さらにイエスさまは、五千人の給食の奇跡の後、「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です」(ヨハネ6:27)と言われました。
「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」とは、どういうことでしょうか。「神の口から出る一つ一つのことば」をいただいて満たされた者が、今度はそれを分け与える者として労することです。そう、私たちは主からいただいくことはもちろん、主のために貢献する特権をいただいているのです。教会はすべて奉仕や献金で動いています。これは本当にすごいことです。ここにおられる(オンライン含めて)一人ひとりがイエス・キリストのためにささげることでこの礼拝が実現しています。それは、イエス・キリストのためにすることが価値あることだと知り、イエス・キリストのために何かできることが喜びとなり、まさに「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働く」ことに最高の意義を見出すからです。どうせやるなら、ぜったいに見落とさず認めてくれ、最高の我が主、聖なる方のためにしたいものです。イエス・キリストのためにすることには何一つ、損も、見込み違いも、うやむやになることもありません。
ときに私たちはトラクト配布しても、祈っても、誘っても、子ども会をしても、イベントをしても、落胆し、疲れ、意味がないように思えてしまうこともあります。すぐに芽を出し、実を結ぶことがないためです。しかし、それは私たちが永遠を見渡せず、より近いもの、早いもので判断しているからです。主は永遠のお方です。主の前に忘れ去られる奉仕や働きは何一つありません。永遠の視点で見ておられる方が、ご自身のちょうど良い時に用い、報いてくださいます。永遠のいのちに至る食べ物のために労する者、労する教会は幸いです。■

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