「主の祈り(6)」~罪の貸し借り~
- 大塚 史明 牧師

- 4月19日
- 読了時間: 10分
ルカの福音書11章1-4節
どれだけ赦しているか(誤解その1)
「主の祈り」シリーズの続き「罪に赦し」についてです。ルカの福音書では「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人をみな赦します」、お配りしたカードのマタイの福音書では「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」とあります。このシリーズ中に歌う教会福音讃美歌379番は「我らに罪を犯す者を 我らが赦すごとく 我らの罪をも赦したまえ」です。「罪」「負い目」と表現に違いがあり、「負い目」の方が軽いと感じますが、聖書では同じように扱います。マタイの福音書では「負い目(負債)」、ルカの福音書では「罪」としますが、双方とも「重み」は同じで差はありません。「負い目」は神との隔ての大きさを、「罪」は神の前での汚れを表し、聖なる神の前での人間の弱い立場を表します。
今朝は、この祈りの部分を「3つの誤解」として見てまいります。一つ目は「私たちが罪を赦したら、私たちの罪も赦される」という誤解です。先の賛美歌も「我らが赦すごとく 我らの罪をも赦したまえ」とあり、素直に取れば「私たちが人の罪を赦すのに従って、神も私たちの罪を赦される。私たちが人の罪を赦さないなら、神も私たちの罪を赦されない」となります。神は私たちがどれだけ赦したのかという度合いや回数によって、私たちを赦してくださるお方なのでしょうか。
私がみなさんと聖書を分かち合うときに意識しているのは「福音(グッドニュース)として聖書を読むこと」です。聖書の書かれた目的が「私たちに救いと成長を与える」(参照:2テモテ3:15-17)ためだからです。福音の反対は律法です。律法は、自分の行いによって神の義を得よう、救いを達成しようとする考え方です。律法によれば、ここは「私たちが人をどれだけ赦したかで神は私たちを赦される。私たちが完璧に人を赦し続けたら神も私の罪を完全に赦してくださる」となります。いかがでしょう。自分に罪を犯す人を全員、完璧・完全に赦す人、赦してきた人はいるでしょうか? ここにいる全員が「いいえ」と答えるしかないですよね。確かに、律法によっては救いは得られないのです。自分の行いでは救われないことや自分で自分を救える人は誰もいないことを教えるのが、律法の役割です。さらに、「私には自分を救ってくれる方が必要だ」という求めを起こさせるのも、律法の役目です。そう、律法は私たちを絶望へと追い込みつつ、救いへと導く役割をするので重要なのです。律法は、「私たちが救われるには福音しかない」ことを認めさせるのです。
そして、この個所を良き知らせとして読むならば、こうなります。「私は人を赦すことができない。恨みっぽいし、ひがみっぽいし、自分のした悪は忘れても、自分にされた悪は決して忘れない者だ。しかし神は、そのことを条件に私を赦す、赦さないを決めない」。私たちの赦しは、自分の赦し方によって決まらないのですね。それだけでも人は解放されます。さらに、聖書には「・・・私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)とあり、赦しは私たちではなく、神の愛に基づくと教えています。
「神の赦しは、自分がどれだけ人を赦したかとは関係がない」ことをしっかりと整理し、一つ目の誤解を解いておきましょう。
提案:例
神に赦され、神の恵みと憐れみが心の奥深くまで届いている人は、神の赦しへの感謝や、神との親しい交わりの中に留まります。そして、この個所を「私たちに救いと成長を与える」ための良き知らせとして読むのでこのように考えます。「私の神はこんな私を赦してくださっている。そして私に、人を赦すように命じ、そのように導いておられる。赦すことは神への感謝と従順、そして、神がこの状況を正しく取り扱ってくださるという神への信頼の表れだ。私は神に感謝し、神を信頼して従いたい」。もちろん誰も、「神さま、私は100%赦しました」とは決して言えません。でも、このような心でいるなら、真実で正しい神は必ず恵みを与えてくださいます。その恵みとは、私たちをすべての罪からきよめ、私たちが告白した罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめる恵みです(Ⅰヨハネ1:7⁻9)。私たちの赦しは、100%赦した⇒100%赦される、ではないのですね。それだけでも人は解放されます。「神の赦しは、自分がどれだけ人を赦したかではなく、私たちへの神の恵みである」ことをしっかりと整理し、一つ目の誤解を解いておきましょう。
2.どれだけ赦されているか(誤解その2)
二つ目は「私たちの罪がどれだけ赦されているのか」についての誤解です。罪の赦しの度合いがある者は少しだけ、ある者はちょっと多めにと違いがあるわけではありません。私たちの感じ方には違いがあるかもしれませんが、神の赦しがどれほどのものか、誤解のないようにしておきましょう。
マタイ18:23-30をお開きください(前のスライドにも要点あり)。ここは「赦しの大きさ」について教えています。イエスさまは「天の御国は・・・清算をしたいと思った」(18:23)からたとえを話されました。私たちは「天の御国」というと光輝くとか、ハープの演奏とかを思い浮かべるかもしれませんが、イエスさまは「清算」を主題にして話しておられます。言わずもがな、それは「罪の清算」のことですね。登場するのは「一万タラントの負債のある者」です。はじめ、主君は彼に返済するように命じます。しかし、その家来が「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」(18:26)と願ったので、主君はかわいそうに思って負債を免除してあげました(18:27)。「一万タラント」は聖書欄外によると、1タラント=6千デナリ、1デナリ=一日分の労賃です。現在の福岡県最低賃金で一日8時間労働で(1,057×8)8,456円×6千×1万=総額5,073億円超!しかも、これは私たちの稼いだ賃金や財産ではなく、背負っている負債額。私たちの負い目・罪がどれだけ大きいのかを数字で表現しているのです。その借金に対して主君は「返済」を命じました。それを聞いた家来は「もう少し待ってください・・・すべてお返しします」と言っています。これが二番目の誤解なのです。この家来は自分の負債額の大きさ、返済の途方もなさどころか不可能さをわかっていませんでした。むしろ「すべて返せる」と考えていたので、主君には「もう少し待ってください」と時間の猶予をお願いします。主君が待ってさえくれれば、返済できるというのが彼の誤解でした。彼の借金は一生涯かかっても返せない、終身刑で働かされても全然足らない大きくて重いものでした。しかし、彼はその深刻さよりも、期日の延長を願ったのです。私たちも子どもの頃「ごめんなさい。これからはしません。良い子になるから赦してください」と言ったことがあるのではないでしょうか。時間や機会があればどうにかできる、と考えるのが私たち人間の負い目、罪に対する誤解なのです。
これに対し、主君はまったく別の方法で彼を扱うことにします。なんと「かわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった」(18:27)のです。主君はその家来の返済能力を超えていること、ひれ伏して懇願する姿、彼自身や家族を売り払わなければいけないことなど色々親身になってくださり、かわいそう(断腸の思い)になり、額免除という破格の対応をしてくださいました。これは家来の返済努力とはまったく関係がなく、ただ主君である王のあわれみに基づいた処置です。
家来が主君に求めたあわれみが「時間の猶予」だったのに対し、主君は家来に「借金の免除」というまったく別の、次元の違うあわれみを注いでくださいました。これくらい、神と私たちとでは罪や負債に対する考えが違うのです。この家来は釈放され、出て行きます。しかし、たとえはそれで終わっていません。この家来は、主君のあわれみの大きさ=自分がどれだけのことをしてもらったのかを十分に考えないまま、その後を過ごすのです。ほどなくして、彼に借金のある仲間に出会います。その額は百デナリ=84万円程です。彼は首を絞めて返済を迫り、その仲間は少し待ってもらえるように頼みます。しかし彼はそれに耳を貸さず、負債を返すまで牢屋に閉じ込めます。その一部始終を知った主君は、家来を呼び戻し獄吏に引き渡しました。
この家来が仲間の借金を免除できなかった理由はどこにあるでしょうか。その仲間が憎かったわけでも、ちょうど現金がなくて困っていたからでもありません。自分が王にどれだけの負債を免除されたのか、その大きさを理解していなかったからです。また、王のあわれみ深さに心を動かされ、自分も同じようにあわれみ深くなりたいと思っていなかったからです。もし、この家来が自分の免除された借金額の大きさ(5千億円以上)を知り、わきまえ、忘れず、感謝していたとしたら、彼に借金のある人への扱いは変わっていたはずです。しかも「仲間」ですから、赤の他人以上のあわれみをかけ、赦してあげるのもおかしくはありません。しかし、彼はその仲間の首を絞め、一円たりともまけず、一方も譲歩せず牢につないだのです。しかも、彼の態度はそれをして当然といった迷いや躊躇(ちゅうちょ)のないものでした。
罪の特徴は自分のしたことは小さく考え、謝れば赦されて当然だと考えることです。また、罪の特徴は自分にされたことはどんなに小さくても傷として数え、いつまでたっても忘れずに覚えていることです。しかし、神の罪人に対する接し方やあわれみ、罪の赦し方はどれほど破格であるかを誤解なく受け取りたいと願います。
3.できないからこそ(誤解その3)
3つ目は「神に罪を赦されたのだから、私はすべての人のすべての罪を赦さなければならない」という誤解。さらには「神に赦されたように人を赦さなければ、私は罰せられ、救いが取り消されるかもしれない」という心配です。もちろん、自分に対して悪を行う者への対処方法は、自分がどれだけの罪を主に赦してもらったかを知れば知るほど変わってきます。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)との主の命令を重荷ではなく、喜びとして果たせるようになってきます。しかし、いつも赦せるわけではありません。すべての人を赦せるわけでもありません。そんなことができるのは神であるイエス・キリストしかいないからです。
今年の受難節(レント)で学んだ「十字架上の七つのことば」を思い出してください。その中の一つに「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)とありました。これは、イエスさまの最後の祈りです。
ということは、イエスさまは最後まで、私たちの罪の赦しのために祈ってくださったということです。私たちがどれだけ恩知らずでも、私たちがどれだけ心変わりをしても、私たちが赦されているところに帰って来れるようにイエスさまはこう祈ってくださいました。私たちは「自分ができるから」「自分は大丈夫だから」「自分は赦せるから」クリスチャンになったのでも、クリスチャンであり続けるわけでもありません。むしろその逆です。私たちは「自分では罪に勝てないから」キリストの勝利にあずかり、「自分では心もとないから」キリストを頼りにし、「自分では赦せないから」キリストの赦しをいただくのです。自分の力ではなく、自分にかけてもらったあわれみを握るのがクリスチャンです。自分の力ではなく、キリストの十字架を見上げるのがクリスチャンです。ぜひ、自分で赦しきれないからこそ、主に赦されていることを確信してください。主のあわれみと愛は深いのです。
古代から教会(特にカトリック)は、臨終の人に対して二つの質問をしました。一つは「まだ告白していない罪はありませんか?」であり、もう1つは「まだ赦していない人はいませんか?」です。これはその人が自分の罪が赦されて天国に行くことと、すべてのことを赦して天国へ行くことを願ってのことです。それが人の最期にふさわしい姿だからです。そして、私たちは毎日がこの終わりの日のように過ごすのです。礼拝とは生ける神の御前に出ることです。そこで自らの罪を告白し赦され、自分に罪を犯す者を赦します。そうして何も咎められず天国へ行くように、新たな週を始めるのです。■

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