「あなたの名を呼ぶ神」
- 大塚 史明 牧師

- 2025年11月9日
- 読了時間: 8分
聖書 第一サムエル記3章1-10節
主のことばがない時代
今朝の礼拝では子ども祝福式を行いました。教会は子どもたちを神の家族として迎え、接し、育みます。決して他人の子ではなく、神さまがこの福岡めぐみ教会に預け託してくださっている子どもたち。そういった目で子どもたちを見つめ、祈り、接してまいりましょう。
今朝の聖書箇所にはサムエルという少年が登場します。彼はやがて祭司となるために、師であるエリのもとで訓練を受けています。この時代の特徴は「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(2節)と書かれています。祭壇があり、祭司がいて、毎日礼拝が行われていました。朝と夕に動物のいけにえがささげられ、祭壇で焼かれたその煙が一日中立ち上っていました。けれども「主のことばはまれにしか」ありませんでした。おそらく、これは人々の霊的状態の低さを意味しています。決して神さまが人々に語るのをやめてしまったというのではなく、人々が熱心に、神さまに求めることがなくなっていたということです。祭司のトップであるエリには息子たちがいましたが、実際、息子たちは、人々が持ってきたいけにえの肉を取り上げて食べるというひどく横暴な行いをしていました。エリもそのことで大いに悩むのですが、息子たちは神さまを侮り、父の言うことも聞かずにやがて死んでしまいます(4:11)。そんな息子たちを持つエリのもとで、少年サムエルは過ごしていました。当然、彼もまだ主のことばを聞いたことがありません。
礼拝をしていても、神さまをリアルに体験できない。祭壇があっても、神さまとの関係が全然近くならない。祭司がいても、みことばがない。そんな時代なのでした。また、これらは今朝の私たち(特に私)にも問いかけられていることです。スマホの情報は朝から夕まで取り入れ、ゲームでは(今や、祖母と孫でポケモンGOのために旅行するほど)熱狂し、健康についての話題は沸騰し、イヤホンを付けて食事をする人もたくさんいます。けれども、神さまに関する事柄に関してはからっきしの時代かもしれません。私たちも、子どもたちも自分で意識し、自ら求めることがなければ、この時代の中にどっぷり浸り、主のことばを聞けなくなってしまいます。
子ども祝福式では、子どもたちが神さまの愛によって育まれ、神さまの知恵において成長し、自立していくことを願います。これは大人も同じです。人間の自立は、他人に頼らず一人で何でもできるようになる、親の世話にならずに生活できるようになることではありません。真の自立は、自分と神さまとの関係を確立することです。自ら自発的に、主体的に神さまとつながりを持つこと。これが真の自立への歩みです。そのためには「主のことば」を聞かなければなりません。今朝は、少年サムエルが初めて、自分で直接主のことばを聞くようになる場面です。祭司の仕事のやり方の引き継ぎではなく、主のことばを聞くことから真の自立が始まるのです。
今、中学科では聖書通読を呼びかけています(そして、すでに取り組んでいる子もいます)。教会にいる時だけでなく、それぞれの場、それぞれの時間、それぞれの領域において、自分と神さまとで過ごし、真に自立するためです。また、教会内に聖書通読をするように励まし合っている方々もいます。受付には通読表も印刷してありますので、ぜひお取りください。教会でも家でも、グループでも個人でも、日曜でも平日でも、皆が神さまとの距離を縮めていく方向を向いている、そのような雰囲気に満ちている群れでありたいと願います。そうして、自らと神さまとの関係が確立されていき、背筋の通った心地よい信仰生活を送れるようになります。
神から語られる
では、どうしたら主のことばを直接、聞くことができるのでしょうか。「主のことばがまれにしかなく、幻も示されなかった」。この事態を打開したのは神さまご自身です。「主はサムエルを呼ばれ」(4節)ました。私たちが神さまを求めないと、神さまは語ってくれないのではありません。むしろ逆です。すでに神さまは語ろうとあなたに近づいておられるのです。新約聖書にも「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし」(黙示3:20)とあります。神さまはサムエルを呼ばれました。少年サムエルは、そのような経験をしたことがなかったので、師匠エリの元へ行きます(4、6、8節)。エリも最初の二度はサムエルの聞き間違いと考えましたが、さすがに三度も続いたので、主がサムエルを呼んでおられることに気づきます。それで、エリはサムエルに「『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい」(9節)と教えました。これはただの順序ではなく、権威の問題です。神さまが第一の権威を持っておられ、私たちはその下にある者です。「しもべ」とは奴隷であり、主人の言うことは絶対に聞いて従う存在です。だから、神さまのことばである聖書を読むときには、私たちが良いか悪いか、有益か無駄か、従うか無視するかを決めるのは間違っています。神さまが聖書を通じて語られ、私たちはそれを聞き、そのまま従うのです。これが「主よ、お話しください。しもべは聞いております(分詞:準備ができている)」の意味です。
もし「私が聞いてあげよう。神よ、語ってみたまえ」と立場を逆に考えているならば大変です。それは、私たちがバイキング料理店で食事をするようなもので、好きなものだけをお皿に取り、苦手なものにはいっさい手をつけません。嫌だと言っているのに、しつこくすすめてきたら、店長を呼びつけたりするでしょう。同じように、神さまが語られる聖書の気に入った部分だけを取り入れ、気に入らない部分は捨てるなら、もはや私たちはしもべではなく、主人です。神さまはここで二度、サムエルの名を繰り返し呼ばれています。それはとても大事な用事があることのしるしです。
三度目はわざわざ「主が来て、そばに立ち・・・『サムエル、サムエル』」(10節)と呼んで、自立へと導いておられます。
しもべとして聞くことは、私たち自身のためでもあります。私たちの「言うこと/口」が先にあると、生きるのは大変になります。私たちはできないのに「します」と言ったり、していないのに「しました」と言ったりします。自分で言ってしまい、後からするのは大変です。真実を知られたり怒られるのが嫌で、苦し紛れに嘘も言います。それくらい、私たちの「言うこと/口」は信用ができません。私は何度も自分の嘘で失敗をしています。
しかし、私たちが「聞くこと」から始めるなら、生き方はずっと楽になります。神さまが聖書を通して教えていることに聞き従えばよいからです。迷う必要がありません。そして、行ったことだけを口にするのです。サムエルは、ここでエリを通してではなく、初めて自分で神さまの声を聞きます。神さまは語ってくださいます。私たちのそばに立ち、名前を何度も呼んで語りかけてくださいます。
聖書の意味
最後に、サムエルは直接神さまの声を聞くことができたけれど、私たちには聖書が神さまの声の代わりと思っていいのか、ということについて見ましょう。私たちも直接自分に神さまが話してくださったら、もっとリアルに信じられるのになあと考えたことはありませんか?
そうですよね、神さまが直接今日も語りかけてくださったなら、ワクワクするかもしれません。けれど、私、大塚が直接神さまの声を聞きましたと言ったら、皆さんはどう感じますか? 「それは、うらやましい!」「何と言っていたか教えてほしい」と言うでしょうか? いいえ、おそらく私のことを疑うのではないでしょうか。「そんなことはない。相手にしない方が賢い」と思うはずです。それくらい、直接神さまの声を聞いた、というのは私たちに疑惑の念を起こさせます。聖書は、神さまが語られたことを書き記したものです。神さまは、サムエルの時代には、ことばや幻で語られました。でも今の私たちには、聖書を通して語られます。それによって、私たちはいつでも変わらない神さまの約束や声を聞くことができます。
伝言ゲームであれば、数人経たらもう違う言葉になっています。でも、書き記されたものは、変更されることがありません。聖書は、分かるだけでも1,500年ほどの期間で書かれ、また著者も40人ほどいます。それを一冊の本にしたら、必ずズレや間違いが出てくるはずです。しかし、いまだに聖書の明らかな間違いを発見した人はいません。聖書を攻撃して、抹殺しようとした人は、真剣に、徹底的に聖書を調べたので、クリスチャンになってしまった例もあります。それほど、聖書は完璧な真理なので、あらゆることを測る基準となります。
→(モニターに映る図を見てください)
この二つがあれば、どちらを使って長さを測りますか? 普通、定規でソーセージの長さを測ります。逆に、ソーセージを使って定規の長さを測る人はいますか? いませんよね。あくまで測る基準は定規です。
聖書もこれと同じです。聖書は救いと生活における唯一絶対の規範とされる、いわば定規です。この聖書を使ってあらゆるものを測って判別することができます。それが正しい使い方です。それなのに、ソーセージで定規を測るようなことをしてしまいます。たとえば、私たちの考えを定規にしてイエス・キリストの存在をないことにしたり、学校の教科書を定規にして天地創造を否定することです。これはとても変な定規の使い方ですよね。聖書は私たちの救いと成長、訓練と教えのための定規です。私たちが聖書に聞き従い、正され、導かれるのが良いのです。
神さまは、あなたの名を呼んでくださいます。真の自立は、私たちが神さまとの関係を確立することです。また、神さまの語られたことは聖書に保存され、私たちが今はさまざまな方法で読み親しむことができるようになっています。どうぞ「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と告白しながら、主との関係を強めたく願います。主よ、私たちを悪の道から遠ざけ、あなたの御声をまっすぐに聞き、そして従う者へと導いてください。■

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