「あなたを遣わす神」
- 大塚 史明 牧師

- 2025年11月16日
- 読了時間: 8分
ルカの福音書10章1-16節
イエスさまが行くつもりの場所へ
私たちは週の初めの日を主なる神を覚える日として定め、礼拝するために集まっています。そして、ただ集まるのが目的ではなく、遣わされるのが目的です。礼拝式の最初に神からの招きのことばが読まれ、また礼拝式の最後には、神からの祝福と派遣の祈りがなされます。ここに集められた者が、力を受け、新しくされ、重荷を下ろして遣わされるのです。そんな流れがあることを意識すると、礼拝が終わってからの生き方に変化が起きます。ぜひ、遣わされるために集まっていることを覚えましょう。
さて、今朝はルカの福音書の続きに戻ります(9月末以来)。説教では流れがあります。山登りであれば、準備体操をし、ゆっくりと歩き出し、徐々にスピードに乗って山頂を目指します。最初から全力で走り出すのではありません。同じように、礼拝説教もしっかりと読み進めて行きながら、中盤から終盤にかけて盛り上がり(クライマックス)を迎えるように準備するものです。ですが、今朝の箇所はそうではありません。どうしてもいきなり結論があるのですね。イエスさまが十二使徒とは別に七十二人を遣わす場面のはじめに、「ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」(1節)とあります。もう、ここが本日の強調点です。最初にいきなり最高到達点が明かされてしまっています。メッセンジャー泣かせの場面ですが、ご一緒に進んでまいりましょう♪
私たちがこの礼拝で集められ、力づけられ、養われ、ホッと一息をついた後、遣わされるのは「もともとイエスさまが行くつもりの場所であった」ということです。皆さんは、この礼拝のあと、どこへ行かれるのでしょうか。公園へ遊びに、買い物先に、または家に戻られるのかもしれません。また、明日からは学校、職場、バイト先、地域活動へと出かけるかもしれません。それらはすべて、あなたがイエスさまの代わりとなって行くのだということです。これが「遣わされる」ことの意味です。単に、「あなたらしく過ごしてね」「お身体お大事に」「また来週会おうね」というわけではないのです。これからの一週間、イエスさまが行く代わりにあなたが行き、イエスさまがなさる代わりにあなたがなすのです。イエスさまが行くつもりの場所へ遣わされるのだという自覚が求められています。
このことを本気で受け止めるなら、私たちの生活は一変するでしょう。あなたはイエスさまの代わりにそこへ行っているのだからです。そうすれば、使う言葉が変わります。長いレジでの行列を待っているときの表情、人間関係で相手にイラっとしたときの言動、自分の責任ではないことで誤解されたときの反応が変わってきます。なんせ、イエスさまの代わりがあなたなのですから、ちょっとやそっとのことで爆発や失望、ののしりや嫌味など言ってられません。イエスさまがそこでなさろうとすることを考え、その通りするのが遣わされた者の務めです。
イエスさまがここにおられたら、どんなことを言われるだろう。誰に声をかけられるだろう。何をされるだろう。そんなことを考えながら、懸命に応えようとしていく。それが私たちの日常であり、信仰の表明です。そうしたイエスさまとのつながりを意識して歩みましょう。
神の国の交わり
さて、イエスさまはご自分の代わりに人々を遣わすためにある方法を取られました。それは「二人ずつ遣わされた」点です。イエスさまによる最善の方法が二人組でした。なぜでしょう? 気の合わない相手と一緒になるかもしれません。旅への準備が下手な相手と組になる可能性もあれば、会話がかみ合わない人や苦手意識を持った人とペアになることだってあったでしょう。ここでは72人、合計36組が誕生して、そのまま遣わされたような勢いが読み取れます。私は、妻と歩く速度が違います。気づいたら、妻が後ろの方で呼んでいることも多々あります。そんな二人が一緒になって伝道旅行をするのです。簡単なわけがありません。難しさや困難を味わいながら過ごして当然です。
しかし、イエスさまの意図はまさにそこにあります。目的は「イエスさまが行くつもりの場所へ遣わす」ことです。イエスさまの抱かれた目的は、私たちがそれぞれ一人ではできないものなのです。二人じゃなきゃなりません。
72人の使命は行く先で「この家に平安があるように」(5節)というみことばを届けることでした。一人だったらいくらでも「平安がこの家に、あなたにありますように」と言えるからです。しかし、二人でそれを届けるとなったら、まずその二人の間に神の平安がなければなりません。そして、受け取ろうとする人は、彼らの間に実現している平安を見て、私にもくださいと言うのです。もし、ことばでは平安と言っていたとしても、二人の間に争いや沈黙のねたみがあれば見透かされてしまいます。本当にその人が平安に生きているかどうかは、誰かと一緒に生きている中で証明されるものだからです。そうしてこそ「神の国があなたがたの近くに来ている」(9節)とも言えるようになるのです。気が合うとか、世代が同じ、趣味が同じだから一緒にいて平安そうだという人間のわざではなく、神がおられるから二人の間に平安があるという証しです。一人では証しができないのです。
私たちはこれから各家へと遣わされます。教会ではにこやかでも、家でぶっきらぼうであれば、それはイエスさまの代わりに遣わされている者の生活ではありません。このみことばは、私自身が痛いです。家族にはどうしても冷たい言葉や適当な態度を取ってしまいます。だから、このみことばを一番に聞かなければならないのは、説教者である私自身です。ぜひ、一緒にこのみことばを聞いて、受け取ってください。
また、この中には二人組ではなく一人で各家庭に遣わされる方もおられます。けれども、私たちは一人ではありません。同じように遣わされる仲間がここにいるからです。私たちは、神の支配のもとで生きている神の家族を、複数の者で形成しています。あなたがた一人ひとりがイエスさまに遣わされるメンバーです。私たち福岡めぐみ教会での礼拝、奉仕、各部、ゴスペルハウス、祈り会・・・これらはすべて一人ではできません。複数の者でする取り組みであり、ひと言で表すなら「交わり」です。交わりの中に生きる者として、遣わされる私たちです。
最後まで、全力で
結びに、この働きへのチャレンジを3つ見ましょう。イエスさまは遣わす人々に「狼の中に子羊を送り出すようなもの」(3節)だと言われました。そう、この生き方をしていくには、恐れがあるのです。周囲は賛成ばかりではなく、みことばを届け聞かせても、それを喜んで受け取る方ばかりではありません。時には無視され、冷たく笑われ、避けられたりもします。ちょっと思い切ってトラクト配布に加わっても、落ち込む経験をすることもあります。そのくらい、私たちは子羊のように弱く、小さい者です。だから、第一に遣わされた方を思い出し続けることです。あえてこんな私たちに、働きをゆだねてくださったイエスさまとつながり続けるのです。そうでなければ、私たち人間の決心や決意などすぐに崩れてしまうからです。
そして、第二に「足のちりを払い落すまでやり切る」ことです(11節)。イエスさまの代わりに生きて証しするなら、がっかりすることがあり、最初からうまくいくはずがないということです。それでも最後まで、やり切ったと言えるところまでやるのです。伝道における失敗や失意はいくらでもあります。けれども、私たちは簡単に投げ出さず、逃げ出さない。最後まで、自分の口で「神さま、やり切りました。ここでの働きは終えたので、足のちりを払い落として次へ向かいます」と堂々と胸を張って言えるまでやることです。
私が目指すのは、教会内で誰もが居心地が良いとか、何でも成功するとか、嫌な思いをする人がいないようにすることではありません。教会でも奉仕や運営の仕方、牧師や兄弟姉妹との関係でつまずき、疑問を抱くことだって多々あるでしょう。しかし、そのときに互いに支え合う交わりであることを目指したいです。奉仕に疲れた、伝道がうまくいかなかったときに、失望を分かち合える交わり、ただ祈れる交わり、祈ってねと言える交わりを目指したいのです。それが神の国に生きる群れの姿ではないでしょうか。
第三に「私たちは働き手となる」ということです。イエスさまは「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(2節)と言われました。誰かがやるだろうではなく、自分が収穫のための働き手となっていく福岡めぐみ教会でありたいのです。声をかけるよりも、かけられることを待つ方が楽なことがあります。それでも、「働き手が少ない」と切実に訴えておられるイエスさまの祈りに応えたいと思うのです。そして、自分にしてもらいたいと思うことを、自分からする者へと進み出たいと思います。
また、働き手とは実際に身体や時間を使って奉仕することばかりではありません。ここでイエスさまが「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われているように、祈りこそもっとも重要な務めです。祈らないと、人間だけが先に進もうとします。祈らないと、人間の考えや思いだけが先走ります。そうしてやがて疲れて力を失ったり、衝突が起こってまとまりを欠いたりします。けれども、祈って始めるならば、常に神の計画を信じて進むことができます。しっかりとした原点があるので、揺らぎません。たとえ大変なことが起こったとしても、神の知恵を求めることができます。
私がいつも考えること、それは「どのような姿で御国に到着するか」ということです。余力を残したり、傷ひとつない身体で行こうとは思いません。最後まで、全力で進み、倒れ込むように御国へ着きたいと願っています。■

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