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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「あなたを養う神」


聖書:​マタイの福音書6:25-34

先週は、神がすべてのものをお造りになった創造主であること、その他のものはすべて被造物であり、私たちがまことの神のみを礼拝することを学びました。なぜなら、神以外の被造物は必ず私たちを失望させるからだ、という理由も見ました。私たちは被造物であるかぎり、霊的にも身体的にも、どこかからエネルギーをもらわないといけません。エネルギーの補給活動(チャージ)が必要です。もし、その供給源が自分であれば、常に自分は元気であり、自分で自分を元気づける必要が出てきます。これはとてもしんどいことですね。供給源がモノであれば、常にそのモノを手に入れ続けなければなりません。また他人よりも優れたもの、新しいもの、多くのものを持つことでバランスを取り続けなければなりません。また、供給源が人であれば、いつもいいことを言ってくれる人をそばに置いておかなければなりません。その人に嫌われることでも言ってしまったらもう終わりです。それはハラハラドキドキが止まらないですね。


さて、あなたはどなたから栄養補給をしているでしょうか。体内に入るものにはこだわる人がいます。健康食品とか無添加とか菜食主義とかがあります。健康に関しても、多くの専門家がトレーニングや体操の仕方を教えてくれます。教会の近くでも、女性専用のスポーツジムに朝早くから並んでいる女性たち(年配者)の行列を見ると、健康を求めている人が多いことが分かります。

しかし、霊的な栄養補給はどこからするでしょうか。実は、これが一番大事です。病は気からと言われるように、心が満たされていれば気にならないことは多くあります。しかし、心が追い詰められていると、平安を持つことができず、生活が追いつかなくなります。ここにいる多くの人がそうした経験をされているのではないでしょうか。霊的に満たしてくれるもの、たましいを健やかにしれくれるものとつながっているでしょうか。なかなか立ち止まって考えることがない忙しい時代です。今朝、主の前に心を点検し、まことのいのちの泉から栄養補給ができるようにと願います。


1. 心配しなくていいこと

本日の中心となる聖書個所はマタイ6章の後半部分、6章25~34節です。結びの6章33節(神の国と神の義を~)がなじみ深いかもしれませんね。ここでは、 まず「心配したりするのはやめなさい」(25節)と「~してはならない」の命令形で語っています。25~31節全体は「あなたの衣食住のことで心配するのはやめなさい。空の鳥は自分たちで食べ物を育てないが食べて生きている。それは天の父が養っておられるからだ。野の花は自分で化粧をしなくても美しい。それは天の父が装っておられるからだ。あなたがた人間は空の鳥や野の草よりもすぐれ、価値がある存在なのだから、天の父は鳥や花以上にあなたに良くしてくださることは当然なのだよ」と要約できます。これが心配をしなくてもいい理由として述べられています。天の父が養ってくださるというメッセージから霊的な栄養補給をしているなら、私たちは心配をしなくなります。逆に、私たちがここから霊的な栄養補給をしないと、あれこれと心配ばかりすることになります。

ここで言われている「心配するのはやめなさい」とは、人生の山場や大きな出来事についてだけではなく、毎日の生活の細かなところについてまで心配するのをやめるようにと言っています。もし、一度も心配をしたことがないと言う人がいれば、それは本当に幸せな人か、強がっている人か、どこか回路が抜けてしまっている人・・・・あるいは、年に数回しか心配しないのであれば、それは心配しない人ですし、世の中に心配性の人はほとんどいないことになります。しかし、実際は「何を食べようか何を飲もうか・・・何を着ようか」(25、31節)と毎月、毎週、毎日どころか、毎時、毎分、毎秒心配をしているのが私たちの姿です(!)。そんな今も、誰かが何かを心配しています。天の父は、そんな私たちをご覧になって、ぜひ伝えたいことがあるのですね。「わたしがあなたを養うのだから、あなたは心配することをやめなさい」と。


このような大事なことにうなずくためには、誰がそのことを言っているかによって受け止め方が違ってきます。たとえば、私(大塚)が、「今日からみなさんのそばを離れません!みなさんに必要なものはいつでも、全部届けます!」と豪語しても、そのまま受け止める人は少ないのではないでしょうか。小学生が親に向かって「経済的な心配はしなくていいよ。明日から私がお金を稼いでくるからね」と言っても慰めや解決にはなりません。これらの場合、誰にそのことを言われるかが判断材料になっているからです。それならば、この個所で「心配してはなりません。あなたは必ず良くしてもらえます」と言っている、その声の主は誰であるかをまず考えてみてください。この声の主は、天の父なる神です!私大塚でもなく、他の人間でもありません。見えるもの、見えないものすべてをお造りになった創造主であり、宇宙の始まり以来すべてのものを動かし、支えておられる力ある神であり、すべての時代、歴史を導いておられる全能の神です!このお方が「あなたが毎日のことで心配ばかりしてほしくない」と願っておられます。いえ、それ以上に「心配してはならない」と禁止を命じておられます。いのちを創造され、保持し、支えておられる主は、人生の細かい出来事についても信頼することができるお方です。すべての生き物を養って来られたお方は、あなたの今日の必要を満たしてくださいます。すべての植物に太陽と雨を注がれたお方が、あなたに最適な環境を整えてくださいます。これまですべての歴史を導いて来られたお方は、あなたの明日のことも導いてくださいます。このように「~してはならない。~だから」という構文は、誰がそのことを言っており、その内容を成し遂げることができるのかが判断の材料となります。信頼関係と呼ばれるものです。(なので、先ほど私が言ったことを笑って拒否された方は、私との信頼関係がないことになります~♪)。


大事なことは、私たちが心配性であるか、そこから脱却できるかということではなく、私たちが主に信頼しているかということです。神を「天の父」として呼ぶほどに信頼しているかということです。あなたの人生の操縦桿は誰が握っているのでしょうか。たとえば、私たちが飛行機に乗っていて、乱気流で機体が上下して恐怖を感じるとき、「心配ですから私に飛行機を操縦させてください!」と言い出す人はいません。それは愚かなことだからです。なぜなら、その乱気流の中、落ちないようにする技術と訓練と経験があり、目的地まであなたを安全に届けてくれるのはパイロットであり、あなたではないからです。素人であるあなたが 飛行機の操縦をするのは馬鹿げています。同じように、私たちの人生は誰が導いておられるのでしょうか。誰の操縦で安全に目的地まで運んでもらえるのでしょうか。そうです、私たちの人生の主は天の父です。あなた自身ではありません。心配することは、乱気流の飛行機をあなた自身で操縦しようとするほどに愚かなことです。だから、あなたの生活のこと、人生のことであれこれと心配する必要はありません。天の父はご自身の胸に飛び込んでくることを願い、待っておられます。ぜひ、天の父に信頼し、最高のパイロットで空の旅をしているのだから大丈夫だと、窓から景色を眺めるような平安をいただきましょう。


2. 心配しなければならないこと

さて、次は「心配しなければならないこと」について見てまいります。何か本日の聖書個所の教えていることとは違うような気がしますが・・・・・・実は、ここでは心配しなければならないことについても言われているのです。聖書をお持ちの方はマタイ6章24節をご覧ください。


「だれの二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(24節)


これを受けて「ですから・・・心配するのはやめなさい」へとつながっています。つまり、これは心配するかしないかの問題ではなく、どなたに仕えるのか、誰があなたの主人であるのかという文脈で心配するなと言われていることが分かります。それゆえ、今朝の25節で「心配するのはやめなさい」と言われているのは、主を信じるクリスチャンに対する命令なのです。主に信頼をよせる者だけが、心配から解放されるからです。主の弟子だけが、心配から自由にされるのです。それが、主が結ぼうとされている約束です。主は信頼しないけれども、心配なく過ごせるようにしてほしいという願いは残念ながら聞き入れられません。


もし人が富(お金、目に見える安心、立場、権威、評価、数字)に仕えるなら、その人は主に仕えることはできませんから、心配からも解放されることがありません。富を重んじ、主を軽んじているからです。富に仕えたら必ず報われます! 富を求めるものはそれに加えて主も与えられます!とはいっさい約束されていません。色々と心配をしながら過ごすしかないのです。なぜなら、富は心配からあなたを解放することは決してできないからです。どれだけ富を築いても明日には紙切れになるかもしれません。どれだけ富を築いても仲間や銀行の担当者に裏切られるかもだってあるかもしれません。また、富に仕えても富を稼ぐことができないかもしれません。そうするとそれだけで失望してしまいます。先行きの不安がなくなりません。そのようにして、私たちが間違ったものに仕えるなら、生きていく力が奪われ、死んだ者のようにして生きなくてはなりません。富のことについて心配していてはいけないのです。


では、本当に心配しなければならないこととは何でしょう。それは、あなたのたましいの行く末です。それは、あなたの永遠の住まいです。それは、あなたの人生の清算です。聖であり、義であり、すべてを知っておられる神の前であなたの人生の清算をするのです。この世の負債やこの世の住まいや富ではなく、罪の負債、永遠の住まい、永遠のいのちについては大いに心配すべきなのです。これら罪の負債、永遠の住まい、永遠のいのちについての心配がなくなれば、この世や日常生活での心配はする必要がなくなります。なぜなら、地上の生涯よりも永遠の住まいの方が長く、大きな課題だからです。地上での財産や富よりもはるかにすぐれた天の宝、朽ちる身体の健康よりもはるかに大事な復活の朽ちないからだ。どちらが課題で、どちらにより大きな報いがあるでしょうか。


もし、永遠のいのちのことよりも、今日のことや明日のこと、永遠の住まいのことよりも地上の生活のことが気がかりで仕方がないのであれば、ぜひより大きな問題の方を、より多くの報いが得られる方を心配しましょう。どうぜ心配するのであれば、大きな事柄について心配した方が得ですね。その方が解決したときの喜びも向きも大きいからです。あなたは毎日の生活と永遠の生活のどちらについて心配している(よく考えている)でしょうか。だれも二人の主人に仕えることはできませんから、地上の生活安泰を保証してくれる富に仕えるか、永遠の住まいと永遠の安泰を保証してくれる神に仕えるか。あなたは、どちらを主としておられるでしょうか。


3. 神の国と神の義

本日の結びは、さらに素晴らしい保証を約束してくれています。「だれも二人の主人に仕えることはできません」(24節)としながら、実は永遠のいのちも地上の生活も保証される唯一の道があるというのです。それがマタイ6章33節です。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(33節)


ここで約束されていることは、私たちが「まず神の国と神の義を求める」なら、永遠のいのちと日々の生活の両方が保証されるということです。二人の主人に仕えることはできませんが、一人の主人=富はこの地上の生活や満足だけを満たすことができます。さらに、どれだけ富に仕えても安泰するかどうかは不確かです。もう一方の主人、神は永遠のいのちも地上の生活も保証してくださいます。それは、神が両方の領域を支配しておられるからです。この神に信頼する者こそ(だけ)が、日々の心配から解放されます。


今日も明日も、永遠に神が養い、支え、守ってくださるのだということが分かってこそ、神の国と神の義を求めて生きることができるようになります。神の国と神の義が同じ節に出てくる聖書個所がありますので、比べながらみてみましょう。


「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(ローマ14章17節)


神の国は創造主であり、全能の神がご支配しておられるので、今も永遠も安泰です。それで「食べたり飲んだりすることではなく」とあるのはその意味です。それらのものはもちろん与えられ、養われるのが神の国だからです。しかし、神の国はさらに素晴らしいもので満ちています。それは「聖霊による義と平和と喜び」です。聖霊は私たち人間の努力や知識ややる気を超えたことをなさる神の臨在であり、聖霊が注がれ、聖霊に満たされている人には次の3つの特徴を現しながら生きるようになります。それが「義と平和と喜び」です。


神の義は、相手をさばいたり、追い詰めたり、断絶や断罪をしません。むしろ天の父なる神が、ひとり子を遣わして十字架につけられたように、人の罪を背負い、罪人をおおいます(「愛は多くの罪をおおうからです」(1ペテロ4:8)。これが神ご自身の義にふさわしいことでした。人間の努力や善行によっては、神の義に到達することはできません。汚れた人間によるわざや罪が見え隠れする愛によって、神の義を得ることできないからです。だから、神ご自身が愛によって義を示されたように、聖霊に満たされたクリスチャンは人の罪や弱さをこれ見よがしに指摘することをせず、追い詰めず、その人の痛みや苦しみをちゃんと見て、手当てをすることによって神の義を示します。パリサイ人は罪人に近寄ることをせず、遠くから罪を指摘して、交わりを持つことさえしませんでした。けれども、イエスさまは罪人を招き、交わりをもち、手をおいて癒されました。福音によって罪の赦しを宣言されました。


神の平和は、敵対するところに平和を作り出します。隔ての壁を打ち壊し、和解をもたらします。私たちが人間の力や知恵で対処しようとするなら、喧嘩の仲裁でも火に油を注いだり、議論や言い争いをもっとややこしくさせたりしてしまいます。しかし、神の国は神の平和が実現しているところです。キリストが尊い血を流されたように、私たちは神の平和をもたらすために自分を犠牲にします。それは相手の言い分をひらすら聞くことであったり(自分の耳をささげ、口を殺すこと)、訪ねたり電話をくれる人のために自分の用事を後回しにしてじっくりと過ごすことであったりします。そういうささいなことですが、その小さなことから自分に死ぬことで、神の平和はもたらされていきます。


神の喜びは、みこころを行うことによって味わうことができるものです。自分の満足のためであれば、喜びや楽しみは一時的です。真に満足しなかったり、本当にこれでよいのだろうかと罪悪感に悩まされたりするからです。しかし、神のみこころを行っているなら、その人の喜びは尽きることがありません。なぜなら、神のみこころを行うことには、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る絶大な価値があるからです。


永遠を満たしてくださるまことの神に信頼しましょう。この方こそ、賛美されるべき方、礼拝されるべき唯一のお方です。この方こそ、天の父であり、私たちの必要のすべてをご存知で、日ごとにそれを与え養ってくださいます。

神の義をもたらす者とさせていただき、隣人のために犠牲をささげ、その痛みや罪を癒しましょう。神の平和が作り上げられていく福岡めぐみ教会を表していきましょう。聖霊の喜びにあふれ、互いに祝福しあう交わりを持ちましょう。この神の国を会堂や礼拝、メンバー同士だけでなく、会堂外、家庭、職場、学校、英会話クラス、ゴスペルハウスで実現させていきましょう。それが私たちのミッションであり、夢です。


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