「キリストに従う」
- 大塚 史明 牧師

- 2025年8月24日
- 読了時間: 8分
聖書 ルカの福音書 9章18-27節
1.あなたへの問い
今朝は五つのパンと二匹の魚の奇跡のあとの場面です。イエスさまは「一人で祈っておられた」のですが「弟子たちも一緒に」いました(18節)。一人なのか10人以上だったのかどっちやねんという書き方ですが、イエスさまは一人になることにも苦労されたのだろうと伺い知ることができます。そして弟子たちに、「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と尋ねられました。ルカの福音書では4章から公生涯と呼ばれる宣教が始まっています。多くの病人や悪霊につかれた人を癒やし、神の国についてたくさんのことを話されました。そのうわさがどんどんと広まり、今やイエスさまがどこへ行っても群衆があふれかえるような状況でした。 色々と驚くことが起こるので、人々はイエスさまについて、「(バプテスマの)ヨハネのよみがえり」「(旧約聖書の預言者)エリヤが現れた」「昔の預言者の一人が生き返った」とうわさしていたことが、直前の9章7節に出てきます。そのうわさは領主ヘロデの耳にも届くほどでした。
そして、ここで改めてイエスさまは人々が自分のことをだれだと言っているのか尋ねられます。弟子たちは人々がこのように言っていますと返答します(19節)。しかし、これはイエスさまが本当に弟子たちに尋ねたかったことではありませんでした。イエスさまが知りたかったのは、人々のうわさではなく弟子たち自身の答えでした。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(20節)。
イエスさまや聖書の問いは、あなたが答えるべきものです。「人々がこう言っています」「社会ではこのようにうわさされています」「学校の教科書ではこう書いてあります」「私の知人はこのように言っています」ということを知っていても、それはあなたの答えではありません。もしかすると、あなたの周りには「教会は危ない」「信仰とか献金とか礼拝とかって考えられない」「宗教に関わらないほうがいい」とうわさされているかもしれません。たとえそうだとしても、それらはイエスさまがここで聞かれていることとは無関係です。イエスさまがお聞きになりたいのは、「あなたはわたしのことをだれだと言いますか」だからです。ただ、あなた自身の答えを聞きたいのです。
これは大事な問いです。そして、そのように聞かれることはドキッとします。きっと弟子たちは人々の答えを言う時にはプレッシャーは感じなかったはずです。人々が言っていることを伝えるのは楽だからです。しかし、いざ「あなたはどう思いますか」と聞かれると、とたんに胸がドキドキし、真剣さが増します。今はインターネットがありますので、自分の名前や素性、顔を出さなくても意見を出せる時代です。匿名でやってしまえるので、相手への人格否定や誹謗中傷、無責任なことも言えて(書き込んで)しまえます。面と向かっての会話であれば決して言えない言葉や感情もぶつけてしまえるのがネットの気軽さと恐さの理由です。
イエスさまは、弟子たちの顔を見て尋ねられました。「あなたは、わたしのことをだれだと言うのか」。これは絶対に自分の口で、自分の考え、自分の答えを言わなければならない状況です。信仰は、誰かに答えてもらったり、誰かに信じてもらうことができません。自分で答え、自分で信じるしかありません。そのことを、イエスさまはまっすぐに問うておられます。この問いをするためにイエスさまは一人で祈っておられたのではないかと指摘する学者もいます。また、「わたしのことをどう思いますか」と聞くのも気安く、簡単に言えることではありません。私は、よく自分の子どもに「僕のことどう思ってる?」と聞きます。これは理由なく、また誰でもいいから尋ねているのではありませんね。私がまず、娘のことを気にかけているので、娘にも尋ねるのです。そして、できるならば同じ気持ちであってほしい(!)。そう考えると、イエスさまがここで弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と聞かれたのは、イエスさまが何よりも弟子たちのことをお考えになっておられることの裏返しです。そんなイエスさまの熱い心、鋭いまなざしを受けて、私たちもそれこそ真剣に考え、問いかけに対する答えをだ出さなければいけません。恋愛映画とかでは、「ねえ、私たちって付き合ってるの?」「そういえば、ちゃんとプロポーズしてもらってない!」といった場面が出てきます。それはちゃんと向き合って告白する機会がなかったからですね。私たちは、今イエスさまへ告白する時を迎えています。
2.自分を捨てる
ペテロが答えます(だいたい、弟子の中で一番初めに応答するのは彼です)。ペテロの出した答えは「(あなたは)神のキリストです」(20節)でした。シンプルですが強烈な答えです。車などのステッカーに「魚のマーク」があるのをご存知でしょうか。「魚」はギリシャ語で「イクソス」と書きますが、「イエス・キリスト・神の子・救い主」の頭文字を取ると「イクソス」となり、初代教会から魚で自分がクリスチャンであることを表明する習慣が生まれました。それはローマ皇帝崇拝が強要され、迫害が襲う中で、クリスチャンが互いの信仰を確かめ合う方法でもありました。
要は「イエスは救い主・キリストである」と告白することは、そのまま自分のいのちをかけることを意味していたのです。ただ魚のマーク、ただのステッカーではなく、私はこのことのために、いえ、この方のために生きていきますという信仰の表明です。その元がこの箇所です。そして、ペテロに呼応するようにして、イエスさまはご自身のこれからについて大切なことを明かされました。ペテロの応答を真剣に受け止め、ご自身も正面から対応くださっているのです。それはこれから何度も語られるイエスさまの将来についてでした。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(22節)と語られました。このメッセージはこれから何度も繰り返し弟子たちに語られるものです。
「ついて行きます。あなたがキリストなのですから」と告白した弟子たちにとって、そのイエスさまが捨てられ、殺されてしまうという予告は、どれだけの落胆し、戸惑いだったことでしょう。イエスさまは人々からののしられ、捨てられる。それは付き従っていく弟子たちの心をくじき、気持ちをへし折り、むなしくさせるものです。できるなら、すべての人にあがめられ、王の王として君臨していてほしい。しかし、イエスさまは十字架につけられ、死んで葬られ、よみがえらなければならないとおっしゃいました。
今朝のタイトルは「キリストに従う」です。そのために、イエスさまは二つのことを命じられました。その一つ目は「自分を捨てる」ことです。私たちがイエスさまを信じてついて行くために、まず「自分を捨てる」のです。最初の問いで、人々は何と言っているかとありましたが、人々のようにキリストに従うためには、まず自分を捨てるのです。たとえば、私たちで集合写真を撮って出来上がったら、まず自分の顔を探さないでしょうか。自分がどこにいて、どんな顔をして写っているかを確認します。そして、目をつぶっていたり、気に入らない顔の角度になっていたりすると、撮り直してほしい、それが無理ならこの写真は他のどこにも出さないでほしいと願ったりします。これは私たちの率直な、正直なところです。理不尽な誤解を突き付けられれば愕然としたり、「なぜ、自分がそんなことを言われなきゃならないのか!」と怒りに震えたりすることもあるでしょう。
誰もが簡単に自分を捨てられるわけではありません。豊富なたくわえ、平穏な生活、充実した付き合い、健康な体、良好な人間関係を持っていたとしても、なお、私たちの心には不安やむなしさがよぎります。もちろん色々なことがうまくいかないときは、腐ってしまう自分を見ることでしょう。「たとえ全世界を手に入れても」その人にはむなしさの嵐が吹き荒れます。そして、それはある方を見出すまで穏やかになることはありません。それが「あなたは神のキリストです」という信仰告白です。私には神であるキリストがおられるという宝を手に入れないかぎり、私たちは救いを知ることがありません。それゆえ、「自分を捨てる」ことは最大の宝を手に取ることにつながっていくのです。そして、このキリストは神の子としての立場を捨てて、人となられ、十字架にまでかかられました。イエスさまこそ、私たちに救いを与えるために、ご自分を捨ててくださったのです。この方が、私たちのキリスト、救い主です。自分を捨てて、初めて自分のためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストと出会うことができるのです。
3.日々十字架を負う
キリストに従っていくための二つ目は、「日々自分の十字架を負う」ことです。病や不遇な境遇を受け入れて生きることが十字架を負うことだ、と言われることがよくあります。イエスさまは、すべてを捨ててくださっただけではなく、私たちの罪、重荷、絶望のすべてを負ってくださいました。私たちの悲しみも苦しみも、涙も叫びもです。イエスさまはご自分を捨て、十字架の上で私たちのすべてを背負ってくださいました。それにひきかえ、私たちはどうでしょう。私たちは自分の身に降りかかるすべてのことを背負うことなどできません。逃げたり、人に押し付けたり、怒りやうらみに燃えて人生を無駄にすることさえします。しかし、これらすべてのものをも、イエスさまが十字架で背負ってくださいました。しかし、それはイエスさまがおっしゃっていることとは違います。
それならば、ここで私たちに「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」とあるのは、イエスさまの十字架が自分のためだったことを背負って生きる、ということです。自分はついてない、なんて報われない、損な役回りばかりの人生なんだと嘆いていたとしても、毎日十字架の前に出て行き、イエス・キリストの愛と赦しを受け続けるのです。たとえ自分の罪や嫌な部分が自分を責めてきたとしても、人にやり返したいという思いでいっぱいになったとしても、すべてを捨てて十字架についてくださったイエスさまの前に、日々出続けるのです。すると、「わたしはあなたを愛している」「あなたの罪を背負った」「あなたこそ赦しの中で生きなさい」という主の声を、そこで聞くことができます。神に深く愛されているあなた、神にすべて赦されているあなたを生きてください。■

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