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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「キリストの愛がいっぱい」


聖書 エペソ人への手紙3章14~21節

 エペソ人への手紙3章後半は、パウロの祈りになります。すでに1章16節から、1つ目の祈りが記されていますが、ここでは礼拝の終わりにある祝祷でも使われる祈りが記されています。パウロがどのように祈っていたか、エペソの教会がどんな言葉で祈られていたのか知ることができるのは幸いですね。


 まず出だしで「私は膝をかがめて」(14節)とあります。祈りの姿勢について聖書は各書で記しています。イエスさまはたとえ話で「パリサイ人は立って、心のなかでこんな祈りをした」(ルカ18:11)とか「・・・彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだから」(マタイ6:5)と「立って祈る」のが当時のスタイルであったことがわかります。イエスさまご自身は「それからイエスは少し進んで行って、ひれふして祈られた」(マタイ26:39)とか旧約聖書にも「・・・私は立ち上がり、衣と上着を引き裂いたまま、ひざまづき、自分の神、主に向かって・・・」(エズラ9:5)とひれ伏したり、ひざまづいて祈っている箇所もあります。またパンの奇跡の箇所では「皆を組に分けて青草の上に座らせて」(マルコ6:39)から食前の感謝の祈りをささげたことがわかります。要するに、聖書では立ったり、ひざまずいたり、座ったりして祈っています。祈りにこうでなければならないという姿勢はありません。それは祈りの内容がこうでなければならない、この言葉を使わなければならないという決まりがないのと同じです。


 大切なのは、天の御父に向かって祈ることです。その御父はすべての者の父なので、祈る私たちは「家族」(15節)であると書いていますね。私たちの祈りの交わりは壮大です。あなたが祈るとき、それは天と地にあるすべての家族の一員として祈ります。神はただお一方なので、そのすべての家族の祈りを聞いてくださいます。日本では聖徳太子は8人とか10人とか36人の言葉を同時に聞いたという伝説が残されています。ただ、その出典となる書物は一部だけで聖書のように何部も、何千年も、何カ国語に訳されているわけでもありませんから、その信ぴょう性においても推して量ることができますね・・・・・・私たちが祈る御父はただ多くの人数の祈りを聞くだけでなく、祈りの応答をし、交わりをしてくださるお方です。地上のすべての聖徒の祈りを同時に聞くのにパニックにならない神!すべてのクリスチャンの祈りにお答えになることにパンクしない神!それを考えるだけでも興奮するほど素晴らしいお方です。この方の前に、パウロが祈ったように、私たちも今朝祈ります。この方がパウロを迫害者から伝道者にしたように、私たちを平凡な者から伝道できる者へと変えてくださいます。


その祈りの中心は「キリストの愛」です。順に見てまいりましょう。


Ⅰ. 内なる人に

キリストの愛は、私たちに注がれます。聖書は必ず「神が○○をした」という方向、ベクトルを大事にします。私たちはこの世界の創造も救いも「私が○○をした」「人間が○○した」ところから考え始めますが、聖書は逆です。その初行から「はじめに神が天と地を創造した」(創世記1:1)と語り出します。また「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・・」(第一ヨハネ4:10)とその愛においても明確に教えています。まず私たちが考えなければならないのは、始めなければならないのは「神が私を愛してくださった」ということからです。これは私たちがどう思うおうが、感じようが、神による宣言ですから、その通り「神はあなたを愛された」事実、真実があります。私たちはここから始めてよいし、信じてよいのです。


では、どうやって神は私たちを愛しておられるのでしょうか。そのことが私たちにはどう感じられるのでしょうか。神の愛を知るにはどうしたら良いのでしょうか。愛という文字が見えるわけでも、どこか愛されている身体の部分が光るわけでもありませんものね。


16節には「内なる人に」17節には「あなたがたの心のうちに」とあります。「内なる人」「心のうち」にキリストの愛は注がれています。具体的には「内なる人・・・あなたがたを強めてくださいますように」(16節)、「心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」(17節)とあります。キリストの愛は私たちを内側から強めてくださり、キリストは私たちの心のうちに住んでくださる。


通常、私たちは「神の力」と言われたときには、状況がパッと変わったり、目に見える奇跡を望んだりするものです。先週のディボーション箇所(リビングライフ)に大体、次のような話が載っていました。


あなたの祈りはどのようなものでしょうか。おそらく「神さま明日の試験にどこが出るか教えてください。そうでなければ来週から教会に行きません」といったものや、「主よ。これから商売をするにあたって売れるのはどの商品でしょうか。どうぞ教えてください。当たればその分献金します」といったものではないでしょうか。それではいけません・・・(と神の御心を求める祈りの励ましが続く)


これは「内なる人」や「心のうちに住んでくださるキリスト」を知らない人の祈りです。目に見える出来事や状況ではなく、あなたの内なる人が強められる。このときのパウロは、状況的には監獄に入れられていました。監視員付きの生活を強いられていました。それでも、そこでパウロは内なる人が強められ、日々新たにされていくと祈っています。状況に左右されない力が注がれるということです。この「キリストが心のうちに住んでくださる」は「永住する」という意味の言葉です(⇔仮住まい)。キリストがあなたの心のうちに住んでくださり、これから決して移動することも離れていかれることもない。そこから、自分の身の回りに起こる出来事を見るので、たじろぐことがありません。不安にさいなまれても、打倒されてしまうことがありません。


そうしたクリスチャンは、外側から見ても、その人の内が変えられたことがわかります。その人が誰と・どなたといっしょにいるのかがわかります。証しの力をもって生活できるようになります。私たちは、自分が見ているもので、表情は変わるものです。かわいいものを見れば自然と笑みがこぼれ、怖いものをみれば青ざめ、苦手なものに出会えば眉をひそめます。その対象物が見えなくても、表情をみればその人が何を感じているのかわかります。それと同じように、私たちも自分を愛してくださる主を仰ぎ見るとき、私たちの表情もそれを映すものとなります。人々は、その表情を見て、あなたがキリストに愛されていること、主がおられることを知るのです。反対に「クリスチャンって暗いよね」「教会ってため息つきながら行くところなの?」と言われたとしたら・・・まったく証しになりませんね。それは、私たちが何を見ているかが表面に現れるからです。私たちの内側にはキリストの愛が、心のうちにはキリストが永住してくださっています。ぜひその力、喜びがにじみでてしまうクリスチャン人生、教会での養いを味わいましょう。


Ⅱ. 想像以上に

1. 愛を知る努力をしてみる

キリストの愛は、限界がありません。しかし、私たち人間には限界があるので、その限界までしかその愛を知ることができないのです。たとえば、「今、あなたが欲しいものは何?」と聞かれたら何と答えるでしょうか。「ぬいぐるみ」「スイッチ(ゲーム機)」「ディズニーランド旅行券」「スマートフォン」「パソコン」「オーブンレンジ」あるいは「時間」「健康」と挙げるかもしれません。ただ、1つか2つであり、多くても5つくらいではないでしょうか。そんなにも欲張りなのを知られたくもないし・・・またそれが親子の会話であればそれまでの慣習とか、自分の成績とか家の経済状況とかを考えて、あまり欲張って答えないかも知れません。それは、「私が求めてもいいのはこのくらいまでだろう」と想像し、計算しているからです。自分で求める限界を定めているからです。もし限界をもうけていなかったら、いくつでも欲しい物を挙げたはずですね。


私たちは、キリストの愛もこれと同じように考えるクセがあります。神さまは今の自分だったらこのくらい愛してくれるだろう、昨日ははっきり罪を犯したし嫌われてるかも、と自分の感情や行動にもとづいてキリストの愛を考えがちです。しかし、このところでパウロがひざまずきながらエペソの教会のために祈っているのは、「あなたがたが・・・(愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(18-19節)ということでした。どれほどキリストに愛されているのかを理解する努力をするのだということです。キリストの愛をもっと知ってほしい、ということです。気をつけたいのは、もっと愛されるように努力せよということではありません。昔、ある芸能人が「愛される理由」という本を出しました。けれども、しばらくたつとそのカップルは離婚してしまいました。それは女性が書いた本でしたが、その後、彼女はその本を取り消したい思いになったのではないでしょうか。そして、もし次に結婚しても二度と「愛される理由」という本を書かないでしょうね。人間同士の愛は絶対ではない、私も愛されるときと、そうでないときが来るのだということを経験したのだと思います。


これは、人間同士の愛です。自分に愛される理由、価値があると考えているケースです。それは絶対ではありません。しかし、キリストの愛は決してそうではありません。もうすでにキリストはめちゃくちゃあなたを愛してくださっています。昨日罪を犯そうが、今仲直りしていない友がいようが、態度が悪かろうが、私たちの行動や条件によりません。まず、キリストが愛してくださっているのです。そんなこと、信じられない!と本気に取ったり、相手にしないかもしれません。けれども、聖書=神の宣言・真実は告げています。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」と。すでに愛してくださっているキリストの愛を知る努力を私たちは怠らずにいたいと願います。


2. 愛に根ざし、愛に基礎を置く

私自身、クリスチャンホームに生まれながら、教会に通いながら、回心し洗礼を受けたのは25歳のときでした。キリストの愛を知るまでに四半世紀かかったわけです。その起点になったのは、こんな自分がキリストに愛されていたとわかったからでした。私が救いを決心できたのは、自分が立ち直ったり、キリストに対して良い姿勢や言葉、行いをして救いを確信したわけではありません。むしろ神の教会を見下し、聖書の価値を認めず、救い主キリストの必要性なんか感じたこともありませんでした。自分の思った道を進み、親に心配をかけ、悲しまさせ(沈黙させ)ました。人生の目的は自分のやりたいことをするのだとだけ考えて生きていました。しかし、その行き着いた先にあったものは満足ではなく、焦燥感、むなしさでした(このことはまた5章中盤で証しさせていただきます)。


どうしようもなくなったときに、知ったのはキリストが私のために十字架にかかって死んでくださったことでした。ああ、自分はキリストに愛されていたのだ。何もしていない自分、罪人の自分のためにキリストは十字架にかかってくださったのだ。イエスさまは、私が良い人でもなく、何もしていなくても愛してくださっていたんだということをわからせてもらったのです。その愛に基づいているので、私は今後キリストから愛想を尽かされる、そっぽを向かれる、見捨てられるということがない、ということだけは確信を持てます!キリストの愛は、救いの根拠になるものです。


そのことを、ここでは「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」(17節)と記しています。「根ざす」とは、キリストに愛されているあなたのことを植物にたとえているからです。大地に根ざした植物が養われ、枝葉を伸ばし、実を結ぶように、あなたもキリストの愛からたくさんの養分をもらって生かされていく。しかも、植物は足がありませんから、そこから勝手に移動しません!同じように、私たちもキリストの愛に根ざした生き方、教会生活を送ることが肝心ですね。「基礎を置く」とは、キリストに愛されているあなたを建物にたとえているからです。建物は、基礎の上に築き上げられます。建物自身が、自分を支えているわけではありません。基礎が建物を支えるからです。キリストの愛から動かない人生。それは状況や感情に左右されず、尽きることのない愛に養われる花、揺るぐことのない基礎に支えられた家です。キリストの愛を知ってよかったと賛美、鼻歌をかなでる日々でありますように♪


Ⅲ. 神の教会に

すべての聖徒たちへの宿題

神の愛を知るために、聖書は書かれている、これだけ分厚いと言っても過言ではありません。一言で書いて済むほど私たちが素直であれば良いのですが・・・それほど私たちは神の愛を素直に受け入れず、抵抗や遠慮、無視や無関心でいるのです。そんな神からの愛に冷えた集団にならないために、「すべての聖徒たちとともに・・・キリストの愛を知ることができますように」(18-19節)「教会において・・・栄光が、世々限りなく」(21節)と「すべての聖徒=教会」の営みの大切さが鍵になっていることがわかります。神の愛を知るもっとも良い、重要な、近道は「教会」に身をおくことです。ご自身が愛に満ちあふれた神がどんな状態のあなたも全力で愛してくださり、どんなことも乗り越える愛をくださいます。福岡めぐみ教会が駆け込み教会になるように、まず自分が愛されていることに永遠の平安をいただきながら人々を迎えたく願います。<了>


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