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「キリストの栄光」

聖書 ルカの福音書 9章28-36節


1.八日後の祈り

今朝は「あなたは、わたしをだれだと言いますか」の問いに答えてから「八日ほどして」のことです。つまり、一週間後であり、次の礼拝の日を迎える間隔です。神さまを礼拝することがあらゆる生活、営み、思考、振り返りのサイクルになっているのです(旧約聖書ではノアの箱舟や仮庵の祭り、祭壇の奉献、皮膚病の癒やし、エリコの城壁、新約聖書ではイエスの復活など、週の七日間や八日後を軸にした記述がありますので、聖書通読のときにはこのことにも着目してみてください)。私たちも週ごと、礼拝ごとに人生のページが新たにされていく幸いを味わっています。


イエスさまはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈りのために山に登られます。しかし、彼らは「眠くてたまらなかった」(32節)ようです。私の母教会の牧師は、人の説教は目を閉じて聞いておられました。はじめは、眠っているのではいかと疑い、毎回観察していました。しかし、目を閉じ、背筋をまっすぐにし、ちゃんとポイントでズレずにうなずいているのを確認し、眠っていないと分かりました。この箇所では、イエスさまが祈りのために連れ出したのに、弟子たちは眠くてたまらなかった、という点に少し慰められる気がします。イエスさまは、私たち人間の弱さや限界をご存じです。それを承知で大事な局面にも手を引いて連れ出してくださる方です。この礼拝においても同じことが言えます。イエスさまがあなたを連れてきてくださいました。

たとえ眠ってしまったとしても、イエスさまはともにいて、今日あなたをここに連れてきたよとささやいてくださる・・・とは言え、ここは眠り続けることがポイントではありません。イエスさまや弟子たちにとって重要な場面です。イエスさまの姿が白く光り輝き、そこにモーセとエリヤも現れ、三人で話しているという見たこともない場面です。はっきり目が覚めたペテロたちはそれを目撃します。眠っていて幻想や夢を見たのではないことがちゃんと分かります。


そうしてペテロは言います。「幕屋を三つ造りましょう」(9:33)。このことを著者ルカは、ペテロが自分の言っていることが分かっていなかった(9:33)と記しています。ペテロはよかれと思い、幕屋を作ると申し出ました。そこに偉大な3人の姿を見たからです。しかし、「イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた」(32節)とあり、イエスの栄光とその二人がしっかりと区別されています。イエスは栄光であり、ほかの2人は人として見えたに過ぎないのです。イエスだけは別格でした。ですから幕屋を三つ造りましょうと言ったのは、ルカが指摘したように問題でした。確かに、モーセとエリヤは旧約聖書を代表する2人です。新約聖書では旧約聖書全体を「律法と預言者」(16:16、使徒28:23等)と表現しています。それを代表するのがモーセとエリヤだからです。ペテロはそんな偉大な人物が登場する場面に遭遇し、幕屋を三つと言ったのでした。

これが八日後のこと、具体的には「あなたは神のキリストです」とペテロが告白してから八日後のことです。はっきりとまた百点満点の信仰告白をしたペテロが、その一週間後にわけの分からないことを言ったということです。人間のブレてしまう弱さ、変わってしまう貧弱さ、頼りなさがここに表れています。人間の完璧や完全さは永遠には続きません。先週、私たちがどれだけ正確な知識を得、どれだけ燃やされた霊性を持ったとしても、今週は間違っていたり、冷めていたりするものです。また、人間にはつい何かを言ってしまう「うかつさ」があります。


昨年、私が歯科に行った時、治療を始める前に要望を聞いたり、治療方法を説明するカウンセリングをしてもらいました。私は歯科医師を信頼しているので、先生の思い以上に「ここはそうしてください」「その治療法で奥歯もやってください」とドンドン要望を伝えました。すると途中で先生が、「うかつなこと言ってはいけないので、まずはすぐ治療する歯についてのみ話しましょう」と言いました。これが「うかつさ」について考えさせられた私の印象深い会話です。私たち人間は、調子の良い言葉やその場面に適した態度を繰り返すうちに、よく考えないで進んでしまうことがあります。この場面のペテロがまさにそうでした。わけが分からないけれど、つい口にしてしまったのが「三つの幕屋」だったのかもしれません。私たちも同じ八日後を今、生きています。よく考えずに踏み出す前に静まり、「うかつさ」を取りのぞいて整えていただきたいと願います。


2.イエスの道

さて、イエスさまはなぜこの場面に弟子たちをお連れになったのでしょうか。ペテロにはわけが分からない、そういう状況にお連れになりました。私たちにはすべてが分かるわけではありません。人生についても、知識においても分からないことばかりです。初めから何でも自信満々の人がいたら少し危険です。何にも驚かされずに落ち着き、あらゆることを知っている人がいたら、相談する気にならないでしょう。「自分だけはこのことを知っている」「世界情勢について、ニュースでは出せない情報がある」と言ってくる人ほど、怪しいものはありません。私の神学校の教師が、「神学論文で、これは誰も言っていないことなのですが」と書いていたら、それは間違いだと言っていたのを覚えています。「自分は分かっている」「自分は正しい」、これはイエスさまが厳しくとがめられた律法学者たちの態度であり、姿勢です。


そうです、イエスさまがあえて弟子たちを連れ出したのは、自分の言っていることが分からなくなる状況を経験させるためだったのではないでしょうか。ペテロは正解の経験ではなく、何を言ったらよいか分からない経験をしました。これは、決して恥ずかしいことではありません。私たちが戸惑いながら何かを言う、苦し紛れの場面に引き出されることだってあります。人間の限界、過信や過剰な理論武装の危うさを教えてくれる場面とも言えるのです。

このところで、何が話されていたのか少し知ることができます。それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(31節)話していたとあります。欄外に直訳があり「イエスが成就しようとしている出発」です。これは「最期」がエクソダス(exodus)という語であり、「出エジプト記」」の脱出、解放を意味します。イエスさまは、エルサレム(地上の生涯の目的地)へ最期を遂げに向かうのです。ここは、その道への始まりの地点です。モーセとエリヤの存在は、旧約聖書全体が待望しているメシヤが、まさしくこの方イエスだと示しています。また旧約聖書の中で、山で神と出会ったのもモーセとエリヤ、この2人だけです。


ルカ福音書は9章51節を境に二分されると提案する学者もいます。それは、この節からイエスがエルサレムへ御顔を向けて歩み始められるからです。出エジプトは神の民の解放、救いの大事な出来事です。エジプトからの解放。それは奴隷生活からの解放でした。その脱出の道を神さまは備え、成し遂げてくださいました。そして今や、解放を究極の形で成就するために出発しようとしている。つまり、イエスさまが、罪の奴隷である私たちを解放するための道を、最初から最期まで遂げようとしておられるのです。イエスさまがこれから歩まれる道は、苦難の連続、十字架へ続く道です。私たちを罪の奴隷から解放するために、栄光のイエスご自身が十字架に向かわれるのです。


3.ただイエスだけが

こうして雲がわき起こり(神の臨在のしるし)、結びにはペテロたちが天からの声を聞きます。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」(35節)。イエスさまが洗礼を受けられた時に天から直接語られたのと同じ仕方で、弟子たちは神さまの声を聞きました。「彼の言うことを聞け」。先ほど、うかつなことを口走ったペテロに、また日々、自らの危うさでピンチを作ってしまう私たちに向けた鋭い命令です。「あなたが聞くべきは、わたしが選んだこのイエスからだけだ」「イエスの言うことを聞きなさい」「イエスの言われることに耳を傾け、従いなさい」と神さまが言われるのです。最初から最後まで、イエスに聞けと。


今は、知らない場所に行くのにもスマホの地図で調べることができ、道案内までしてくれます。方角に自信がない方にも大きな味方です。この仕組みは、地球の外(高度約400キロ)を回っている複数の人工衛星と通信して、その時間と距離から私たちのいる位置を教えてくれるというものです。人工衛星は地球を中心にして、地球の重力と向心力を受け、円(楕円)を描いて回り続けます。最初から最後まで、地球に向き続けながら、機械の寿命まで働き続けるのが人工衛星です。天気予報や位置情報を取得するたびに、感謝したくなります。それは、私たちとイエス・キリストとの関係がどうあるべきかも教えてくれるからです。

私たちも、神さまを中心に見続け、考え続け、歩き続けることが大切です。ここでわざわざ天から「彼の言うことを聞け」と言われたのは、弟子たちをはじめ私たちが右にも左にもそれることなく、神を中心に歩むためです。また、私たちが迷ってしまわないように、イエスさまに聞き続け、従い続けなさい。私たちが途中で脱落してしまわないように、イエスさまが苦難の出発から最期まで歩まれた道をあなたも行きなさい、と言われるのです。


イエスさまだけが道です。3人の弟子を連れ出されたイエスさまは、彼らが眠ろうとも一緒にいてくださいました。そして、大事な場面では彼らの目をさまさせ、ご自身の栄光を見せ、そしてわたしに聞くのだとみことばを与えてくださいました。今、私たちも同じイエス・キリストによって招かれ、この礼拝の場に置かれ、この教会でともに生きています。そして、あなたにも聞いてほしいのです。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」。この声を聞き、このみことばを握って、私たちは今週もここから遣わされていきます。このイエスにあって、私たちは初めて、最初から最後まで道を外さずに進んで行けるのです。そしてまた八日後、ここに戻って集まり、道に迷っていたらイエスについていく十字架の道を選び取り、道を誤っていたら悔い改めて向き直り、疲れ果てていたら、このたましいの休み場でいのちの水をいただくのです。ここで決意を新たにし、イエスの声に聞きましょう。■


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