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「不信仰の時代に」

聖書 ルカの福音書9章37-45節


1.関わる神

今朝は「不信仰の時代に」というタイトルです。イエスさまご自身が41節で「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と言っておられます。とても強い言葉、表現ですが、それだけの状況であった、とも取れるでしょう。本日はここから、みことばの宝さがしをしてまいりましょう。


この直前では、山に登られたイエスさまが、栄光の姿に光り輝く出来事がありました。そうして山を下りて来ると、大勢の群衆が迎え、その中から一人の人が叫んで言いました。「息子を見てやってください・・・あなたのお弟子たちに・・・お願いしたのですが、できませんでした」(39-40節)。これを受けて、イエスさまが「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と言われたのです。


ここから見出すことのできる宝の一つ目は、神さまは私たちの人生に関わってくださる方だということです。人生と言うと大きく漠然としたイメージになるかもしれませんが、私たちの諸問題、誰でも抱える健康や家族のこと、将来の不安、生活する中で生じる悩みや日ごとの重荷のことです。これらを放っておかれず、関りを持ってくださるのが神さまだということです。イエスさまは天の御座を降り、人となられました。この直前で栄光の姿を見せられたイエスさまが、群衆に紛れ込むようにして山から下りて来られました。

もし、私たちと関わるのが面倒であれば、わざわざそんなことはされません。イエスさまは、神の御子として天にとどまり続けるか、人となられたとしても群衆からは上手に距離を取るか、または山の高い所から栄光に輝く姿だけを見せて過ごすこともできたでしょう。しかし、ここにもあるように、イエスさまはわざわざ人の中に入り込み、悩みや願いを聞き、御手を伸ばし、実に枕をするところもないほどに働かれ、悲しむ人のとなり人となられました。イエスさまは、私たちと関りをもってくださる神なのです。


先週はオンライン礼拝でしたが、そこでも神さまは私たちに命令や用事を済ませる関係でいたくないことを学びましたね。「あれ、やっといてね」「これを明日までにお願い」と事務連絡だけで物事を進めようとお考えになるのではありません。神さまが私たちに求めているのは交わりの関係です。交わりとは、相手のために時間をさき、相手の気持ちに耳を傾け、喜怒哀楽をともにすることです。わずらわしいと思うことほど、省きません。面倒なことを積み重ねることでお互いの関係は強く、太くなるからです。この場面のイエスさまは、面倒くさいなぁとため息をつきながら、この父親の願いに対応されたでしょうか。やかましいなぁとしかめっ面で、彼の叫びを避けられたでしょうか。いいえ、イエスさまはこの父親の叫びを聞き、錯乱状態の気持ちを受け止めてくださいました。群衆の中にいた一人と交わりを持ってくださったのです。

私の日頃の人付き合いとは真逆です。家族から叫び声を聞かされたら、正面から聞くのを避けます。テレビを見ている最中に話しかけられたら、テレビを見てるんだけどというオーラと所作を交えて、面倒くさそうに話を聞こうとします。私の友人も、妻から「ねえ、ゴミ出しってどうやるんだっけ」と聞かれたとき、疲れていたので、無言で市のごみ収集カレンダーを指さし、ごみ袋を突き付けたら大喧嘩になったと話してくれたことがあります。人間同士には限界があり、相手や自分の機嫌、心身の状態、タイミングによって交わりができないことも多々あります。そうした経験が重なって、互いの関係が冷えたり、ひどいときは修復不可能な絶縁状態になってしまうこともあります。


しかし、神さまはそうではありません。神さまには機嫌の良し悪し、今は無理だからまた今度、というタイミングもありません。主は「まどろむこともなく 眠ることもない」(詩篇121:4)方だからです。主は、常にあわれみ深く、恵みといつくしみに富んでおり、怒るのに遅い方です。だから、いつだって私たちはイエスさまを呼ぶことができます。それを拒まれることもありません。急に最高潮のテンションで駆け寄っても、引かれることはありません。叫びながら近づいても、顔も耳もそむけることをなさいません。イエスさまは、どんなときも決して私たちをスルーせず、関りを持ってくださる方です。


2.神との距離感

さて、そのような方が「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆かれるのですから、相当なことです(最初に戻りましたね)。これは、まず父親に向けた言葉ではありません。これは「弟子たち」に向けて言われたものでした。ここで父親が、一人息子の癒やしを願ったのに弟子たちはできなかった、と伝えているからです。それを受けてイエスさまは「いつまで、あなたがたと一緒にいなければならないのか」と弟子たちに向けて言われました(群衆やこの父親とは初めて会ったばかり)。


まず、イエスさまが弟子たちに嘆かれたのは、父親は群衆の中からイエスさまの前に飛び出しているのに、弟子たちは黙って見ていたからです。この息子を癒やせなかった弟子たちは、イエスさまに「助けてください」と申し出ることだってできました。この後の45節では、イエスさまのことばが理解できなかった弟子たちは「尋ねるのを恐れていた」とあります。弟子たちは「それが分かりません」「このことができませんでした」と言うのを恐れてしまう精神状態だったのかもしれません。「分かりません」と言えば、「どうしてこんなことも分からないのか」と叱られるかもしれない。「できませんでした」と言えば、「そんなんだからダメなんだ。君には失望だ」と言われてしまうかもしれない。弟子たちはこうした恐れから、イエスさまと距離を取っていたのかもしれません。

そうして、弟子たちは本来取らなくていい距離を、イエスさまから取って恐れていました。先ほど、イエスさまは私たちと交わりを持ち、関係を深めてくださる方だと学びました。ここでは、どうでしょうか。弟子たちは、イエスさまにあえて尋ねず、お願いもしていません。同じ出来事を記したマタイ17章、マルコ9章でも、イエスさまが息子を癒やされてから、弟子たちはそっと近づいて「なぜ、私たちにはできなかったのでしょう」と聞いています。しかし、弟子たちが事前に、あるいは父親より前に「できなかったので、助けてください」と言うことはありませんでした。聞かなければ恥もかかないし、ムダに叱られることもありません。けれども、イエスさまとの関係も薄くなってしまいます。私たちも、自分が傷つかない程度に、自分が恥を見ない感じで、自分が面倒でない距離でイエスさまとの関係を保っていくのだとしたら、イエスさまとの関係は一向に深まりません。真の交わりから逃げていると楽で、傷つきもしませんが、もっとも大切な神との関係が冷えてしまいます。


この点において、私は最近、つくづく自分に欠如していると思うのです。自分の調子が良いときには、人に近づいたり神さまに熱くなれたりしても、調子が出ずに気分も乗らないときは、微妙な距離を取ったり熱心でない態度を取ったりしてしまいます。それは楽ですが、良くない生き方です。自分を守る悪い癖や、言い訳が上手な罪を打ち破り、神や人と深い関係を築くことができません。自分自身を優先する方向に向いているかぎり、私たちは神を二番目にも三番目にもして、後回しにしていき、それが平気になってしまいます。しかし、ここで父親が群衆から飛び出してイエスさまに近づいたように、飛び抜ける熱心さで神との関係を求めていきたいと願います。イエスさまは、距離を詰める私たちを拒まず、必ず答えてくださる方です。


3.我慢する神!?

さらに、弟子たちに「いつまで・・・あなたがたに我慢しなければならないのか」と痛烈なことばを言われました。イエスさまは「我慢」して弟子たちと一緒にいたのでしょうか。イエスさまが我慢して私と一緒にいてくれるのだ、と思ったらたまりません。そんなに私のことが迷惑で、イエスさまに負担をかけているのであれば、私と一緒にいてもらわなくて結構です、と言い出したくなります。果たして、そういうことをイエスさまは言っておられるのでしょうか。


この「我慢する」は、原語の意味としては「上に+持つ」です。それから「持ち上げる」「忍耐する」「受け入れる」と訳出されます。具体的には、何かに抵抗するように持つという意味合いだそうです。決して持ち上げるのは簡単ではないけれど持ち上げる。さらに、持ち続ける状態を指す語です。この言葉は、イエスさまが弟子たちと一緒にいるのだということを説明するために使われました。

そうすると、イライラするけれども我慢する、本当は嫌だけれど忍耐して一緒にいるという意味ではないことがわかってきます。そう、イエスさまは、ふがいない弟子たち、失敗してしまった弟子た

ちに向けて、一緒にいることをやめないよと言っておられるのですね。「わたしは、最後まであなたを運ぶ」と言ってくださっているのです。不信仰な曲がった時代に押し流され、つぶされてしまうような弟子たちを、しっかりとつかんでいてくださる。目の前の子どもを助けることができず、足がすくんでしまっている弟子たちを見限らずにいてくださる。叫びながらイエスさまに近づく父親をただ見ることしかできないでいる弟子たちに、なおも声をかけ続けてくださる。罪に絡め取られそうになる私たちを、ちゃんと引き上げてくださる。これが、イエスさまの言われていることです。


「不信仰」とは、イエスさまの言われることを真に受けず、時代や人、時には自分の声を真に受けて曲がってしまうことです。そうして歪んだ道を選ぶ者に、まことの平安はありません。いつまでも自分で自分を保つか、自分自身を持ち上げるしかないので、疲れ、やがて倒れてしまいます。ここに、あなたを受け止め、最後まで運んでくださる方がおられます。この方は、あなたのためにいのちを捨てるほどの愛を持っておられます。この方は、あなたの罪を背負って歩み続けてくださいます。この方との関係を強める人生を選び直していきたく願います。■


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