「主のみことばを求める」
- 大塚 史明 牧師
- 2月2日
- 読了時間: 12分
聖書 第一列王記17章1-7節
はじめに
本日からしばらくの間、第一列王記17-19章、預言者エリヤの記事をごいっしょに見てまいりたいと計画しています。今年のテーマ「主を求め、みわざを味わう」にふさわしい箇所であると導かれました。
久しぶりの旧約聖書になりますので、はじめに時代背景をおさらいしておきます。列王記(第一、第二)は、漢字のように王たちを列記したものです。この前のサムエル記(第一、第二)で、イスラエルに王政が始まり、サウル王、そしてダビデ王が立てられ、神の民の国=イスラエルがより堅固になっていきます。この前の時代はさまざまな指導者があった時代=士師記です。彼らにかわり、王が立つことで、より国としての形、力がつき、安定していくようになります。ただし、この王政を願い出たのは、民たちでした。それまでイスラエルを治めていた祭司サムエルが息子たちにバトンタッチした途端、彼らが堕落していたので、国は安定しませんでした。それで困った民たちが、「どうしても、私たちの上には王が必要です・・・ほかの国々と同じように、王を立ててください」(第一サムエル8:19-20)と頼んだので、主が彼らの言うことを聞き入れ、サウル王が選ばれたのが初めでした。
本来、神ご自身が治めるイスラエルですが、まずは祭司職の継承がうまくいかなくなりました。それは神のことばが一歩退けられる一歩目のズレです。
そして、「ほかの国々とい同じように、王を立て」ることを民が願い始めたとき、それは神よりも人を頼りにしてズレていく姿を象徴しています。そうして始まった王政は、サウル、ダビデ、ソロモンと続いた後は国が分裂してしまいます。北イスラエルと南ユダの二つです。そして、今朝からは北イスラエル王国が舞台となります。ソロモン王の息子レハブアムが興したのが南ユダで、首都はエルサレム。北イスラエルは家来ヤロブアムが裏切って興した国で、首都はサマリヤです。このサマリヤは後にアッシリアの支配下で雑婚政策が取られ、新約聖書の時代には「異邦人のサマリヤ」と呼ばれて軽べつ視され、交流や付き合いもしない間柄になっていました。その壁を取りのぞいたのは、イエス・キリストですが、それはまだ800年後になります。
これから預言者エリヤが対峙することになるアハブ王は、北イスラエルの七代目の王です。実は、この北イスラエルには主の目にかなった王は一人しか登場していません(エフ―)。中でもこのアハブは「ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」、「彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った」(1列16:30,33)とあるような極悪な王でした。こうした暗い世を、主なる神はどのように見ておられるのでしょうか。見て見ぬふりをされるのでしょうか。人のしたいままにさせておかれるのでしょうか。
聞かされる主のことば
エリヤは、このような時代に活動した預言者です。主はアハブの好きなようにさせ、放っておかれません。「何でもいい時代」、「何しても関係ない」ではなく、はっきりと主ご自身のみこころを示される方です。そうしてエリヤが登場します。エリヤは「ギルアデの住民であったティシュべ人」でした。ティシュべ人はここにしかないでてきませんが、ギルアデの町は家畜用に最適だとガド族に選ばれていた地です。ガド族は、ヨルダン川を渡って戦いに加わりますが、またギルアデに戻って住み着いた部族で、歴史的には真のイスラエル民族ではないともされました。ちょっと信仰的にも怪しいとされた感じですが、そんな町で主はちゃんとエリヤを育てておられました。
そして、主の時が訪れ、エリヤは(おそらく)サマリヤへ上り、アハブ王に告げます。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(17:1)。この教会にもエリヤのように「主は生きおられる」と告げる方がいますね。それはとっても幸せなことです。私たちがこの言葉によって、生ける神を意識させられるからです。エリヤがこのように言ったのには、理由があります。それはアハブ王がバアル神を拝んでいたからです。アハブ王は生けるまことの神を捨て、豊かな収穫をもたらすと言われる豊穣の神、バアルを拝み、そのための預言者も召し抱えていました。それは妻イザベルの入れ知恵によるものです。
続けたのは「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」という預言でした。雨は収穫にとって欠かせないものです。また、夜露も乾季の間にもたらされる唯一の水分です。それらがなければ農作物は実を結ぶことができません。そうなると困るのは人々ですが、恥をかくのはバアル神です。自分の無力さが明らかになり、それに肩入れしていたアハブ王も力や信頼を失います。生ける神は、バアルのもっとも得意とするところを突いて、切り込まれたのです。
これは、私たちにも無関係ではありません。私たちが失敗するのは、自分の得意分野であることが多いからです。人は、自分が苦手だと思うと、謙遜になり、それを武器にしようとは思いません。反対に、自分が得意だと思うことにおいては、高ぶりが出てきます。同じようにできない人を見下げたり、傷つけたりもします。もちろん、自分の得意や専門分野を持つこと自体は悪いことではありません。しかし、それが自分の力だと誇示するようになると危険です。偶像礼拝の問題は、雨が生ける主から注がれているのに、バアル神のおかげだと考え、仕えている点です。本来は、主から恵みが注がれているのに、それを主からではなく、他のものから与えられていると考えることが偶像礼拝です。昨年4月に来られた福田真理先生が「偶像は、あなたの人生を祝福しますから、気をつけてください」とおっしゃっていました。
家族を顧みずに仕事に没入するのは、そこで多く評価されるからです。収入やお小遣いよりも多くの買い物をするのは、それらが自らを満足させるからです。本来、主から与えられる祝福や喜びを、間違ったものから得ようとするのが人間の罪の性質です。アハブ王はまさにそのような人物でした。周囲の国とうまく付き合うために異邦人であるシドンからイザベルを妻に迎え入れ、創造主からではなく偶像のバアルから祝福を得ることができると考え、加速していきました。側近もそれが間違っていると助言をしていません。民たちも、繁栄と安定をもたらす王に言われるがまま従っていました。
エリヤが遣わされたのは、このような時代、王、人々に対してです。「私が仕えている神、主は生きておられる」と自分は偶像にひれ伏していないことを最初に明言し、続いて、「ここ数年の間、露も雨も降らない」と主から受けたことばを告げています。この主のことばにより、エリヤとアハブ王やバアル神との対決は始まり、19章まで続きます。エリヤは主のことばを聞き取り、宣言しました。同じように、生ける神を礼拝している私たちに、主が語っておられることは何でしょうか。この時代にあなたが聞き取らなければならない、主のことばがあるのではないでしょうか。今の状況で、あなたが宣言しなければならない主のことばがあるのではないでしょうか。主のことばを聞き取り、宣言する者とされたいと願います。
2. 命じられる主のことば
こうして始まったエリヤとアハブ王の対決ですが、主は意外なことを告げられます。「ここを去って東に向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ」(17:3)。前へ進め!行け!ではなく、ここはいったん戻って身を隠しなさいと言われるのでした。エリヤも雨の降らない日照りと無関係のところで過ごすのではありません。むしろ、干上がっていく様子を見せられるかのように、ケリテ川のほとりに行くように命じられました。このケリテ川は大きな河川ではなく、「流れ(brook)」と訳される「ワジ/wadi」という言葉です。もともと、雨季に雨量が多くなると出現するような川です。主は、そのような場所へ行くよう、エリヤに命じられました。
ただし、主が命じられたのはエリヤに向かってだけではありません。何と「わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた」(17:4)のです。主は、すべてのものをお造りになった創造主ですから、すべてのものに命じることができます。民数記ではろばも口を開いて話しています。ここで命じられているのは烏です。烏はノアが箱舟から放ったとき、出たり戻ったりした生き物です。その後の鳩はオリーブの若葉をくわえて戻ってきて、平和の象徴として用いられています。しかし、烏は平和と言うより不吉ですし、どうにも何の役にも立っていません。また「忌むべき生き物」(レビ記11:15)ともされています。
そんな烏を、主はここで用いることにされています。エリヤにパンと肉を運ぶよう、烏に命じられました。しかも朝と夕の二回であることが分かります(6節)。
私たち家族が岩手にいたころ、妻がお弁当をもってポニーが見える公園へ出かけました。まだ娘たちも幼かったので、友人の子と遊びに夢中になって過ごしました。一区切りついてお弁当を食べる頃になって、烏の鳴き声がしました。すぐに戻ると、お弁当は烏に全部食べられてしまっていたそうです。しかも、入れ物のタッパーを開けて中身だけを食べていったとのこと。妻の烏の記憶は、食べ物をくれるのではなく、食べ物を奪う烏です。しかし、ここではまったく逆です。烏がエリヤを養うのです。主がそのように命じられたからです。私たちにとって「そんなのあり得ない」、「うそでしょ。逆でしょ」と思うことでも、それは人間の常識でしかありません。この個所を読むと、主の大きさ、偉大さを知らされます。
エリヤは、主のことばをアハブ王に告げました。そして、そのエリヤに、主はケリテ川のほとりに身を隠し、烏に養われなさいと命じられました。主のことばに対する、私たちの態度も探られます。人に語るだけでは足らないのです。自分も主のことばに聞き従うことが命じられている。他者の信仰の弱さを指摘するよりも、自らの信仰が鍛えられていくことをよしとする。
それが主のことばを預かる預言者の生き方であり、毎週主のことばを聞いている私たちへの問いかけです。最近は「おまゆう」という言葉があります。「お前がそれを言うか」の略です。たとえは、遅刻した人が「時間はちゃんと守ろう!」と言ったような場合には「おまゆう」が適用されます。
主の預言者に「おまゆう」は通用しません。もし、そうであったら預言者としての務めを果たすことができないからです。人には主のことばを高らかに宣告するけど、自分はちっとも従わない。預言者にそんな人はいません。モーセもエリヤもエレミヤも、自分の語った預言に忠実だったので、多くの苦労をしました。
私たちも「おまゆう教会」ではなく、「預言者の教会」でありたいと願います。同盟教団には自分の説教で献身して牧師になった方がおられます。その証しを聞いて最初は笑ったのですが、それが本当の説教者だと思いました。「祈ってください」と言ったら、自分こそ祈る。「人を誘いましょう」と言ったら、自分が伝道する。「この奉仕が足りません」と言ったら、自分がまず担う。「元気ないなあ」と思ったら、自分から話しかける。その生き方はきっと隣人に良い影響を与え、互いに主の教会を建て上げていくことができます。ここで語られた主のことばにまず従うのが自分自身でありますように。
3. 実行される主のことば
では、本当に主が命じられたとおりになったのか気になるところです。聖書は続きを記してくれています。「そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした・・・ケリテ川のほとりに行って住んだ。何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た」(17:5-6)。
出エジプトのあと、荒野をさまよう民たちに、主はうずらの肉とマナを与えてくださいました。夕方に肉、朝にマナです。そして、ここでは朝と夕に肉とパンの両方をエリヤに与えておられます。預言者エリヤは、当然そのことから出エジプトからのうずらとマナのことを思い出したはずです。そして「主は生きておられる」ことを繰り返し賛美したことでしょう。それもこれも「エリヤは行って、主のことばどおりにした」から味わうことのできたみわざでした。主のことばに従って、初めて経験できる喜びがあります。レストランの前でサンプル食品を眺めていてもおいしさは分かりません。中に入って、注文し、食べて初めて「おいしい」と味わうことができます。
しかし、エリヤにはさらにチャレンジが続きます。ケリテ川の水を飲むことができたのですが、その地全体に雨が降らないため、当然ケリテ川も干上がっていきます。そして、ついに「その川が涸れ」てしまいました。
肉とパンが朝夕と運ばれ、川の水を飲むことができたエリヤの生活は、そう長くは続きませんでした。次第に、肉とパンはあるけれど、水がどんどん少なくなっていくことに不安を覚えたはずです。人間はあるものよりも、無いものに目も心も奪われていく習性があるからです。
先々週、能登の帰りに、大阪の兄宅に泊めてもらいまいた。数年ぶりにゆっくりした時間を兄と過ごすことができました。兄は一人暮らしでいるのですが、家の中がとってもシンプルなのです。一歩、足を踏み入れると不動産屋さんに物件を紹介してもらっているように感じるくらい物がないのです。私が「兄ちゃん。この家、何もないな」と言ったら、兄は「どこがや。何でもあるやん」と答えました。「いや、カーテンもレースもないし」と言うと、窓を開けた兄が、「ほら、すぐ近くに家が建ってるからカーテンいらんねん」と言うのです。見て見ると、大阪の住宅事情らしく、隣家との距離が10センチほどしかありません。三方向がすべてそんな感じなので、カーテンはいらないそうです。ダイニングテーブルもソファもないのですが、自作の机と畳(一畳だけ♪)はあります。言われてみると、あるべきものはちゃんとある、そんな家でした。ついつい、私が当然あるものだと思っているものがないので、そこばかりに気が取られてしまった実体験を兄宅でしてきました。
きっと、エリヤも目に見えて減っていく水量に心が揺れ、ついにその川から水がなくなったときには、穏やかではなかったはずです。預言者エリヤは、ずっと平穏な生活ができたわけではありません。むしろ、ストレスの連続です(それは、これから見ていきます)。どうして、そのような人生を送っているのでしょうか。それは彼が「主のことばどおりにした」からです。主のことばに従っても、順境も逆境もあり、安らぎもストレスもあります。そうです、試練にあわないように、主のことばに信頼するのではありませんね。むしろ、主のことばに従うがゆえ、味わう労苦があります。
私たちには一気にすべてを見通すことはできませんが、主はそれがおできになる方です。また、主は永遠の視点に基づいて、ことばを聞かせてくださいます。もうこれで今日から一生安泰とは言えませんが、毎日、主の恵みは十分にあります。私たちが主のことばの中に身を置くとき、不思議な平安と力が与えられます。王座にいたアハブは自分の命令通りに人を動かすことや大きな問題を闇雲に対処することなど必死ですが、主のことばなしに生きるので、とても大変で自らを追い込む最期を迎えます。エリヤはストレスや戦いがありながらも、主のことばに従い通し、最終的な勝利を得て天へ凱旋します。私たちも主のことばを聞き、命じられたとおりに実行することから始めてまいりましょう。いざ、預言者の教会へ。
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