「主の力を求める」
- 大塚 史明 牧師
- 2月16日
- 読了時間: 7分
聖書 第一列王記17章17-24節
最悪の出来事
本日の礼拝、第一列王記17章エリヤとやもめの女とその息子の物語です。題は「主の力を求める」です。私たちは主から力をいただかなければ、本当の意味で生きること、生き抜くことはできません。みことばを通して、主の力をいただきましょう。
先週は、やもめの女が最後の食事を主にささげたところ、それから食べ物が尽きることのなく与えられた箇所でした。本日は、その後に起こった、息子が死んでしまうという悲しい出来事です。病気になり、それが重くなってついに息を引き取ったと一連の流れが記されています。この前、死のうと思っていたところでエリヤと出会い、そこから奇跡を体験したのにその生活は長く続かず、今度は息子が死んでしまいました。この女性の人生は、ジェットコースターのように目まぐるしい展開でした。どん底から安定、またどん底へという感じです。もう何がなんだか分からない、自分がどの位置にいるのかも分からない、そんな状態だったと想像できます。
聖書は病気から死の出来事を淡々と記し、この後からのことに注目するよう、私たちを導きます。確かに、死は人間にとって最悪の出来事です。私たち人間は死なないために健康診断をし、体力維持のためにランニングをし、サプリメントも調べて買います。それでも、死はやって来ます。遠ざけることはできても、避けることはできません。気をつけていても病気になり、自分が悪くなくても事故にあい、意味のわからない試練にもあいます。思い通りの人生を歩める人は、誰もいません。「人生ってそんなものだと悟りなさい」と言われたら希望がないので、聖書はこの死の出来事の続きがあると語ります。
このやもめは「あなたは何のためにここに来たのですか?」「私の罪を思い出させるためですか?私の罪のゆえに、息子を死なすためですか?」とエリヤに言いました。とてもひどいことを言っています。ひどい。けれど、真剣にそれを言っています。最悪の出来事を経験するとき、ある人は無気力になります。ある人は自らを雑に扱います。このやもめはひどい言葉だけれど、主の預言者に向かって本気で言っています。何をしに来たのか、どういうつもりなのかと、真剣に神に当たっています。問題の中で、主を必死に求めることがあります。いや、問題が主を真剣に求めさせると言えるかもしれません。そのときは苦しくて、早く脱出したいばかりだけれども、必死にもがきあえぐのです。
この問いは、やもめからエリヤだけに向けられたものではありません。現在の教会、私たちクリスチャンに対しても投げかけられている問いではないでしょうか。福音に生きようとするとき、簡単に感謝できない出来事にぶつかります。福音を伝えようとする時、簡単に答えられない質問をされます。「私にこんなひどいことが起こったんだけれど、いったい神さまはどういうつもりなのか教えてほしい。どうせ答えられないと思うけど」「あなたから教会に誘われてから、変なことばかり起こる」「こんな大変なときに、聖書の言葉なんて役に立たないでしょ」これらの問いに何と答えたらよいのでしょうか。
人は自分と神、自分の人生と聖書がどのように関係があるのか知りたいのです。愛する者を失った人、病に苦しんでいる人、悲しみに襲われた人に対して、納得する答えができたらよいのですが、とても難しいことです。
2. 最大に叫ぶ
そんなときは、優等生のように答える必要はありません。相手を納得させたり、安心させたり、適当なことを言って逃げる必要もありません。この次に、エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言って、彼女の懐から受け取り、自分の寝床に寝かせて主に叫んで祈りました。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか」(17:20)。
エリヤはただ、主に叫びました。神に祈るしかありませんでした。それが偉大な預言者の一人であるエリヤがしたことです。そうであれば、私たちも祈るだけです。エリヤは等身大で主に叫びました。「主はこう言われる」とは答えません。息子の死に対して、主のみこころが示されていなかったからです。エリヤも息子の病気の理由は分かりませんでした!そのために、ひどい言葉を浴びせられましたが、「そんなこと言ったら、罰が当たるよ」と母親に言われたことを否定しませんでした。彼女の悲しみをそのまま抱えるようにして、息子を受け取ります。
私は、よく人の気持ちをつぶしてしまうことがあります。たとえば、ある人から「私、Aさんから嫌われていると思うんです」と相談をされたら、「気のせいでしょう。きっと大丈夫ですよ」と言ってしまいます。あるいは、「私の子ども、ずっとゲームばかりして困っています」と言われたら、「ずっとじゃないですよね?」と答えてしまいます。つまり、相手の気持ちをそのまま汲み取ることが苦手なんですね。しかし、それではいけないとこの個所を通して教えられます。
エリヤは、この母親から「あなたは、息子を死なせる死神ですか」とクレームを付けられました。否定したり、逆に怒ったり、いったん落ち着かせたりしてもよかったかもしれませんが、まず全部それを受け止めました。「あなたの息子を渡しなさい」(17:19)というのは、今、彼女の問題、悲しみ、怒りの原因となっているすべてをエリヤに渡しなさいという意味です。ツァレファテの町の門で出会ってからどのくらいの時間が経過したのかは分かりませんが、2人の間にはすでに人生を分かち合うことのできる関係が築かれていました。母親の悲しみに対する答えは持っていません。息子の死に対する正しい答え方は知りません。けれども、エリヤは彼女の悲しみを全部受け取り、それを主の前に持って行きました。彼女の代わりに、大声で祈りました。これが、理由の分からない問題に対する答えなのかもしれません。21節には、エリヤの祈りが書かれています。「彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。『私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください』」。
すでに死んでしまっているけれども、神に叫びました。すでに死んでしまっているけれど、いのちを戻してくださいと祈りました。人間にはどうすることもできない。しかし、それで終わりではなく、主に祈る。どんなにひどいことを言われても、その人のために神に祈る。エリヤがこの母親にしたことは、彼女の荒れた心を受け止め、最大の問題に絶望せず主に祈ったことです。今朝はビジョン教会チームと一緒に礼拝をささげています。神学校時代に、祈りのセミナーに韓国から講師が来られました。韓国では祈りの訓練のために、一人ひとり山へ行って木を選ばせるそうです。そして、その木を押しながら祈りなさい、その木が倒れるまで祈りなさいと教えると紹介され、日本人の学生は皆驚きました。
3. 最強の力
主がエリヤの願いを聞かたので、その子は生き返ります(17:22)。そして、その子を母親に渡しました。死んだ子が生きて返されました。それは、絶望した母親の言葉から始まりましたが、エリヤが受け止め、祈ったことで死からいのちへを変えられました。この出来事は次のやもめの言葉で閉じられます。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」(17:24)。「何をしに来たのですか」「息子を死なせるためですか」と言っていた彼女が、「あなたは神の人です」「主のことばは真実です」と信仰を告白するまでに変えられました。
17:9-16の出来事で、やもめは身体の命を助けられました。貧しさや食べる物に事欠くところから救われたのです。しかし、彼女の息子が病気で死んだとき、彼女が主に祈ることはしませんでした。まだ、はっきりとした信仰がなかったのかもしれません。「奇跡が起きたら神を信じる」と言う人が一定数います。それで言えば、彼女は奇跡を体験しました。油も粉も尽きることのない奇跡です。食べても食べても減らない奇跡です。しかし、その奇跡では彼女に信仰は芽生えませんでした。食べ物が尽きずに与えられたときには「主が生きておられることがわかりました」と、彼女が言うことはありませんでした。
生活が楽になることでは、神を信じる思いが起こりませんでした。けれども、今の彼女は「私は・・・主のことばが真実であることを知りました」と自分で言っています。そうなったのは、わざわいと思えるような息子の死を通してでした。食べ物の主だけではなく、いのちの主であることを知ったからです。
私たちも、主を知るためには究極の痛みや悩みを通らされることがあります。主は今も生きて働いておられます。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は応えてくださいます。私たちはその主に叫び、主が祈りに応えてくださることを通して、主こそ神であり、この主に信頼して歩みましょう。
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