「主の名を求める」
- 大塚 史明 牧師
- 2月23日
- 読了時間: 8分
聖書 第一列王記18章16-24節
試練はだれのせい?(16-18節)
今朝は第一列王記18章に入ります。前の17章で主のことばにより雨が降らず、その間エリヤは川のほとりややもめの家で養われました。新約聖書によるとこの雨の降らなかった期間が「3年6カ月」(ヤコブ5:17)であることがわかります。そして、18章の出だしは「かなりの日数を経て、三年目に」とあるので、やもめの家で2年間ほど過ごしていたのかもしれません。その間、じっと次の「主のことば」を待っていたのです。主が行けと言われればすぐに行き、主が沈黙されていたら動かない。それが預言者エリヤの生き方でした。
17章のはじめで、エリヤとアハブ王は出会っており、その時に「数年の間、露も降りず、雨も降らない」と宣告されたので、アハブ王は飢饉がエリヤのせいだと考え、そのいのちを狙っていました。けれども、主のことばによってかくまわれていたエリヤはなかなか見つからないので、長官オバデヤにも捜すように命じ、王と長官が出かけているのが18章3節からの出来事です。このオバデヤは神を恐れる信仰の人でした。アハブ王と妻イゼベルは悪のかぎりを尽くした権力者でしたが、その側近にオバデヤのような信仰者を置いていました。このオバデヤはただ黙って王に従うのではなく、主の預言者100人が抹殺されそうになったとき、彼らを洞穴にかくまい救った勇敢で知恵のある側近です(18:13)。
そうしてエリヤとアハブ王が対峙するのが18章16節です。アハブはエリヤに対して「おまえが、イスラエルにわざわいをもたらす者か」と言いました。エリヤを見た途端とあるので、ずっとこのことを言いたいと考えていたのです。私たちにも「相手が扉を開けて入ってきた瞬間に用事を伝えてしまった」「その人の顔を見た途端、怒鳴ってしまった」というような、似た経験があるものです。それは、相手のことをずっと頭の中で考えているからですね。きっと、アハブ王の雨の降らない3年間、エリヤから「これから雨は降りません」と言われたことが気になって仕方がなかったのでしょう。気づけばエリヤのことを考え、憎しみや怒りを頭の中で繰り返すような日々をアハブ王は送っていました。それでまっさきに「お前が私の国イスラエルにわざわいをもたらす元凶だ」と突っかかりました。
しかし、エリヤはすぎに「私がわざわいをもたらしているのではない。あなたこそ・・・主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている」(18:18)と言い返しました。エリヤは、イスラエルの国にわざわいをもたらしているのは私のせいだとしているけれど、あなたがまことの神から離れ、偶像の神々に従っているからです!とはっきり告げます。アハブ王の抱える問題は、エリヤのせいではありません。アハブ王自身が、主に従わないから生じて来たものです。そのために、王である自分が出かけてエリヤを探し、家畜の水を探してさまようみじめな現実を迎えています。アハブ王はなにゆえ、主の命令を捨てて、バアルの神々に従ったのでしょうか。それは繁栄、安定、力、名声です。まことの神に頼るよりも、今勢いのある、諸外国で人気の神々を取り入れることで、自分の国も安定させ、大きくしようとしました。それが、自分の人生を肯定し、祝福してくれるものだと考えていたからです。
私たちは、何が自分の人生を肯定してくれると考えているでしょうか。受験や仕事、経済面、人脈が自分を安定させ、もう大丈夫、よくやったねと言ってくれるものだと信じているなら、それは危険です。なぜなら、これらにおいて私たちは成功もするし、失敗もするからです。試験に受かるときもあれば、病気になることもあります。お年玉をもらえるときもあれば、お金を落とすこともあります。こういうことに神を持ち出していたら、私たちは自分の欲や願いばかりに捕らわれて、今日はあっちの神、それがダメだったら向こうの神・・・とさまようことになります。これは、まことの神から離れていることから引き起こされる状態です。まさに、このときのアハブは王でありながら、エリヤを血眼になって捜し、出会った途端にエリヤにかみついて、みっともない姿をさらしています。先週見たやもめも、食べ物や安定した生活が与えられているだけでは、本物の信仰につながりませんでした。なぜなら、欲は満たされてもすぐに忘れるからです。
2. どっちつかず(19-21節)
アハブ王は、雨が降らずに飢饉が起こることをはじめにエリヤから聞いていました(17:1)。それで、実際に飢饉が起こっても、主のことばを思い出さずにどこまでも鈍感で、主に立ち返ることをせずどこまでも強情・自分中心です。アハブ王は主のことばだけでは反応ができず、じっさいに日照りの飢饉が起こってもなお、主を思い出して立ち返ることをしません。そして、アハブ王の妻であるイゼベルの近くにはバアルとアシェラに仕える大勢の預言者たちがいました。エリヤは、彼らを一同に呼び出し、対決を迫ります。
エリヤは、預言者たちに「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか」(18:21)と言いました。これは「二つの道で迷う」とか「二本の木の枝をさまよう小鳥」の様子をとらえた表現です。預言者たちやこれを見に来た民は「一言も答えなかった」とあります。彼らには答える用意ができていませんでした。実は、舞台となっている「カルメル山」は山頂がどこにあるのかわからない山だそうです。何とも象徴的な場所で、預言者たちも民もただ黙っています。
以前も一度、皆さんにお話しした記憶がありますが、一つのエピソードを紹介させてください。私があるご夫妻のお家に泊まらせていただくことになりました。
夜ご飯を食べに行く途中、夜景がきれいな橋があると奥様が思い出し、そこへ行こうかどうかということになりました。運転していたご主人は即答しないで「今の時間だと込んでるし」「夕食の時間も迫ってるからなあ」とぶつぶつ言っていました。すると、その奥様がしびれを切らして「あなた、行く?行かない?どっち!」と聞いたので、私はすごく笑ったのをよく覚えています。
どちらかを決める、というのは時に難しい判断ですし、どっちかにしろと要求されたらプレッシャーもかかります。それがどこへ行くのか、何を食べるのかであれば死活問題ではありませんが、ここでは「あなたは誰を神とするのか」「あなたは誰に人生をささげますか」「あなたは誰に人生を肯定してもらいますか」という重要な問いです。これは真の死活問題なので、どうにかしてこれに答えなければなりません。
この中にはまだ信仰に踏み切れない、聖書の神を信じる意味が分からない、イエス・キリストの必要性を感じないという方もおられるでしょう。それ自体はとても良いことだと思います。どうかその問いや悩みをうやむやにしないで、自分で答えを出すことに取り組んでください。聖書とか信仰とか別にどうでもいいと感じる世代の方がいたら、自分でケリをつけられるくらいに主のことばを知ってからにしようという気概で臨んでください。
3. 1対450(22-24 節)
エリヤは、すでに自分の立ち位置を決めています。どっちつかずによろめている預言者たちや民とは、そこがはっきりと違います。「私一人が主の預言者として残っている」(18:22)とは、以前は主の預言者だったけれども、アシェラやバアルの預言者に日和った者たちも多くいるという意味ですね。仲間だと思っていた預言者たちが、どんどん他の神々に乗り換えて行ったとき、エリヤは不安にならなかったのでしょうか。今やたった一人です。中にはエリヤをバカにする者がおり、中にはエリヤを悪く言う者もいたでしょう。しかし、エリヤの主への熱心は周囲からののしられたり、笑われたりすればするほど、高まっていきました。
たとえば、あなたにすごく好きな有名人ができたとしましょう。もし、誰かから「そんな人が好きなのお?」とバカにされたとき、すぐに恥ずかしくなってその人のファンをやめてしまうなら、それは熱心な愛とは言いません。 しかし、誰かから「あの人のこと好きなの、もうあなただけぐらいしかいなんじゃない?」と言われたとき、嬉しくなったり、かえって燃え上がるなら、それは本当にその人のファンです。悪く言われれば言われるほど、あなたのその人との関係が密になる、深くなる、特別なものになると感じて高揚するからです。逆に、最後まで残った一人があなたであれば、それは最高の名誉です。
「私こそ、あなたのファンです!」とその人に伝えられるからです。ここでのエリヤも同じではないでしょうか。エリヤは自分一人であることを嘆きもせず、たじろいでもいません。かえって自信がみなぎって、ここからどちらの神が火をもって答えるのか、という勝負を提案します。エリヤの確信は仲間の多さでも、王から褒められることでもありません。エリヤは、ただ主の名に信頼しているだけです。なぜなら、主の名はだれかと比較することもできないほど強く、何よりも偉大だからです。エリヤは一人でも孤独ではありません。必ず答えてくださる主の名を知っているからです。
結びに、質問させてください。あなたが会社の経営者になったらどんな人を採用しますか?「別にどの会社だっていいです」と言っている人は採用しませんよね。「まあ、適当に働いて、ちょうどよく稼げるくらいの都合よい感じだったからです」と言っている人は選びませんよね。この場面でどっちつかずによろめいている人は、選びようがありません。本人にとっても悲劇だからです。主は、エリヤのように「神なしではやっていけない人」こそ待っておられるのではないでしょうか。頼もしく、微笑ましく、いつでも答える用意をして待ち構えてくださっているのではないでしょうか。私たち、主の名を呼びましょう。「主よ、あなたしかいないのです」「イエス・キリストなしでは生きていかれません」とすがってまいりましょう。
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