「主の祈り(2)」~聖なる神と生きる~
- 大塚 史明 牧師

- 2月8日
- 読了時間: 9分
ルカの福音書11章1-4節
願い
今朝も「主の祈り」からみことばを味わいます。先週は一回目で、「天にいます私たちの父よ」と祈り始めるようにイエスさまが教えられた箇所でした。地のいっさいのものから解放されて天を見上げること、神を父として親しく呼ぶこと、孤立ではなく私たちという祈りの交わりに生かされ、支えられていることを覚えました。
今朝はその続き「御名が聖なるものとされますように」です。これは私たちが父なる神に祈る最初の願いですから、最も大切な祈りとも言えます。「聖」から、どんなことをイメージするでしょうか? 光り輝くもの、白い、まばゆくまぶしい感じ、ヒラヒラとそよぐ衣、華麗に踊るフィギュアスケーター・・・とさまざまです。「聖」の言葉の意味は、「特別なものとして取り分ける、他のものと区別する」です。私たちが大事にしている「聖書」は「聖なる書」であり、「他の本とは区別されている」という意味です。神のことばとして他とは区別するのですね。
「あなたの御名が聖なるものとされますように」とは、神のお名前が他とは区別され、特別にたたえられるようにとの願いです。以前の訳語では「御名を崇めさせたまえ」です。「崇めさせたまえ」だと、「私たちに神の御名を崇めさせてください」と捉えがちですが、これは明治時代に訳されたもので、その正しい意味は「あなたのお名前が崇められるようにしてください」です。ポイントは、神の御名を聖とするのは私たちではなく、神ご自身であるという点です。
神の御名は、私たちによって聖くされるのではないのです。これはいったい、どういうことでしょうか。旧約聖書には、「わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す」(エゼキエル書36:23)とあります。これは、神がご自身でその名を聖とするとの宣言です。神の御名を汚しているのはイスラエルの民であり、私たち人間です。本来、聖であるはずの神の御名が人によって汚されているので、神がご自身のその名の聖さを取り戻すために立ち上がられる、というのがこの聖句です。私たち人間が神に背を向け、罪を犯すことによって、日々神のお名前は汚され、泥が塗られてしまっている。だから、どうぞこれを払しょくし、聖であることを示してくださいと願うのが主の祈りの最初です。そしてもう一か所、旧約聖書の節を紹介します。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎(とが)は取り除かれ、あなたの罪も赦された」(イザヤ書6:7)。この聖句は、イザヤという預言者が聖なる神と出会った時、自分の汚れにさいなまれ、もう滅びるしかないとうろたえていた時に受けた言葉です。神は、汚れているイザヤのその唇に触れ、咎と罪を赦し、信仰と賛美を与えてくださいました。この直後、イザヤは同じ唇で「ここに私がおります。私を遣わしてください」と叫んでいます。先ほどまで、もう滅びてしまうと恐れに震えていたのに、神によって聖められたイザヤは、神のために立ち上がる決心をしました。イザヤと同じことを、私たちは神に願うのです。「主よ、今まで私はあなたのお名前を汚してきました。この口で、目で、行いで、思いであなたのお名前を汚し、天から引きずり降ろしていました。
しかし、今からはこのように祈ります。主よ、どうか私に触れて私を聖め、新たな願いを授けてください。この唇が、手が、足が、思いが、あなたの御名を特別なものとし、御名を聖であるものとしてあがめるように、私を造り変えてください」。このように大胆に祈れと主イエスは教えておられます。神は、ご自身のその名を聖と示すために、私たちをも用いられるのです。
すると、まず私たちは他の名前を排除しなければなりません。敵対関係にある人の名前、上司や先輩の名前、あこがれの人の名前、恋人の名前、自分の立場や地位を表す名前。これらすべての名前から解き放たれ、ただ父なる神だけが特別な名としてほめたたえられることを願うのです。私たちではなく、あなたの御名こそが賛美されるように願うのです。全身でそれを願うのです。それは生まれながらの私たちには簡単にできることではありません。この祈りをもって、私たちは戦い取らなければならないのです。自分の名前の方にこだわってしまう私たち自身の傾向や性質を見つめ直し、きぜんと抵抗し、神のお名前にとことんこだわり続ける。その意味でこの祈りは、主の御名を聖いものとすることにいつも失敗している私たちを悔い改めに導く祈りです。そして、いつも新しく主の御名を呼び求めて生きるようにと招く祈りにもなります。このすぐ前の個所はマルタとマリアの話しでした。主の御名をあがめることを忘れ、自分の忙しさ、他人の行動を裁くことに没頭してしまったマルタや私たちを救い出すのもこの祈りです。「あなたのお名前が聖なるものとされますように」と祈ることで、私たちは、地に諸々ある名前の虜になっている状態から自由になるのです。
2.名前
次に、「名前」について見てまいりましょう。なぜ、イエスさまはここで「神が聖なるものとされますように」ではなく、「御名が聖なるものとされますように」と「御名=名前」について教えられたのでしょうか。「神」とか「主」だけではダメだったのでしょうか。これについて知るために、ここで実験してみましょう。たとえば、今日私は皆さんと初めて会ったとします。どんな会話から始めるでしょうか。おそらく「はじめまして。私は〇〇です」と言いますよね。そして「あなたのお名前は何でしょうか?」と聞きます。仮に私がずっと名前を言わなかったら少しずつ不安になり、疑問を抱き、この人は信頼関係を築こうとしない怪しい人物だと思うのではないでしょうか。「私を実際見ているのですから、名前なんていらないでしょう。匿名で付き合ってください」と言われても、絶対に断るでしょう。午後に、皆さんのお家のインターホンが鳴ってから、「はい」→「すみません、今少しお時間よろしいでしょうか」→「えっと、どちらさまですか」→「ちょっと名前は言えないのですが・・・」と言われたら、即座に通信を切断しますよね。名前を言ってくれない人は怪しいし、怖いものです。
それでも、現代は実名を伏せていろいろなことができる時代です。インターネットで流布される悪い評価やアンチコメントを書く人は、ほぼ匿名です。実名なんか出したら、自分が攻撃されてしまうからです。もちろん、匿名同士で良いやり取りをすることもできます。しかし匿名であれば、本当は誰なのか知られないまま過ごすことができます。ある日突然やめたり、消去したり、また別の匿名を使うこともできます。匿名では心底深いやり取りや、信頼関係を築くことができません。このように考えると、神が名前を持つ方だというのは私たちにとって良き知らせです。神は、私たちと深い関係を結びたいと願っておられるからです。そして、私たちも神の名前を呼んで過ごすのです。今月の手話賛美では「なんと麗しい名」「なんと素晴らしい名」「なんと力ある名」と繰り返し叫びます。実に、主の祈りで教えられている初めの願いにそって賛美しているのです。
私たちがたたえるから神が素晴らしくなるのはなく、神ご自身が素晴らしい、イエス・キリストが最上級に麗しいので、私たちは驚きと感動をもって「あなたの名は素晴らしい」と歌うのです。この世の不条理、不可解なこと、また自分自身の人生に起こること、思わぬ展開に困惑するとき、私たちは「あなたの御名が聖なるものとされますように」という祈りを思い起こします。そして、神がご自身の素晴らしさをここで示してくださることを期待し、求めるのです。ご一緒に、手話でも賛美してみましょう。「なんと麗しい」「なんと素晴らしい」「なんと力ある」「イエス・キリストの名は」と!
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
3.聖なるものとする生き方
「御名が聖なるものとされますように」は、私たちの今からの生き方に影響を与えます。イエスさまが、ただ祈りの言葉として弟子たちや私たちに教えておられるのではありません。このことを祈り求める者として生きることを望んでおられます。今朝のはじめに、これは「神がご自身のお名前を聖とする」という意味だと申し上げました。そして、私たちがこのことを祈ると、どうなるでしょう。私たちの願いは「神のお名前が賛美されること」なので、私たちもこの神の御名を背負って生きていくようになる、ということです。「いや、神の御名はあらゆる犯罪や極悪人によって汚されている」と言いたいかもしれません。けれども、普段から「神などいない。俺は神など信じていない」という人が悪事を働くのと、「私はクリスチャンです。イエス・キリストを信じています」という人が悪事の働くのとでは、どちらが神の御名がより汚されるでしょうか。極端なことを言えば、神を信じないと言っている人が3億円を強盗するよりも、クリスチャンがお菓子一個万引きする方が、より主の御名が汚されるのではないでしょうか。なぜなら、クリスチャンは主の御名を掲げて生きているからです。その者が犯す小さな罪は、大きく主の御名を汚すことになるのです。日常のあいさつや自己紹介の場で「私はクリスチャンなの」「教会に通っているよ」「聖書が愛読書です」「牧師なんですよ」と言う私たちが、同時に神を汚す言動をすることによって、周囲を失望させてしまう。これこそ、神の御名が汚される最大の要因です。その意味で、「主の祈り」は私たちにとって大きな意味をもたらします。
ただし、これは主の御名を汚さないという消極的な側面です。さらに進んで、積極的に主の御名を聖なるものとするために、どんなことができるでしょうか。それは、いつも主に感謝することです。どんな状況にあっても神ご自身をほめたたえることです。クリスチャンは、良いことがあったから主に感謝するのはもちろんのこと、たとえどんな状況に遭遇しても、神の愛は変わらないことに感謝する力が与えられています。有名な讃美歌に「安けさは川のごとく(It is well with my soul)」があります。その作者(スパフォード)は、弁護士として順調な人生を歩んでいましたが、ある日火事で全財産を失い、さらにその後、船の衝突事故で4人の娘を亡くし、妻から「自分だけが助かった」という電報を受け取りました。そうして妻を迎えに行く途中、ちょうど娘たちが亡くなった海の現場に案内されます。そのとき、聖霊が彼に働いて平安と歌詞を与えてくれました。そうして生まれたのが、かの賛美歌です。彼は娘たちを失った事に感謝したのではなく、最悪の嵐の中でも、神がともにいてくださること以上の平安はないことを知り、感謝の賛美をささげたのです。イエス・キリストが自分の罪を全部背負って死んでくださったという神の愛。地上でのどんな悲劇も、この神の愛から私たちを引き離すことはできないという確信は、彼だけでなく、福音を信じる私たちにも与えられている神からの力です。私たちはこの礼拝から各地に遣わされます。この小さな者を用いてくださる方、用いようと祝福してくださっている方のお名前がたたえられ聖なるものとされるために遣わされます。ともに、主の御名が何よりも素晴らしいとたたえられる地を広げましょう。■

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