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「主の祈り(3)」~御国に生きる~

ルカの福音書11章1-4節


  1. 祈るときに

今朝も「主の祈り」からみことばを味わいます。先週は「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように」という祈りを味わいました。はじめに「天」を見上げて「父」と呼び、さらに「御名が聖なるものとされますように」と神と私たち人間との関係、縦の軸をはっきりとさせるのが主の祈りの滑り出しです。神が聖であられ、唯一まことの神として礼拝され、賛美されることにまい進する祈りです。そして、今朝はその続き「御国が来ますように」です。神との縦の関係が築かれることを願ったその次は、私たちが生きるこの世界、横に拡がる地に御国が来ることを願います。石を池に投げるとその波紋が水面に拡がるように、神の支配と力とがこの地全域に行き渡るようにと祈り願っています。


この主の祈りは、イエスさまが教えられてから2千年間祈られ続けてきました。おそらく、一日もこの祈りが欠けたことはなかったでしょう。それでもこの世界はどうでしょうか。私たちの周りはどうなっているでしょうか。御国が来ていると断言できるでしょうか。いいえ、率直なところそうではないことばかりが増え広がっている気がします。この世界には戦争や内戦があり、気候変動による災害も多発し、多くの人の命が失われ、難民が発生し、富の不均衡による格差や飢餓も頻発しています。自分たちの力ではそういう悲惨な現実をどうすることもできない、大きく重い問題です。また、世界情勢に目を移さなくても、御国が遠いことは感じます。

私たちの誰一人として、人生の悩みや苦しみ、悼みや悲しみを経験しない人はいません。子どもの遊びでは「バリア!」と言えば敵の攻撃から身を守る秘技がありますが、現実はそうではないのです。私たちは「御国」とはほど遠い、苦しみの多いこの世界に住んでいます。そして、ここへ神の支配をもたらしてください、神の国の平安を与えてくださいと願うのです。少しむなくなりますか? 実に2千年間、世界中のクリスチャンが毎日祈っているのに、一向に神の支配は広がっていないように思えます。この願いは聞かれないのでしょうか。なぜ、そんな難しい祈りをイエスさまは教えられたのでしょう。


その理由を二つ見ます。一つは、絶えず祈ることを教えるためです。イエスさま自身、寂しいところに出て行き祈っておられました。たびたび「いつも祈るべきで、失望してはいけないことを教え」(ルカ18:1)られました。また「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)と言われました。イエスさまの望みは、ご自身の再臨のときまで私たちが祈り続けていることなのですね。そして絶えず祈るとは、まだ実現していないから祈り続けるということです。ジョージ・ミューラーは20歳で回心して孤児院を設立し、キリストの愛を伝え、実践した人です(彼の伝記をヒックス家から借りてようやく読み終えました)。彼の祈りについてたくさんの伝説がありますが、ミューラーは「神さま。聖書にこう書いてありますよね」とみことばをゆび指さして神に祈っていたそうです。また「神さまが友人の救いを私に祈らせているのだから、必ず答えてくださる」と確信をもって祈りました。そして「祈り始めるよりも、答えられるまで祈る」ことを重視しました。


もう一つの理由は、祈りには責任が伴うことを教えるためです。私が神学校時代、ある学生が夏の大会の実行委員長になりました。彼女が全然学業にやる気の出なかったとき、「ああ、神さま私にやる気を与えてください。そのためなら何でもします」と祈ったそうです。すると翌日、「夏の大会の委員をやってくれないか。委員長なんだけれど」と先生から声がかかりました。「ああ昨夜の祈りの答えだ」と分かったため、断れずに引き受け、そして「神さま。こういう祈りは即座に聞いてくださるんですね」と神に降参したそうです。「助けてください。何でもします」という責任を伴う祈りを、神は喜んで聞いてくださいます。私たちは祈り続ける忍耐と従う勇気をもって祈るように導かれています。


2.神の国

では、「御国が来ますように」で私たちが祈り続けるべき内容とは何でしょう。聖書全体に貫かれているテーマは「神の国」です。聖書は神の国がテーマであり、契約を軸にし、イエス・キリストを中心にして読むと迷いません。創世記にあるように、神は「光、あれ」とことばによって光と闇を分け、創造のわざを完成して「見よ、それは非常に良かった」と言われました。しかし、この世界の現実は闇で覆われたようになっています。「非常に良かった」のがかすんでしまうほどの混乱があります。

いったいその原因は何でしょうか。こうなっているのは神のせい、神の力不足なのでしょうか。いえ、これは私たち人間が「私の国」を作ろうと躍起になった結果です。罪とは神に背くこと、的を外して生きること、具体的には神のことばよりも自分の思いや考えに従うことであり、「神などいるものか」と考えて自分勝手に走ることです。自分が王のように、神のようになりたい。善悪の判断は自分で決めたい。自分の思いを優先したい。これが混乱の原因です。

こうして世界は暗やみ、闇の支配にいつも置かれているような所になりました。これのどこに御国があるのか、果たして神の国が来るのかと不信感を抱くこともあるかもしれません。


しかし、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)とみことばは語ります。光は闇の中に輝くだけではありません。光があれば絶対に闇を打ち消していきます。闇が持ち込まれれば光が負けて消える、という逆のことはありません。みことばの真理に照らすと、この世界の闇がどれだけ深くても、必ず光が打ち勝つのです。その光とは、イエス・キリストです。私たちが住んでいるこの世界は、まるで闇が支配し、その暗さや支配の領域は増しているように見えます。ですからここにイエス・キリストの光が射しこみ、闇を消していきますようにと、この祈りをささげるのです。そして私たちは、イエス・キリストにあって望みと確信を持つことができます。なぜならイエスさまは、十字架にかかって死ぬときでさえ「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)と祈り、人の罪とその行いを最後まで赦してくださる方だからです。赦しのない世界は闇であり、牢獄であり、地獄です。しかし、赦しのある世界は光であり、解放であり、御国です。イエス・キリストは人々にののしられ、兵士にムチで打たれ、弟子たちの裏切りにあい、不当な裁判をされ、この世でもっとも理不尽な扱いを受けられました。闇の中で父なる神に人の罪の赦しを祈り、そのためにご自身のいのち、それも最後のひと息まで犠牲にされました。この世の知恵は、自分で頑張れば救いに到達できる、自分の行いで救いに値する者になれると教えます。しかし神は、この世の知恵ある者、強い者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者を選ばれました。自分ではなく、身代わりとなられたイエス・キリストを誇るようにしてくださったのです。


遠藤周作の小説『沈黙』も同じテーマですよね(映画にもなっています)。何度も信仰を棄てて裏切るキチジローを、司祭であるロドリゴは軽べつしていましたが、いざ自分が踏み絵に足をかけるとき、その真鍮のキリストから「踏むがいい。お前の足の痛さをこのわたしが一番よく知っている。踏むがいい。わたしはお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」との声を聞きます。赦しとは、強い者ではなく分かっていてもやめられない弱い者、今度こそやめようと決心しても揺らいでしまう者の弱さを神が引き受けてくださることなのだと理解します。

そして、どんな弱い者、汚れた者にも最後には受け入れられる場所があり、赦してくれる神がおられることを知ります。これによってロドリゴは、以前には知る由もなかった深い救いと赦しを経験しました。そして、神は沈黙しているのではなく、自分の痛みも愚かさも分かった上で、ともにいてくださったと知ります。このように、イエス・キリストの赦しを受け取るところに御国はもたらされます。


3.御国が来る生き方

今朝のはじめに、「御国が来ますように」という祈りを実現するまで祈り続けることと、祈る者は自分の身をささげて祈るということを見ました。私たちは闇深く、ますます暗くなっていくこの世にあって、必ず神の国が到来することを信じて祈ります。今はその途上です。これまで2千年間、世界中の教会がこの祈りをささげてきました。そして今朝も祈っています。それは神とともに歩んだ信仰の証人たちが、この祈りを決してやめなかったからです。ですから、どれだけ昨日と代り映えしないと感じても、私たちでこの祈りをやめることはしません。今も、神の国の到来に向かって進んでいるのだからです。そして、私たち以降の世代にも、この希望と確信の祈りをつないでいきます。サタンは敗北者であり、主は勝利者です。そして、イエス・キリストの救いを受け入れた者は、圧倒的な勝利者です。しかしサタンは敗北者としてうなだれてはいません。まるで勝利者のように変装して近づいてきます。「神など信じても何もならないよ」「ほら、世界は悪い者の手中じゃないか。真面目に生きることや祈ることなんて何の意味もないよ」「キリストの再臨と神の国の到来? そんなおとぎ話みたいこと起こるわけないじゃん」とささやいてきます。あたかもそれが真実かのように、理性的で賢い判断かのように誘ってきます。しかし、「主のことばは永遠に立つ」(1ペテロ1:25)のだと私たちは告白します。「御国が来ますように」と祈り、告白し、そのとおり生きるのです。そして、私たちは御国が来ますようにと生きて証ししているたくさんの良いモデルにも恵まれています。この教会には複数の宣教師家族が仕えてくれています。イブ礼拝では多くの宣教師(一期目)がここに立って賛美してくれました。

彼らは自分たちの日本での生活を「失敗の連続です」と言います。日本語はうまく話せないし、会話は正確に聞き取れないし、間違ったことを言って笑われたり、誤解されてうまく関係が作れなかったりといったことを毎日経験しています。それは、彼らが母国を後にし、自分をささげ、正しいプライドを持って生活しているからです。日本人を愛する心が与えられ、イエス・キリストの素晴らしさのゆえに、彼らは以前のものよりも福岡に来ることを選びました。彼らの生き方そのものが「御国が来ますように」と祈った者の生き方です。神の国のために毎日ささげ続けています。私たちは彼らの生き方に倣い、励まし合い、ともに犠牲を払う生き方にあずかりたいのです。それは楽な生き方ではないですが、キリストを王とするもっとも名誉ある生き方です。朽ちない宝を天に積む生き方です。御国が来るように、キリストが王として来られるのにふさわしい私、ふさわしい私たち、ふさわしいこの地にしていきましょう。■


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