「主の祈り(4)」~御心に生きる~
- 大塚 史明 牧師

- 2月22日
- 読了時間: 9分
ルカの福音書11章1-4節
願いを持つ神
今朝は「主の祈り」の「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」を見てまいります。「みこころ」はクリスチャンの方はよく使ったり、聞いたりするでしょう。まだ「みこころ」になじみの薄い方もおられるでしょう。「みこころ=御心」は「願い=will」です。神ははっきりとした願いを持つ方です。私たちの関係において「will/意志」が最もその意味を発揮するのは「遺言状」です。遺言状には故人の意志がはっきり書かれます。私たちは、大切な人から遺言状を受け取るようにして、神の意志=みこころを行ってくださいと祈っているのですね。
なぜ、神のみこころが実現するように祈る、いえ、祈れるのでしょうか。それは神のご性質と関係があります。神が一番偉く、力と権威があったとしても、もし、悪いことを考える方であったら、私たちはそのみこころの実現を祈れません。自分にとって悪い事、神にとってだけ良いことが起こってしまうからです。しかし、聖書が示す神は善であり、愛であり、全能です。つまり、なんでもお出来になるけれども、その力を悪い事には決して使わない方です。神に一つだけできないことがあるとすれば、それは罪を犯すことです。神は完璧な義、完全な善であり、悪を行えません。そのような神なので、私たちはみこころが行われますようにと祈れるのです。
インドネシアで宣教師だった先生が、現地の人の特徴を教えてくださいました。インドネシアは87%がイスラム教徒です。彼らは敬虔で一日5度の祈りを欠かしません。けれど、彼らには平安がありません。彼らは、運命はすべて神が決めていて、人間は努力によってその運命にたどり着かないといけないと考えているそうです。善行と悪行によって来世が決まるので、戒律を守ることに必死です。また、寿命が決まっているので、それに近づく誕生日はお祝いしないそうです。彼らは、常に自分の人生がどうなるのか恐れて過ごしています。そのため、イスラム教でも禁じられている占いが流行し、魔除けアイテムもたくさん売られているそうです。こうした現象は、神が善であることを彼らが教えられていないことから来るものです。
聖書は神が善であり、義であると教えています。「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ」(詩篇19:7)。神はその意志を聖書に完全に記し、私たちのしぼんだたましい、恐れる心を取りのぞいてくださる方です。ここに違いがあります。現象や心配にとらわれずに解放されて生きる道が、私たちに示されています。その神のみこころとは何か。今朝は次の二つのことを握りましょう。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)。第一の神のみこころは、すべての人が救われて真理を知ることです。次に「わたしの心だ。きよくなれ」(ルカ5:13、他に1ペテロ1:15)とあるように、第二のみこころは、キリストの救いにあずかった者がきよい生き方をすることです。これら二つ、すなわち人間の救いときよい生き方が神のみこころです。主の祈りではこのみこころが実現するように願っています。
2.救い
では一つ目のみこころについて見てまいりましょう。神はすべての人の救いを願っておられます。それではなぜ、この世界に災害や事故が起こるのか、善である神がそれらを止められないのか?と考えるのは自然です。もちろん、人間の自由意志によって引き起こされる事件もあります。それらは人間のせいだと言ってもよいのですが、それさえも「神は悪人を制御できないのか」「神は罪を犯そうとする者の心を変えられないのか」と、私たちは神に疑問をぶつけたくなるのです。神は、そんな私たちのすべての祈りや叫びの声に耳を傾けてくださっています。ここで神の立場になって考えてみましょう。神は世界の歴史と現在、そして未来の全権をつかさどっておられます。私たちであれば、プレッシャーで気が変になってしまうに違いありません。しかも、善であり、義である神のご性質と反することが世でたびたび起こっています。こんな中で、全知全能の神は、すべてのことを必ず救いにつなげて歴史を導かれます。旧約聖書の創世記で起こったことを振り返ってみましょう。兄弟たちは実に10人で結託し、悪を企みました。彼らはヨセフを殺す寸前で思いとどまるもミディアンの隊商に売り飛ばし、父ヤコブにはウソの報告をしました。彼らはただ弟ヨセフのことが憎かったのです。その計画は乱暴で、感情的。そのゴールはヨセフの存在を消し去ってしまうことでした。しかし神は、エジプトに売られたヨセフを大臣とし、後に兄弟や一家を助ける者とされました。神は、すべてのことを救いにつなげることがおできになるのです。ヨセフもこのように言っています。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」(創世記50:20)。まさに、全知全能の神とはこのことです。
これとは対照的に、私たちの持つ「願い」の先に救いはありません。もし、世界があなたの思う通りになったとしたら、今よりも良くなるでしょうか? 「はい、もちろん!」と自信を持って答えられる方もいるでしょうし、ちょっと分からないなあと不安になる方もおられるでしょう。いや、もしあなたの願いが今実現したとしたら、目の前から誰かが消えてしまうことだってあるかもしれません! 他の人の思い通りになったら、あなたの存在が消されるかもしれません・・・。人間の思いは底知れず深い闇があるのです。それを考えると、今日もすべての人を治め、忍耐し、キリストの救いを人々が受け取ることを願ってすべてを働かせておられる神はすごいとしか言えません。主は偉大だと賛美するしかありません。身の回りに起こっている不可解なこと、あの人の救いは無理だとあきらめていること、また外の世界で嘆きたくなることがあっても、主のみこころである善いこと=救いにつなげてくださる約束を握りましょう。
すべての人間は神からの救いが必要です。それを知るために、最初の人間、アダムとエバの出来事を振り返ります。彼らは自由意志を使って神のみこころを避け、神の命令に背き、何が善で何が悪かを自分たちで判断するようになりました。そうして、死と罪と混乱をこの世界に招きました。神のみこころではなく、自分の意志を一番にする思いに駆られて行動したからです。神のみこころよりも、自分の心に従うことを選んだのです。その結果、人は罪に支配され、死に脅かされるものとなってしまいました。
罪に毒された人間から出る意志は、善にはなり得ません。主の道は完全であったのに、わざわざそこから離れて自分の道、すなわち不完全な道を好んで選んだのです。こうして、私たちの本性は罪によりねじれ、ゆがんでしまいました。やりたいことをした結果、罪と死が蔓延する世界を作り上げてしまいました。古代エジプトの時代から、人は不老不死を実現しようと努力や研究や実践を重ねてきました。しかし、今に至るまで誰一人として死を克服した者はいません。どれだけ頑張っても、技術が進歩しても、その願いは実現していません。これは、私たち人間の意志によっては決して救いがないことの証拠です。そして、ただ一人死を克服した方、いえ、死に勝利した方がおられます。その方こそ、イエス・キリストです。何と麗しく、何と素晴らしく、何と力ある方でしょう。すべてにまさる名、それがイエス・キリストです。
そして、そんな罪と死を背負う私たち人間が救われるために、イエス・キリストは十字架についてくださいました。イエスさまにとって、十字架はもっとも選びたくない、従いたくない命令でした。父なる神から示された、耐えられないほど厳しいみこころでした。神に見捨てられるという重いものでした。誰もそんなみこころを歓迎できる人、受け取れる人はいません。だからイエスさまも血がにじむような祈りをしました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)。人類史上、もっとも従いにくいみこころが十字架なのです。そんな十字架を、イエスさまは罪人である私たちの代わりに背負ってくださいました。イエスさまは苦しみ、悲しみながらも最後は「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイ26:39)と祈り、みこころに従うことを選ばれました。そうして、すべての人が救われる道を切り開いてくださったのです。今、キリストの十字架と復活を信じる者が罪に定められることはありません。また、どんな苦難も病もキリストの愛から私たちを引き離すことはできません。
「私の思いではなく、みこころが行われますように」と祈る時、主イエス・キリストが父なる神のみこころに従って、私たちの救いのために十字架の死へと歩んでくださった恵みを、私たちは実感できるのです。自分の力ではどうすることもできない苦しみの中で生きるのが私たちの人生です。自分の意志や願いの通りになることなどそう多くはありません。そんなことばかりを求めているなら、人生は苦しみや悲しみ、うらみつらみ、神に対するつぶやきや不信感だらけになります。そんな中、私たちは自分の思いや願いから目を離して、主イエス・キリストの十字架によって示された神の深い愛とご計画を仰いで、「みこころが行われますように」と祈れるのです。
3.聖い生き方
結びに、二つ目のみこころ、聖い生き方について見ましょう。よく「みこころの職業、みこころの進路、みこころの結婚相手」と言われます。今朝、何時に起きましたか? それはみこころの起床時間でしょうか。教会へは何で来ましたか? それはみこころの移動手段でしょうか。お昼には何を食べるつもりですか?みこころのランチセットを注文しますか? そんなことを突き詰めていくと、とても窮屈ですね。神は私たちに自由を与えてくださっています。何時に起きるか、何を食べるかは聖書にも記されていませんから自由です。ただし、食べ方には神の栄光を現す方法があります。食べ放題で大量に残すのは、明らかにみこころではありません。また授業をさぼってまで寝るのはみこころではありません。「おかあさんといっしょ」という番組があります(これもそのうち時代に影響されて番組名が変わるかもしれません)。それで言えば、「イエスさまといっしょ」が私たちクリスチャンのコンセプトです。何がみこころか、何が聖い生き方かはイエスさまといっしょに過ごしていればかなえられていきます。イエスさまといっしょであればちゃんとみこころへ導かれていきます。イエスさまといっしょなら勉強に励めます。イエスさまといっしょなら罪悪感なく休憩できます。イエスさまといっしょなら謝れます。イエスさまといっしょなら悪に染まりません。そして、イエスさまがいっしょなら、すべての人が救われるように、イエス・キリストの救いを受け取ることができるように願い、そのように生きるようになります。
どうか主の救いを人々が見るために、ここにいる私たちを用いてください。私たちが人間の願いや意志で必死になり、神のみこころを損ない、盲目になることがありませんように。
すべての人の救いと聖く生きるというみこころに姿勢を定め、互いに励まし合い、この道をまっとうしましょう。今日から、ここから。■

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