「永遠の救い」
- 大塚 史明 牧師

- 3月29日
- 読了時間: 9分
へブル人への手紙10章11-14節
後悔したなら
今年2回目の聖餐礼拝となります。今年のテーマは「罪の赦し」です。聖書が教える罪とは、いわゆる犯罪とは違います。聖書の罪とか罪人は、その罪が人の基準ではなく、神の基準によるものだと知っておくことが大切です。1月の聖餐礼拝では「罪を大元から考える」ことについて話しました(スライドの図で思い出してください)。悪い事をする、いじわるをする、盗む、壊す、殺すという行為は現れた罪ですが、それらはねたむ、憎むといった心の中にある隠れた罪から生み出されたものです。人間のなす悪はすべて神から離れて背を向け、神に従わずに反逆し、自分の思ったように生きたい、善悪を自分で決めたい、自分を正しいとして生きたいという罪が根本になっています。
本来、私たちはいのちの創造主である神とともに生きる者です。私たち人間はみな神によって造られたので、どこかで神を意識しています。私の恩師はそのことを「神と人とは切っても切れない関係にある」と教えています。「神のことなど忘れよう」「神などいない!」と意気込んでも、人の悪口を言えば心はすっきりせず、どこかでズキズキし、悪事がばれるのに心臓がドキドキしたり、死を恐れたりします。もし、自分の思うことがすべてであり正しいのであれば、悪い行為や考えをしたとしても、肯定して生きていられるはずです。動揺もせず、罪の意識に悩まされず、不安や恐れも感じないはずです。しかし、私たちは神の存在やまなざしを完全に忘れられません。悪い事をすれば心から危険信号が出るからです。
「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント7:10)
このみことばは、私たち人間は誰しも「悲しみ」を覚える存在だと教えています。神の存在を信じている人も信じていない人も罪の悲しみを覚えます。(人によって程度の差はあれど)悪い事をすれば責任を感じるし、ひどいことを言われれば悲しみます。自分の取った行動、自分の言った言葉に責任を感じ、人に言われたことされたことで悲しむのが私たち人間だからです。これらは神が与えてくれた危険信号なのです。そしてこの聖句は、さらに深く考えるように導いています。それは、私たちが罪責感や不安や悲しみを感じるとき、どのように処理するかについてです。ここには二つの方法が書かれています。一つは「神のみこころに添った悲しみ」であり、もう一つは「世の悲しみ」です。
自分が犯した罪や他の人から犯された罪による悲しみを、私たちはどちらかの方法で処理しています。「神のみこころに添った悲しみ」とは、たとえば「人に迷惑をかけてしまった」「あんなこと言わなければよかった」という悲しみの根底で、「私は神の前では罪ある者だ」と覚えることです。常に大元に立ち返るのです。そして「世の悲しみ」とは、神を考慮にいれない処理方法です。こんなことを聞くと、「いや、人に対して悪い事をしたなら、神などに謝らなくてもいいから、まず本人に謝罪しないとダメでしょ!」と思うのも当然かもしれません。
そこで「世の悲しみ」を実践した人を聖書から見てみます。
「そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し・・・出て行って首をつった」(マタイ27:3-5)。イエスさまを裏切ったイスカリオテのユダの話です。ユダは罪責感のない人ではありませんでした。イエスさまを裏切りましたが、イエスさまが死刑になったと知り、とてつもなく後悔し、罪を悲しんだのです。そして、報酬である銀貨三十枚を投げ返しました。ユダは「私は無実の人を売って罪を犯しました」としっかり告白しましたが、それを聞いた指導者たちは「われわれの知ったことか。自分で始末することだ(=自己責任)」(27:4)と突き放しました。ユダが言っていることと悲しんでいることは正しいことでした。イエスさまを売ったことを後悔し、「罪のない方を売り飛ばして、私は罪を犯しました」と言っているからです。しかし、その処理の方法は「自己責任」という形でした。指導者たちにそう言われたユダは首をつって死んだのです。彼の後悔は正しいことでしたが、その解決方法は間違っていました。神を考慮に入れないで解決しようとしたからです。それではいくら後悔しても、罪責感は晴れず、自らの死を選ばざるを得ないほど追い詰められて終わるのです。「世の悲しみは死をもたらします」と書かれている通りです。自分を責め、自分を追い詰め、心が壊れ、いのちを断ってしまう。神を認めないところで罪の責任を取る、決着を付けるのは、世の中では当然の法則です。その結果、ユダが選んだのは「死」でした。しかし、これでは希望がありません。聖書は、もう1つの処理の仕方を教えています。それは「神のみこころに添った悲しみ」の方法です。
2.罪のいけにえ
この方法は「後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせる」とあります。先ほどの「死」とは正反対ですね。もし私たちが罪の責任を感じるならば、神を考慮に入れた取り扱いをした方が絶対に良いのです。神の定められた方法が「いけにえ」でした。今朝のへブル人への手紙10:11-14にはそのことが記されています。そこには祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、いけにえを献げたとあります。旧約聖書には「いけにえ」の規定が事細かに定められています。「いけにえ」とは、私たち人間の罪が赦されるための規定です。「いけにえ」と聞くととても残酷に聞こえますが、それは神が定めた罪の赦しの方法なのです。聖なる神は罪をそのまま見過ごせませんが、愛でもある神は罪人をさばくのではなく、救うことを計画してくださいました。そのため、罪を犯した本人ではなく、身代わりとなるいけにえの規定を定めてくださったのです。これは、世界中で罪が横行し、すべての罪人のいのちを取り上げていたら誰もいなくなってしまうから、神が慌てて作ったルールではありません。実に、最初の人間であるアダムとエバが罪を犯して逃げ隠れたときから、いけにえがあったのです。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた」創世記3:21。これは神が皮製品を買ってくれたという意味ではなく、アダムとエバの罪と恥(裸)を覆うために動物を犠牲にされたということです。神は、初めから人間が犯した罪を自己責任で追い詰めるのではなく、いけにえを用意してその罪を赦し、本来の神と人との関係に引き戻そうとしてくださるお方なのです。
「いけにえ」にされたのは羊や牛といった動物たちです。大事に育てた家畜の血が流される凄惨な光景に、ここまでしなければらならないのか・・・という思いを持ったことでしょう。しかし、目の前でいのちを取られる動物を見て、罪はいのちに関わる問題だということを知るのです。いのちが殺さなければならないほど、自分の犯した罪の代償は大きいということを嫌でも知らされるのです。さらにはそのとてつもなく大きく深刻な罪が、身代わりのいけにえによって赦されることを教えるものなのです。そのために神は動物のいけにえの規定を定め、人々はそれを礼拝行為として守り行っていました。
さて、2026年3月現在、世界中のクリスチャンはいけにえをささげていません。仮に毎週私たちが教会に集まっていけにえをささげているとしたら、なんか気持ち悪いですし、動物愛護団体に知られたら確実にクレームが来る案件です。実は、旧約聖書で定められている傷のない雄牛とか子羊のいけにえは、ある方のひな形でした。そのある方とはイエス・キリストです。いけにえをささげるとき、人は自分の手を動物の頭の上に置き、罪を告白しました。それは自分の罪の責任をこの動物に転嫁させるためです。そうして人の罪を負った羊や山羊は、いけにえとしてほふられます。レビ記では、その人自身でいけにえの息の根を止めるように記されています。自分自身の罪のためにこの動物が死ぬのだということを自覚させるためです。しかし、同時に確実に自分の罪は転嫁され、自らの責任はこれ以上負わなくてもよいこと=赦しと解放をも実感することができました。
「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」とのみことばは真実です。罪の責任を自分で全部負い、死んで償うのは希望がありません。神を考慮に入れない後悔は人を死に追いやることを先ほどのユダの箇所で見ました。ここには、それと正反対の救いの道がはっきりと示されています。罪の責めはいけにえが負う。そして、そのいけにえは毎日ささげられていましたが、やがて本物のいけにえがささげられる。神のときが来て、イエス・キリストは私たちの罪の責めを負い十字架上でいのちをささげた。これが聖書の教える福音です。「キリストは、罪のために一つのいけにえを献げ・・・永遠に完成され」ました(へブル10:12,14)。
それまでは人間の罪のいけにえは動物でしたが、ついに聖いまことの人間であるイエス・キリストが十字架にかかられました。人間がいけにえとなったので、以降は動物のいけにえをささげる必要がなくなりました。私たちの罪の赦しのための一度限りの完全ないけにえとして、イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。一度限りで完全な救いを達成されたので、私たちの過去、現在、将来の罪すべてを赦すことがおできになります。罪と死に対する勝利の救いはキリストの十字架以外にありません。これは後にも先にも同じです。完全で永遠の救いがここにあります。イエスさまが、すべての人の罪を背負い、罪の問題を解決済みにしてくださったのです。
3.罪を取りのぞかれた者として
私たちは罪を赦す完全ないけにえを用意できません。
どんな高価な宝石も良い行いもいけにえになりません。また、自分の罪を自己責任で処理するのは世の悲しみの方法です。それとは対照的に、神は愛とあわれみに満ち、私たちを悔い改めと救いに導いておられます。そして、私たち人類を完全に赦すいけにえをご自身で用意してくださいました。それがイエス・キリストです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)。
イエス・キリストの十字架を、私はこの目で見たわけではありません。ただ歴史的事実として伝えられています。そして、その意味が聖書には記されています。罪なき正しい方であるキリストこそ神が備えてくださった完全ないけにえであり、十字架での死こそが、神が計画された身代わりの死でした。その流された血は、本来ならば罪を犯した本人である私たちが流すべきものでした。これからお配りする杯はイエス・キリストが流された血を表し、それを飲むことで自らの罪の赦しを確信できます。この聖餐式をもって、キリストの流された血は罪の赦しのためであったことを認め、受け取り、確信いたしましょう。ここに救いの道は完成しています。
私たちの努力や自己責任によってではなく、キリストの犠牲と愛によって罪は赦されます。キリストは十字架で「完了した」と言われました。一度きりの完全ないけにえにより、救いのためのみわざは完了しています。自分で自分を責める生き方や、 罪を隠す生き方をする必要はありません。私たちは、神のみこころに添って悲しみましょう。後悔のない、救いに至る悔い改めを心に持ち、永遠の救いをいただきましょう。■

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