「主の祈り」~天にいます私たちの父よ~
- 大塚 史明 牧師

- 2月1日
- 読了時間: 10分
ルカの福音書11章1-4節
天にいます
本日から「主の祈り」をシリーズで見てまいります。ルカの福音書では11章2-4節、全文はマタイの福音書6章9-13節にあります。はがきサイズで印刷して皆さんにお渡ししていますので、聖書に挟むなどして参照、活用されてください。もしかしたら3月半ばまで続くかもしれませんが、主の祈りの文言だけでなく、内容もしっかりとつかめるように備えてまいりますのでよろしくお願いします。
最近は「これだけは知っておきたい〇〇」とか「〇〇に必要な5つのこと」みたいな表題の本が並んでいますが、それに合わせれば「これだけは知っておきたい聖書の教え」に必ず入るのが、この「主の祈り」です。実際、キリスト教会ではこの主の祈りと十戒、使徒信条を「三要文(さんようもん)」として重んじてきました。
今朝の始まりの箇所を見ると、「主の祈りがどうして教えられたのか」がわかります。「イエスはある場所で祈っておられ・・・祈りが終わると、弟子の一人が・・・『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』」(1節)と尋ねます。それで、イエスさまは「祈るときには、こう言いなさい」と教えてくださいました。「祈り」をイメージすると、静まる、瞑想・黙想することを想像するかもしれません。しかし、祈りは瞑想とは違います。祈りは、自分以外の存在、自分の外に向かうことが前提であり、瞑想は自分の中で考え、自分の声を聞く作業だからです。黙想は冷静になり考えを整理するための助けになるかもしれませんが、それ以上のことは起こりません。対照的に、「祈り」は自分以外の存在、自分の外に向かいます。
祈りには「対象」が必要です。また、その対象がどのような方であるのかを知ることが重要です。だれも、自分が信用していない人に心を打ち明けません。「この人なら話しても大丈夫」と信頼してこそ、胸の内を明かすことができます。そして、主の祈りの始まりでまず教えられているのは、祈りに向かう対象がいかに素晴らしい神であるかです。ルカ11章では「父よ、御名が~」で始まっていますが、主の祈り全体を学ぶために、マタイ6章を見ながら進みましょう。
「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)。これがイエスさまの教えられた祈りの始まりです。私たちは「天にいます」方に祈るのです。祈りが自分の内ではなく外に向かうのと同様に、祈りの対象はこの地や地下、空間、また天空でもありません。祈りは「天に」向けて始まり、「天と」接続するのです。これは、私たちがスマートフォンやパソコンの設定をするのに似ています。通信機器を買うと、初めに設定をしなければなりません。自分の名前、使う言語を入力し、インターネットの接続準備をします。それらを入力して設定が完了すると、「これで使える」とホッとします。最近は説明書もほとんどありませんし、周りは知っていそうな人ばかりで、自分だけが機械音痴なのかなと取り残された気持ちにもなります。スマホを買っても使えなければ、大変なストレスです。設定と接続までしてくれる専門業者に、「どうか、つなぎ方を教えてください」と頼み込むのも納得できます。同じように、ここで「私たちにも祈りを教えてください」と申し出た弟子は偉い!と思います。初期設定ができない、接続方法が分からないから助けてと代弁してくれている気がします。
「天にいます」方へ祈ることで、地上の目線でしか生きていない私たちの視野を「天に」向けさせ、地上のもので縛られている私たちを「天と」接続させてくれます。この地上には、私たちを引っ張るさまざま曖昧な情報があります。中には役立つものもあれば間違った情報もあり、目や耳にすることで自分を傷つけ、心を沈ませる言葉があります。そうやって乱され、散り散りばらばらにされた私たちの思いが「天に」引っ張られます。それが「天にいます」という祈りです。
さて、「天に」おられる神に祈るとは、なんだか随分遠くにおられるといった印象を持つでしょうか。自分の声など届かない気になってしまうかもしれません。そこで一つ紹介したいみことばがあります。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む」(イザヤ57:15)。確かに、神は私たちのように空間や時間に縛られる方ではありません。永遠であり、無限であり、全能であり、姿かたちもなく、時空に縛られてもいません。どんなものにも影響されません。神はご自身だけで存在することのできる唯一の方です。私たち人間とは何もかもが違います。偉大過ぎて想像もつかないくらいの素晴らしい方です。だから「わたしは、高く聖なる所に住み」と私たちと決定的、絶対的に違うことが初めに強調されます。しかし、このイザヤ書にあるように「砕かれた人、へりくだった人とともに」住んでくださる方です。私たちの人生には、理解できないこと、さまざまな疑問や悩み、苦しみや悲しみが満ちています。どうすることも出来ない状況にも陥ります。しかし、「天にいます」方に祈り始めるとき、その神が倒れそうな小さな者とともにいてくださることは、とてつもない慰めです。「天にいます」方への祈りは、開かれた人生を歩むための第一声となります。
2.父よ
次は「父よ」です。偉大な「天にいます」方を「父」と呼ぶ。これがイエスさまの教えられた祈りでした。「父」と呼べるのは、「子」だけです。今は曲がった倫理観の世界なので、「パパ活(援助交際)」という語も悪びれることなく使われたりしますが、本来「父」と呼ぶことは「子」だけに許された特権です。そして、天にいます神に対して「父」と呼ぶことのできる方は、そのひとり子であるイエス・キリストだけです。おそらく、この呼びかけを聞いた弟子たちは腰を抜かすほど驚いたか、神を軽んじる恐れを抱いたことでしょう。それまでそのように祈った人も、教えた人も誰一人としていませんでした。旧約聖書の詩篇はすべて祈り・賛美です。その中にも「父よ」と記しているものは一つもありません。「主」「神」「あなた」「いと高き方」「全能者」などです。ギリギリ「父がその子をあわれむように」(詩103:13)「母親とともにいるように」(131:2)とありますが、それはあくまでたとえであり、直接神をそう呼んでいるわけではありません。
しかし、イエスさまは天にいます神を「父」と呼んで祈りなさいと教えられました。それは、イエスさま自身が父なる神と永遠にともにおられ、完全な愛と交わりの中に生きておられたその関係を私たちにもたらしてくださるためです。本来、イエスさまだけが、神である方と一緒にいること、この方を父と呼ぶことにふさわしいのです。しかし、今や「その名(キリスト)を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えに」なりました(ヨハネ1:12)。それゆえ、イエスさまを救い主と信じる今の私たちには、神を「父」と呼んで慕うことのほうがふさわしいのです。
むしろ、恐れて遠く離れる必要はなくなりました。父と子が遠く離れていたら、それはとても変な感じです。このときイエスさまはアラム語を話されたとされています。アラム語で、父は「アバ」と言います(マルコ14:36、ローマ8:15)。幼い子が初めてでも発話しやすい音としても知られています。実際、私がイスラエル旅行へ行った際にも、ある店の前で男の子がおもちゃをねだっていて、一緒にいた父親に「アバ~」とお願いしていたのが印象に残っています。「あ、本当に言うんだ」と知って嬉しくなりました。イエスさまは、そんな普通の言葉を「天にいます」方、全能の神に向かって使いなさいと教えられたのです。「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)とも言われた通り、私たちは皆、イエスさまのおかげで神を父として呼ぶことができるようになりました。
またある人は次のような疑問を抱きます。「私のお父さんは大酒飲みのギャンブル狂、ひどい人でした。ついには家を出て行って、それ以来会っていません。神さまがお父さんと言われても、悪いイメージにしかなりません」「父は私を叩いて育てました。きっと神さまも厳しく恐い方なのですね」、と。しかし、聖書は神が男性であることを教えるために父としているのでも、地上の親の最上級が天の父なる神だと教えているのでもありません。子に対する威厳、子を養う責任、子への教育、子への愛、そして子を赦すこと。これらはすべて父に与えられている責任です。地上の父親や家庭はこれらのことが完璧にできませんが、天にいます神は、まるで父のようにあなたと接し、あなたを扱ってくださるのです。そして、あなたも天の神を父として信頼し、駆け寄り、抱き上げられて良いのだと教えているのです。
人生の中で父親や家庭に傷つけられてきた。そのような人にこそ、「天にいます父」の存在、そう呼ぶことのできる本当の父と交わりが救いの始まりになります。この呼びかけによって、そうした傷も癒され始めていくからです。
3.私たちの
さらに、よく見ると「天にいます私たちの父よ」となっています。「私の父」でもよさそうですが、「私たちの父」と呼ぶのです。これこそ、教会であり、クリスチャンだなと思います。「私たちの父よ」は、今ここに集っているあなたが肯定されている言葉です。そして、あなただけでなく、隣に座っている人を肯定する言葉です。さらに、ここにいる全員を肯定する言葉です。気が合う・合わない、教会歴が短い・長い、交わりが浅い・深いは関係ありません。「私とAさんとの父であって、Bさんは違う・・・」ではないのです。ここにおられるすべての者を含めて、一緒に「私たちの父よ」と賛美し、祈るのです。「私たちの父よ」と言えるのは、父なる神が一人ひとりをえこひいきなく、差をつけることなく神の子どもとして愛しておられるからです。
キリスト教信仰は、究極的には個人の信仰です。誰かがあなたの救いのために信じてあげることはできません。また、あなたも誰かのかわりに信じてあげることもできません。誰かのためにたくさん信じ、その人にあなたの信仰を分けてあげることはできません。しかし、誰かのために祈ることはできます。その人のために祈ることはできます。「天にいます私たちの父よ」とは、あなたが誰かのために祈ることを励ますものです。
そして、このことはあなたがどれだけ祈られてきたか、祈られているのかをも実感させてくれます。私たちの教会には祈りのグループがあり、祈祷シートが発行されています。これらは「私たちの父よ」の実践です。あなたが祈るとき、あなたは祈られてもいる。そうして「私たちの父よ」と呼んで、父なる神を中心とした交わりの中に生きていることを味わうのです。クリスチャン人生は、孤立して続けてはいけません。個人のディボーションや祈りは大切にしつつも、教会という神の子どもたちの集まりの中で養われ、育まれ、支えられ、成長していくのです。
私自身は神の恵みによって四代目のクリスチャン、三代目の牧師となりました。私が24歳で回心した際、神は多くのことを教えてくださいました。神は私のために計画を持っておられること。その計画は、私が生まれる前から神が立てていてくださったものでした。そして神が、現在まで導いてくださったのだと知りました。クリスチャンの家庭に生まれたこと、いらないのに親からのプレゼントが聖書だったこと、初めてのアルバイトはクリスチャン宿泊施設だったこと、両親が教会で出会ったこと、祖父母が未開の地飛騨高山で伝道者として労したこと、曾祖母が広島の海岸で宣教師から福音を聞いたこと・・・まさしく、皆さんと一緒に「天にいます私たちの父」と言える恵みです。皆さん一人ひとりにも「私たちの父」が導き、紡いでくださっている物語があるでしょう。
祈りの始まりは「父」の救いの始まりであり、「父」との交わりの始まりです。地上にまつわるいっさいの束縛を脇において「天」を仰ぎましょう。日々傷つき愛を求める私たちには、「天にいます私たちの父」がおられます。祈れない弱さを覚え、祈りの言葉が出てこなくても、祈り合える「私たち」が与えられています。この恵みの世界にともに住まいましょう。■

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