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「主の祈り(7)」~試みにあわせず~

4月26日
読了時間: 9分

聖書 ルカの福音書11:1-4


  1. 試み:試練と誘惑

本日は「主の祈り」シリーズの最終回になります。(主の祈り本文の結びになる「国と力と栄えとは~」については今週のコラムを参照してください)。今日の箇所は「私たちを試みにあわせず、悪からお救いください」です。イエスさまは私たちが「試みにあわないように祈りなさい」と教えられました。神は祈りを聞いてくださるお方ですから、試みにあわないように祈れば、試練にはいっさいあわなくなるのでしょうか? そう期待された方はごめんなさい。これは「クリスチャンになれば、どんな試練にもあわない」という意味ではないのです。無神論者であっても、クリスチャンであっても、その人に「試練」は立ち起こります。人生において起こる諸問題、つまり病気、経済的困難、事故、人間関係のもつれ、学校や職場でのプレッシャーは誰にでもつきまとうものです。クリスチャンになってから一度も風邪をひかないとか、一回も失敗しなくなった人はいません。むしろ、聖書を読むと、神を信じた者は苦難をたくさん経験していることがわかります。「神がアブラハムを試練にあわせられた」(創世記22:1)とはっきり書かれています。神は試練にあわせるお方なのです! また「神は・・・あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ・・・試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(第一コリント10:13)も有名で好まれる箇所です。ここも神は試練にあわせないではなく、「耐えられない試練にあわせない」とあります。試練自体はあるもの、当然起こるもの、そしてむしろ良いものとして聖書は教えています。それは試練によって人は磨かれるからです。

「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり・・・」(第一ペテロ1:7)とあるように、試練は私たちをより鍛え、より高め、より誉れある者として造り変えてくれるものなのです。これが聖書における試練の意味です。


ではここで「試みにあわせないで」と祈るのはどんな意味でしょう。実は、「試み」という語は二つの言葉に訳されます。一つが「試練」、もう一つは「誘惑」です。そうです、ここでは「私たちを誘惑にあわせないで」と祈っているのですね。そのことは次に「悪からお救いください」と続くことからもわかります。試練は人間に歓迎されませんが、神が試練を用いられるので悪ではありません。しかし、誘惑は悪です。誘惑は罪を犯す機会を提供し、欲を膨らませて爆発させるものだからです。試練は耐えぬいて乗り越えると強められる機会ですが、誘惑は霊的ないのちを奪い、神に従うことをやめさせ、罪を犯した自分自身をあきらめさせる装置となり得ます。他の箇所でもイエスさまは「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(ルカ22:40)と言われました。誘惑には祈って対抗し、イエス・キリストに従い通すことで打ち勝つことができます。ある牧師はこのように紹介しました。次の空白に当てはまるのはどんな言葉が想像してみてください。「誘惑は〇〇〇〇最大のチャンス」(スライドを参照)。

よく「ピンチはチャンス」と言いますが、ここでは「誘惑は~最大のチャンス」です。答えは・・・「誘惑は神に従う最大のチャンス」です。本当だと同意されるでしょうか。

誰でも誘惑の攻撃を受けます。イエスさまご自身も荒野で誘惑を受けられ、その他人生もろもろの誘惑にあわれたと聖書が証言しています(へブル2:18、4:15)。そして、イエスさまだけは「誘惑にあっても罪を犯され」ませんでした(1ペテロ2:22)。悪魔は誘惑して罪を犯す機会をたくさん提供してきます。イエスさまにまで近づいて石をパンに変えさせよう、神を試させよう、栄華を見せ偶像礼拝させようとしましたが、いずれもイエスさまは退けられました。イエスさまは誘惑にあわれましたが、罪は犯されませんでした。この点が私たちと決定的に違います。

イエスさまを含めて人間誰しもが誘惑を受けます。しかし、その誘惑に負けず、常に勝利されたのはイエス・キリストただお一人。このお方が、自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。だからこそ、私たちはイエスさまを救い主として賛美し、礼拝します。私たちの代わりに義を打ち立ててくださったからです。


そして、私たちが誘惑されたとき、また誘惑されているなと気づいたとき、このイエスさまの力によってのみ勝利できます。しかし、百戦百勝ではありません。祈りは呪文や魔除けでもないので、祈ってもなお誘惑にさらされ、攻撃を受け、負けることも多々あります。イエスさまはそんな私たちの弱さをご存じなので、「試みにあわせないでください」と祈りなさいと教えられました。私たちは誘惑にさらされることもあり、また負けることもある。だから「私たちを試みにあわせず、悪からお救いください」と祈る必要があるのです。


2.強さと弱さ


さて、私たちは誘惑されると罪を犯してしまう弱さがあります。ここにいる全員がそうです。聖書を読んだから、昔の罪人の教訓を得たから、牧師だから、長く信仰生活を送っているから、最近教会に来始めたばかりだからといって、誰かが罪を犯さなくなることはありません。犯罪行為のような大きなものでなくても、ズルをして得したり、小さな嘘で自分を守ったり、陰口を言って相手をおとしめたり、仮病を使って逃げたりします。素直に人の成功を喜べなかったり、反対に人の不幸を願ったりもします。私たちはいつも弱さをまとっているので、機会があればコロンといともたやすく悪に傾いて罪を犯してしまうのです。それは悪魔の策略であり、悪魔を喜ばせる生き方です。主の弟子やクリスチャンが罪を犯すことほど、サタンが喜ぶことはありません。では誘惑に勝利する秘訣は何でしょうか。一つ目のステップは、私たちが自分の弱さをしっかりと認めることです。20世紀にもっとも多くの人に福音を語ったとされるのはビリー・グラハムという伝道師です。彼のそばにはルース夫人がいつもいて、働きを支えていました。ある時、報道陣がルース夫人に「世界中を飛び回る夫ビリーを支えるのは光栄だと思いますが、同時に大変なのではないでしょうか。失礼ですが、これまで離婚しようと考えたことはありますか?」と尋ねました。すると彼女は「いいえ。離婚を考えたことは一度もありません」ときっぱり答えます。周囲が感心していると、彼女が続けた言葉に一瞬その場が凍り、後に笑いが起きました。「だけど、殺したいと思ったことは何度もあります」。

これはルース夫人のユーモアある回答です。そして、自分の弱さを認めている立派な返答でもあります。私たち人間は誰も誘惑から自由ではありません。罪を犯した数や犯さなかった数には違いがあり、大きく重い罪や比較的小さく軽い罪の差はあるでしょう。しかし、誰も誘惑を受けない人、自分には欲がないから大丈夫と言える人はいないのです。それを自分で認めていることは、恥ずべきことでも隠すことでもありません。認めた上で、自分は誘惑に弱いので、罪を犯させる機会を与えないでくださいと祈り願うことが大切なのです。


その弱さは、同時に、主にある強さとなって現れます。それは主が「わたしの力は(あなたの)弱さのうちに完全に現れる」と言われるからです。パウロはのことばを受けて、「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と応答しました。そしてさらに「私が弱いときにこそ、私は強い」と言い切っています(第二コリント12:9⁻10)。弱さがあるところに、主は働かれます。自分は大丈夫、神なんかいらない、頼る必要がない、祈りなんて無意味・・・そうして自分で強がるところに主は働かれません。主は高ぶるものには敵対し、へりくだった者には恵みを与える方だからです。自らの弱さを知ってそれを認め、主の前に明らかにし、時間を取って祈り、みことばの実現を求めるところには主が喜んで介入し、働いてくださいます。私たちは完璧を目指すよりも、近づいてくださる主に気づきたいと願います。また、人に完璧を求めるよりも、主がその人を取り扱ってくださるように応援し、エールを送りたいと願います。これらのことは、世の常識から外れています。世の中では短所を隠し、長所を目立たせることを知恵とします。世の中では、自分が有能であることをアピールして、よく見せるための努力をします。世の中では、外面的な地位や名誉、影響力が強いことこそ力であり、弱いことは無能で役立たず、ということです。


しかし、「キリストの力」が発揮されるのは「弱さ」においてです。またそれは、弱さのあるところならどこでも自動的にキリストの力が働くという意味ではありません。この「弱さ」とは、自分で認めた「弱さ」です。自分の力により頼むことをやめ、自分の弱さを認めることで、キリストの力を体験するのです。弱さを覚えるとき、自分には何かが足りない、やっぱり自分はダメだと思います。けれども、そこで「あなたの力ではなく、わたしの力が発揮されるから喜びなさい」と神の御声がするのに気づけるのです。世の中では損とされる弱さを受け止め、そこに現れるキリストの力を喜ぶのが、主を信じる者の幸いな生き方です。


3.私たちで


このシリーズの結びに改めて目を留めたいことがあります。主の祈りの後半の三つ=「日ごとの糧」「罪の赦し」「試みにあわせず」は個人ではなく「私たち」で祈っているということです。

「私だけ赦してください」「私だけ悪から守ってください」「私だけスイーツをください」と祈ってはいません。すべて「私たち」です。それは日ごとの糧も、罪の赦しも、誘惑からの守りも私たち=教会で支え合って実現するからです。私が訪れたい場所の一つがアメリカの西海岸カリフォルニア州です。海があり、野球やバスケで有名なチームの本拠地ですが、私が訪れたいのは「セコイア国立公園」です。スライドを見てください。これはジャイアントセコイアと言われる世界で一番大きな木(生命体)です。人や車のサイズを見るとその異常な大きさがわかります。この木はとっても丈夫で、どんな雨嵐にも倒されることがないそうです。また、すごく高いので自らが避雷針となり時々山火事を起こして他の種子を全滅させ、そこから新しいセコイアの芽を出させることでも知られています。さて、この木が倒されない理由・・・それは「根」になります。しかし、根を深く張るから倒れないのではありません。この木の根は地中2メートルくらいの深さまでしかないのですが、横に広がる特徴があり、隣のセコイアの根と絡み合うから強いのだそうです。そうしてお互いを支え合うので、一本のセコイアを抜こうとしたらその森全体を引き抜かないといけないことになります。そんなことは無理なのでこの木は育ち続けます。これは、「私たち」と祈るときの大きなヒント、励ましになります。私たちを誰も引き抜くことはできません。なぜなら、一人ひとりは弱くとも、互いに支え合っているからです。これは「私は弱くとも、主は強い」を体現します。このことを知るとき、自分が教会に置かれている意味が俄然大きくなります。このような真の生きがいを共に味わい歩んでまいりましょう。


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