「恵みと知識」
聖書 ペテロの手紙第Ⅱ 3章18節
1. 恵み~救いと確信~
本日より今年の聖句とテーマのシリーズを開始します。
「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(Ⅱペテロ3:18)
手紙の結びの一節ですが、福音の内容が詰まっています。初回は「恵みと知識」に焦点を当てます。
「恵み」は、①辞書(広辞苑)で恩恵やいつくしみ、②聖書で神による救済、と定義されています。聖書で「恵み」が使われている箇所は300を超えます。礼拝や祈りでもよく聞きます。私たちの教会の名前にもなっています。また、「アメージング・グレイス(驚くべき恵み)」は世界で最も有名な讃美歌の一つです。「恵み」がよく用いられるのは、この語がキリスト教の特徴を言い表しているからとも言えます。
「恵みとは、受けるに値しない者に施される愛である」と覚えておくと、聖書を正しく理解する助けになります。もう少し詳しく見ていきましょう。旧約聖書で「恵み」は、契約を守る誠実さ、神の不変の愛を意味します(例:第二サムエル9章、ヨナ書4章)。「恵み」によって神は、相手の価値や状態にかかわらず一方的に結んだ約束を完全に守られます。こんなことは神しかできません。人間は心変わりしたり、相手の状態によって約束を破棄したりするのが常だからです。そうした神の驚くべき恵みを知り、体験できるのが聖書です。新約聖書で「恵み(カリス)」は救いの文脈で多く使われ、意味は「贈り物(フリーギフト)」です。そのことを最もよく表している一節を紹介します。
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)
聖書は「恵みのゆえに(理由)、ただ信仰によって(手段)救われる」と教えています。重要なことは二つです。
一つ目、私たちは行いによって救いを達成できません。どれだけ善行に励んでも不可能です。なぜなら人間は、神と正しさで並ぶことはできないからです。私たちが神の正しさを知れば知るほど、自分は救いから遠いことを知らされます。反対に神を何とも思わなかったり、少し悪いくらいなら大目に見てくれるだろうと救いの基準を下げれば、自分は救いを達成していると思えるかもしれませんが、お勧めしません。救いは人の基準ではなく、神の基準で考えるべき事柄だからです。また、私たちの行いだけでなく、ことばや心の思い、動機もすべて正しくなければ神には認められません。小学生の頃、私は「鳥人間コンテスト」という番組が好きでした。これだけは時間制限なく親が見せてくれた記憶があります。学生や科学者が緻密な計算と設計で人力で飛べるものを作り、助走をつけてびわ湖へ飛び出し距離を競うものです。子どもの工作のようなものから本物のプロペラ機のようなものまでありました。一番歓声と悲鳴が上がるのは立派に組み立てたチームが派手に墜落し、それまでの努力が水の泡になる光景です。人間はどれだけ努力しても、鳥よりも上手に高く、遠く、正確に飛ぶことはできない現実に打ち砕かれるのです。これは、救いに関しても同じことを教えている例だと思います。鳥のように自由自在に飛べない私たちであれば、ましてその鳥を造られた神に並び立つことなど、夢のまた夢です。
行いがダメなら、わいろや貢ぎ物で救いを買うことができるでしょうか? いいえ、それも不可能です。もし、救いがお金や宝物で買えるとしたら、キリストの十字架は無意味になってしまいます。それは「イエスさま、あなたの十字架は余計なお世話です」「私には私の考えと方法がありますから、それで救いを用意します」と言っているようなものです。私たちの無駄な頑張りで、せっかくのキリストの十字架を無意味にしてはなりません。
二つ目、私たちは恵みによらなければ救われません。恵みとは、それを受けるに値しない者に与えられるものです。自分に正直になって考えてみてください。私たちは救いに値するほど正しくもなく、救いを達成できるほど勤勉でもありません。だから、救いは「恵み」によって与えられるのです。私たちの側には自分を救う手立てがないので、神はただ恵みによって救いを与えてくださるのです。恵みは、私たちから誇りとプライドを排除します。自分に救われる理由はまったくないと認める人だけが恵みを受けるからです。「自分は正しくないからこそ救われた」とうなずくのが神の恵みの正しい理解です。スライドをご覧ください。「恵み」は世の中の商品にも使われています。
自然食品の宣伝では「無添加」「純国産」「100%植物性」で恵みを表しています。これも恵みによる救いの理解の助けになります。余分なものが入っていたら恵みが台無しだからです。何も付け加えないことこそ、この商品の売りです。同じように恵みによる救いは、行いは不使用、努力は無添加、100%十字架です。救われたのは自分の行いではなく神の恵みによると確認できるので、救いに関する心配や不安を、私たちは心から追い出すことができるのです。もし、行いで救いが達成されるのであれば、教会は「自慢話をする者や自信家の集まり」です。「自分はこんなことをした」「これは私のおかげなんだから」「あんなこともできない人がなんでいるの・・・」など自慢や攻撃の場所であったなら、魅力どころか嫌悪しか感じません。また、そんな教会を神は喜ばれません。恵みだからこそ、誰も自らを誇らず、キリストをたたえることができるのです。
2.知識~学びと感謝~
その恵みと並んで挙げられているのが、知識です。これは意外な気もします。救いは恵みと言っておきながら、知識が大事だと間髪入れず語るからです。この知識とは、神を知る知識です。たとえば「私だけが幻で神さまを見た」とか、「イエスさまが夢に現れて天国を見せてくれた」というのは個人的な体験であって、本人以外にはよくわかりません。しかし、「知識」は誰もが共通して手にできます。個人の体験談ではなく、人々が把握できる知識として、イエス・キリストの知識を得ることが大切です。
それでは、「イエス・キリストの知識において成長しなさい」とはどういうことでしょうか。私たちが何かを知ろうとする場合、その対象が「モノ」であるか「人(人格を持った存在)」であるかで違ってきます。「モノ」であれば、私たちがそのモノをさわり、測ったりして知ることができます。私の身長、体重、血圧や体温を測ったり、MRIで撮影をすれば大方のことはわかります。しかし、それは「モノ」を知る方法です。私は「モノ」ではなく、「人格を持った存在」なので、別の方法で知る必要があります。たとえば、私と時間を過ごしたり、対話をしたり、色々なことを一緒にすることで知ることができます。インターネットで検索すれば私の顔や履いている靴などをロシアの人も知ることができますが、私が優しくて謙虚であるとか、繊細で品のあることは(たとえば、です♪)、私と一緒に過ごした人でなければ知ることができません。これが人格ある相手を知る必要な方法です。
「イエス・キリストの知識」と言う場合も同様です。私たちがイエスさまの顔や髪型を調べるよりも、イエスさまが何を語り、何をし、何を望んでおられるのかを知ることの方がはるかに重要なのです。それによって、私たちはキリストがどのような方なのかを知るからです。さらに、自分以外の人を知ろうとする場合、その関心の寄せ方にも気をつけなければなりません。たとえば、私たちは初対面の人に家賃や年収を聞くことはしません。友人であっても一生聞かない内容だってあるでしょう。それは疎遠だからではなく、相手との関係を大切にし、失礼に当たらないように接するからです。
人格を持つ存在を知ろうとする場合、ちゃんとした気づかいや配慮は欠かせません。有名人や話題の事件容疑者に対して突撃取材をしたり、疑いながら探るのは、興味本位で知ろうとするだけだからです。私たちがイエス・キリストを知ろうとするとき、モノを知ろうとするような測り方や芸能人を見るような姿勢であってはなりません。もっとも大切な人を知るような態度で、イエス・キリストを知るために近づきたいのです。それを表している一つが、この礼拝です。イエスさまを崇めるために、イエスさまを愛するために、イエスさまを知って親しくなるために賛美をささげ、みことばを学びたいと願います。
3.成長
この聖句の動詞は「成長しなさい」です。「成長しなさい」という命令形には少したじろぎますが、詳しくつなげると「恵みの中で成長しなさい」「知識の中で成長しなさい」と綴られています。つまり、成長するための環境に身を置きなさいということです。成長に関する聖句には次のものがあります。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(第一コリント3:6)
「成長させたのは神」ですが、そのための環境をパウロやアポロが整えていました。また、この場合はコリント教会のクリスチャンたちが、その環境に身を置き続けたので、神が彼らを成長させてくださいました。これを私たち福岡めぐみ教会に置き換えてみましょう。もちろん、宣教師や牧師も伝道や学びを準備し、リードします。しかし、それだけでなくゴスペルハウスがあり、エステル会があります。また、個人で聖書を毎日読む取り組みをしたり、中学生クラスでも聖書通読を励まし合っています。成長のためには、まず、このような環境の中に身を置くことが肝要です。礼拝や教会の集いから距離を取らないようにしましょう。「ちょっと気が乗らないな」「今週は仕事が忙しかったから」「なんだか誰とも会いたくない気分・・・」。人間ですから、ふとそんな思いが頭をよぎることもありますが、そんなときほど成長させてくださる神に従ってみてください。私たちは恵みによって救われました。しかし、恵みのもとで生きることは要請される。そこが成長する場所だからです。
1990年代に砂漠地帯のアリゾナ州であらゆる植物や食物を育てる温室を作ることになりました。バイオスフィア2(生物圏の意味。1は地球なので、あえて2と付けた)と呼ばれるそのプロジェクトは、スライドにあるように巨大な建物の中に完璧な土壌と光と水を備えていました。実験が始まると、ある程度までは成長するのに、その後バタバタと植物が倒れてしまいました。すべてが完璧でしたが、一つだけ自然界と違ったものがありました。それは「風」です。室内には風が吹き込まないので、成長が止まってしまうことがわかりました。風は植物にとって逆風となる厳しい環境ですが、そこでこそ強められ、支えられていることがわかったのです。私たちにもあるときには風が強く吹き付けるときがあるでしょう。けれども、その中でこそ神は私たちを成長させてくださることを覚えましょう。


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