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「主は与え、主は取られる」

聖書 ヨハネ12:20-26


  1. 先立つ主

一つ目は、主は私たちに先立ち、壁を壊してくださる方だということです。今朝の始まり20‐23節をご覧ください。エルサレムの町は「祭りで礼拝のために上って来た人々」でいっぱいでした。祭り=過ぎ越しの祭りのためには、毎年近くから遠くから多くの人々がエルサレム神殿を目ざしてやって来ます。旧約聖書詩篇の120~134篇は「都上りの歌」と題されていて、人々はこれを歌いながら旅を続けました。あこがれのエルサレム神殿で礼拝をささげるためです。


そして、ここで主イエスと出会うのは「ギリシャ人」です。「何人か」とあるので、それほど数は多くありません。おそらく数人のです。そして、エルサレム神殿にはユダヤ人しか入ることのできないエリアがあり、異邦人はそれ以上立ち入ることができないようにされていました。神殿の敷地には、外庭の「異邦人の庭」というゾーンが造られ、ユダヤ人の入ることができる内庭との間には「隔ての壁」が立てられていました(参照:スライドの図)。彼らはまずピリポのところに来て「イエスにお目にかかりたいのです」(21節)と頼みました。私が牧師になりたてのころ、先輩牧師から教えられた話がります。その先生がある教会に招かれました。だいたい、牧師は外部で招かれると少し気持ちが大きく?楽に?なるものです。ある意味、得意な聖書箇所からお話することができるからですね。そして、その先生が講壇に立ったとき、講壇の縁にこの聖句が彫られていたそうです。「イエスにお目にかかりたいのです」。それを見て、この礼拝に来ている人たちが「イエスに出会うことができるように」語らなければ何の意味もないと、恐れをもってご自身の襟を正したそうです。私も、この話を聞いてから、毎回、礼拝メッセージでは礼拝する皆さんが「イエスにお目にかかることができる」ことを使命として臨んでいます。


そうすると、この聖書の場面は、私たちの状況とも似ています。私たちもユダヤ人から見れば異邦人です。私たちも何人かの集まりです。日本で毎週日曜にキリスト教会で礼拝をしに来る人は、人口の0.4%とも言われています。単純計算で250人に1人。学校全体で数人、グループ会社でも数人、親族では一人みたいな計算になります。これに当てはまる方もおられるでしょう。


そんな圧倒的少数の礼拝者を、主イエスは正面から出会ってくださいます。どんなに周囲が大人数のお祭り騒ぎであっても、ユダヤ人だけの主ではなく、異邦人の主でもあります。隔ての壁がそびえ立っていても、どんな障壁があっても、私たちが「イエスにお目にかかりたいのです」という願いは届きます。

祭りで多くの人がにぎわっている中にあるたった数人の異邦人の願いを、主イエスは聞いてくださいます。圧倒的少数であっても、主イエスにお目にかかることができる、主イエスに出会えるのが、礼拝の醍醐味です。毎週の礼拝が、こうした期待と熱気に満ちたものになりますように、求めてまいりましょう。


そんな彼らに対する第一声は「人の子(=イエス)が栄光の時を受ける時が来ました」です。実は、ヨハネの福音書は「時」が一つのキーワードです(2:4,7:6;30,8:20)。これまでずっと「わたしの時は来ていません」と言い続けておられたのに、ここで「栄光を受ける時が来ました」とはっきり宣言されました。この直前に、ろばの子に乗っ

が主イエスは、「ホサナ」と大勢の群衆に大声で賛美されながら、エルサレムに入られました(12:12-13)。場面としたらそのときの方が「わたしが栄光を受ける時がきました」と言うのにふさわしいように思います。しかし、この数人の異邦人たちに向かって「わたしの時が来た」と言われたのは、主イエスがそれまで張り巡らされていたすべての隔ての壁を壊し、和解がもたらされ、新しい時代が到来することを表しています。


2.与える主

二つ目は、主はご自身のいのちを私たちに与えてくださった方だということです。「まことに、まことに」とアーメンを重ねて話されます。これは重大なメッセージが続くことの枕詞です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(24節)。一粒の麦が地に蒔かれることもなく、空を破ることもなければ、ずっとそのままです。そのままでいられるけれども、一粒は一粒のまま。しかし、地に落ちて死ぬなら、豊かな実を結びます。この場合の死ぬとは、麦が地に落ちて最初の姿を失い、地中から芽を出し上に葉を茂らせ、やがて実をつけていくことです。豊かな実りがあるけれども、最初の一粒の麦の姿はどこにも見当たりません。麦が麦のまま、種が種のままであり続けるなら、実を結ぶことはないのです。


主イエスは栄光を受けるために、この麦と同じようにご自身は死ななければならないことを教えるたとえです。主イエスが十字架にかかって死ぬことによって、人々には豊かな実がもたらされます。それこそ、主の受けられる栄光です。そして、麦が死んで新しい実を結ぶように、主イエスも十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえられます。主イエスが死ぬことは、復活して永遠のいのちを持つ者として生まれることまでを含んでいます。もし、主イエスが私たちの身代わりに死んだだけであったら、それは悲劇です。十字架のあとに復活がなければ、女性たちは涙を流したまま、弟子たちは逃げて隠れたまま、その後の人生をずっと過ごすことになりました。

しかし、主イエスは復活され、女性たちは最初の目撃者となり、弟子たちはイエスが救い主であることを証言して各地を回りました。たとえ迫害されても、石を投げられても、牢屋に引かれても、その証言を取り下げることはありませんでした。それは、弟子たちが復活のイエスを信じることによって、新しく生まれ変わったからです。


そのために、まず主イエスが「一粒の麦が・・・死ぬなら、豊かな実を結びます」というみことば通りに、十字架で死なれました。なぜ、十字架からおりなかったのでしょうか。主イエスが十字架につけられていた場面で、おなじことを考えていた人がいました。彼らは「今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう」(マルコ15:32)と言ってののしります。はりつけにされていた十字架からおりるなら、そのわざを見て神の御子だと信じてやれるのに、という考えです。


究極的に考えれば、十字架からおりることは、人間にもできることかもしれません。脱出の仕掛けをしておいたり、釘で打たれたよう芝居をし、傷だらけの特殊メイクをしたら、十字架からおりることは可能です。しかし、絶対に不可能なのは、はりつけにされた十字架からおりないことです。釘で打たれた手足は穴が開くほどの傷をつけられ、わき腹は槍で刺され、頭はいばらのとげが食い込み、身体の重みで息をすることもままなりません。

しかも、それが自分の犯した罪のせいであれば、罰として受けることは仕方ありません。実際、隣にいた犯罪人は、自分がその刑罰を受けて当然だと受け入れています。しかし、イエス・キリストは正しく罪を犯したことがなかったにもかかわらず、十字架につけられました。また弟子たちには裏切られ、人々にはののしられ、つばをかけられ、兵士たちからはからかわれています。一つの励ましも向けられず、一つの同情もなく、ご自身に敵対する罪深い者たちのせいで十字架につけられています。これを耐え忍ぶことができるのは、人間にはいません。罪人のために最後まで十字架からおりないことは、イエス・キリストしかできないことです。


そして、これこそ神の愛だと、聖書は教えています。いつかこの愛がわかるようにと信頼して、キリストは死なれました。この福音を聞いたあなたはどのように応答するでしょうか。十字架は人の悲惨な結末を示しています。ただ自分の罪を背負って死ぬだけでは希望がありません。しかし、主イエスのつけられた十字架は神の愛を示しています。なぜなら、キリストはあなたの身代わりに十字架にかけられたからです。あなたが受けて当然の刑罰を、罪なきキリストが受けておられます。そして、十字架は、唯一の希望と救いを示しています。なぜなら、自分の努力や行いでは罪の赦しは達成できないからです。キリストの十字架しか、罪の赦しの方法はありません。


3.招く主

三つ目、主イエスは私たちをご自分の生き方に続くように招かれる方だということです。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(25節)。一粒の麦のたとえをより具体的に展開しています。この節には「いのち」が3回出てきますが、実は最初の2回の「自分のいのち」と最後は「永遠のいのち」では違う語が使われています。これらはそれぞれ質が違ういのちです。地上のいのちは生きている人間だれしもが持っているいのちです。しかし、永遠のいのちはイエス・キリストを信じる者に与えられるいのちです。


「自分のいのちを愛する」か「自分のいのちを憎む」かが「永遠のいのち」に至るか、至らないかの分かれ目になると言っています。聖書で「愛する」と「憎む」が同時に出て来るとき、感情的な好き嫌いを意味するのではなく、どちらか一方を「選ぶ」という意味で使われます(例:ローマ9:13)。この場合の愛するとは「自分自身を選ぶ」「いつも自分の考えを選び取る」という生き方です。反対に、「自分のいのちを憎む」とは、自己評価を低くするという意味ではなく、自分自身を明け渡し、主を選ぶということです。それで「永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(17:3)と教えています。

つまり、永遠のいのちとは、私たちが神とキリストとの関係を築いていくということです。単に時間が長く続くいのちという意味だけではありません。関係を深めるいのちです。聖書を通して神さまと時間を過ごしたり、礼拝の中で神がともにいることを味わったり、教会の交わりを通して神の恵みを感じたりして養われていきます。


今朝の聖餐礼拝で、ますます知りたいのは、イエス・キリストの十字架に示された愛です。十字架を見ることによって、私たちは永遠のいのち=神の愛に生きる素晴らしさがわかってきます。まさに、キリストは地上でご自身のいのちを最優先して愛することをせず、地に落ちる麦のようになることを選ばれたので、十字架につけられ死なれました。もし、キリストがこの世で自分のいのちを愛しておられたら(選び、最優先する)、豊かな実を結ぶことはありませんでした。イエスを救い主として信じる者は起こされず、賛美もされず、栄光を受けることはありませんでした。しかし、キリストが自分のいのちを憎み、死なれたことにより、愛が明らかにされました。


私たちはどこまでいっても自分自身をかわいがり、自分を愛し、自分をまず守るものです。それは「自分のいのちを愛する」生き方そのものであり、それでは永遠のいのちに至りません。神の愛を知らないまま、本当のいのちの使い方を知らないまま過ごすことだからです。

しかし、私たちが自分のいのちを憎む生き方、すなわち、キリストのためにいのちを使うなら、永遠のいのちに至ります。主イエスが、どのような思いで、どのような深い愛をもって私たちを愛してくださったかを知ることで、私たちは自分に死んで、主のために生きることができるようになります。


もちろん、いのちは大切です。大切だからこそ、ムダ使いしたり、空しいものや間違ったものにいのちを費やすことがないようにと願います。いのちは大切なものに使うから大切なのです。主イエスは、ご自分のいのちを十字架の上で使ってくださいました。主イエスはいのちをささげることで、愛を表してくださいました。まるで麦が地に落ちるように、ご自分を無にして、死なれました。私たちは、キリストがいのちをささげてくださったほどに、愛されている存在です。


今度は、私たちが応答する番です。あなたは、キリストの愛にいかに答えますか?あなたのいのちの使い方は、本当にそれでいいのでしょうか?いのちの使い方がわかるといのちの大切さを知るようになります。そのいのちとは、イエス・キリストの愛に満たされ、イエス・キリストを愛するために使うことでもっとも輝きます。死んでいた者が生き返り、新しく生まれ変わった者として立ち上がることができます。


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