「五つのパンと二匹の魚」
- 大塚 史明 牧師

- 8月17日
- 読了時間: 8分
聖書 ルカの福音書9章10-17節
報告と休息
今朝は有名な五つのパンと二匹の魚の奇跡の箇所ですが、これには文脈があります。まず見てまいりましょう。「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した」(10節)。イエスさまが十二弟子を宣教の働きに遣わしたのが先週見たところです。そうして彼らが帰って来て報告をしました。「すべて」とありますので宣教の場での成功も失敗もイエスさまに話したことがわかります。私たちも、この夏にアリエルやレイチェル、リッチモンドの教会チームを迎えました。彼らも帰国して家族や教会に報告をしたことでしょう。また、次週にはAll Togetherがあります。教会全体と各部とで話し合いをしますが、それは単に困りごとや相談だけではなく、宣教の報告を聞く場でもあります。奉仕の難しさ、大変さ、報われた喜び、関係の引き継ぎ、今後の課題や心配事などを知るのですね。「イエスさまのお役に立てた」これが私たちの何にもまさる喜びです。イエスさまも弟子たちと報告会をされたことから、これがとても大切であることが分かります。福岡めぐみ教会も同様です。週報や掲示板の各部の報告も大切ですので、ぜひお目通しください。人間は自分が見聞きしたことは記憶に残り、祈りにつながり、やってみようかなとか自分でも大丈夫かな(自分にもできるかな?)と責任を持つようになるからです。こうした報告の時を逃してしまうと、何となく機会は過ぎ、誰かがやるだろうとスルーし、あっという間に季節や一年が過ぎてしまいます。それは実りある働きとは言えません。ぜひ、イエスさまにならって教会の取り組みに関心を持ち、イエスさまの体として共に歩んでまいりましょう。そこではすべて=色々分かち合うことができます。教会は抱えている荷物をおろし、気持ちも整理し、再び歩き出す力も与えられる場所です。
「それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた」(10節)。弟子たちの報告を聞いてくださったイエスさまが次に提案されたのは「休む」ことでした。「ひそかに退かれた」とあるので、目まぐるしい宣教の現場や働きの現実から離れて、普段の人とも会わないようにするという時間と場所をわざわざ設けられました。働き続けること、エンジンをかけてアクセルを踏み続けることは良くないと示されていますね。神さまも疲れや欠乏を知らない方であるのに、六日間創造のわざをなし、七日目は休まれました。そして、その七日目を祝福をされました。すべてを創造したのと同じ力を使って、祝福されたのですから、適切な休みを取る、休息の場を設けることは、そこで大いに神さまの祝福を受け取るということです。仕事場や日常の場を離れることに罪悪感や置いてけぼり、焦りや不安を感じるとしたら、神さまの設けられた基準からズレているのだということを認識しましょう。仕えることと休息すること、動くことと静まること、人といることと離れること、出て行くことと退くこと。これらを神さまの基準できちんと取れるようにと願います。
どっちで一致するか
そうして休み場で過ごそうとしたところ、群衆たちがそこにも押しかけてきました。しかし、「イエスは彼らを喜んで迎え」(11節)ました。せっかくの休暇が台なしとなった弟子たちは、イライラしたり、落胆したのではないでしょうか。イエスさまもイエスさまです。全知全能の神であれば、弟子たちとベツサイダへ退いても、その後人々がやって来ることはわかっていたはずです。それなのに、そこに弟子たちを誘い、連れて行かれました。いったいどのようなお考え、つもりだったのでしょうか。決して意地悪やがっかりさせようとして、そうなさったのではありません。きっと、ここでしかできない、そのときにしかできない特別な経験を弟子たちにさせるためです。しかし、それが弟子たちにも、私たちにも分かるのはもう少し話が進んでからになります。
「日が傾き始めたので・・・群衆を解散させてください」(12節)と弟子たちが言いました。おそらく一日中働いたのです。そろそろ体力と我慢の限界を迎えるころです。次から次へと対応しなければならない人たちに仕え続けて、弟子たちは疲労困憊です。それで、夕方になったのでもう解散させる時間だと、イエスさまに申し出たのです。ここで注目したいのは「十二人はみもとに来て言った」ことです。これは、使徒たちの全員がイエスさまのもとへ行って願い出たことでした。
どういうことかと言うと、十二人が口を合わせてイエスさまのところに相談に行ったということです。ここで私が皆さんに、「今、疲れている人」「今、たい焼きを食べたい人」と聞いても全員が同じ気持ちになることはほとんどないかと思います。お互いに示し合わせたり、どんなつもりかを聞かなければ、全員いっしょの意見にはなりません。ここで「十二人は」とあるのは、弟子たちが互いに話し合って、一致した意見を持ち出したのです。
「ねえねえ、もう僕たち働きすぎじゃない?」「もうやめたいんだけど」「イエスさま、今日はリトリートだって言ってたよね。それなのに、何これ」とつぶやく弟子もいたでしょう。反対に「いやあ、やっぱいつでも働いてないと」「だんだんドーパミンが出て来てハイになって来た~」と力みなぎる弟子もいたかもしれません。色々な意見がある中で、「もうこのまま徹夜だ!イエスさまの行かれるところまで行きます!」という意見にはまとまりませんでした。そうなったらなったで、イエスさまが休むように止めてくださったかもしれませんが(♪)。ここで十二人が「もう解散させてください」と一斉に申し出たのには、「君もそう思わない?」「みんな解散させたいって言ってるよ」と意見をすり合わせた事前準備がありました。私たちが、意見を形成して一致を目指していくときに、どんな過程をたどるか大事だと教えられると同時に、どんな意見もイエスさまは受け止め、用いてくださるのを信じられるのも幸いですね。
神に差し出すなら
こうした前置きがあり、五つのパンと二匹の魚の出来事へと展開していきます。弟子たちは群衆を解散させてくれるように頼んだのですが、イエスさまは「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」(13節)と突き返されます。これに対し、弟子たちは「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません」(13節)と答えます。イエスさまは、弟子たちに「〇〇しかありません」「私たちには無理です」と言わせるために、あえて質問されたようにも思えます。弟子たちはそこに何人いるのか(男だけで五千人)、食料がどれだけあるのか(わずかなパンと魚)を瞬時に答えています。ずっとソワソワ心配だったからですね。解散もしてくれない、それに加えて人々に食べる物を与えろ、なんて無茶・・・と日が傾いて暗くなる広場で途方に暮れる弟子たちの心境が見て取れます。
このように、目の前の物事の大きさや持ち合わせのなさにどんどん心が奪われていってしまうのは、私たちも共感できます。問題や試練があると、昼も夜もその大きさばかりを数えてしまい、食事が喉を通りません。解決の手段が自分になく、歯が立たない弱さに気を取られて、睡眠に害を及ぼすほどの影響を受けてしまいます。こういう現実にぶつかってなお、目の前にイエスさまがおられる現実に目ざめることが、より大きなことではないでしょうか。イエスさまがおられることに気づくのです。
これにまさる発見はないのだよ、とこの個所から教えられます。そうしてイエスさまは「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせ・・・五つのパンと二匹の魚を取り・・・お与えに」なりました。神をほめたたえて祈りながら裂いたそのパンは、人々が満腹になっても尽きることがありませんでした。
十二のかごに余るパン。これは計算違いではなく神の恵みの偉大さです。イエスさまと私たち人間とでは、不足しているものを見たときの反応がまったく違います。弟子たちは「これだけしかありません」と乏しさを嘆きました。イエスさまは「天を見上げて、それらのゆえに神をほめたたえ」ました。私たちの手にあるものがイエスさまの御手に渡されると、大いなることが起こります。
私たちはとにかく「自信がない」「これでは無理」「関わらないで解散させよう」「私にやれと言うのですか」と小ささ、足りなさ、欠け、つぶやきが出てきます。しかし、イエスさまは「それらのゆえに」神をほめたたえ、みわざを起こしてくださいます。それは、「素晴らしいイエスさまに手渡した」からですね。拒否せず、否定せず、見下さず、受け取り、感謝し、分け与え、用い、祝福してくださる。この食事の奇跡は、天からパンを降らせたのではなく、1人の少年がささげたものを用いて引き起こされました(ヨハネ6:9)。ここに大きな励まし、意味があると思います。イエスさまは、私たちからのささげものを受け取り、祝福し、用いてくださる方です。
私たちが奉仕するときも、受験やテスト、勉強するときも、家事や身の回りのことをするときも、職場で仕事をするときも、自分にあるものをイエスさまに手渡す。これこそが最強の道です。すべてのみわざはそこから始まるからです。もし、このことを怠るなら、私たちはいつも足りなさを数え、不足におびえて過ごすしかありません。自分の力で何とかし、自分の知恵で切り抜けるしかありません。しかし、それではすぐに限界に達します。神経はすり減り、心はささくれ、言葉は鋭くなるばかりです。
私たちが目の前におられるイエスさまを見つめ、わずかであったとしても持てるものすべてをこの方に手渡すなら、イエスさまはそれを喜んで受け取り、私たちと隣人の祝福のために用いてくださいます。これを体験させるために、イエスさまは弟子たちにしばらく退こうではないか、と言われました。体力的には厳しかったかもしれませんが、忘れえぬ経験となり、信仰の土台となったはずです。目の前で増やされていくパンを見て、ゾクゾクしたに違いありません。そして、自分の人生はこうあるべきだと教えられたはずです。
私たちが日常のことを脇に転がし、こうして礼拝の場に集い、イエスの招きを受け、御声を聞き、従う。こうして毎週新しいスタートを切ることができます。持てるものをまず主イエスにささげ、用いていただきましょう。■

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