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犏岡めぐみ教䌚

日本同盟基督教団

「信仰ず垌望ず愛」

曎新日2022幎9月21日


聖曞箇所第䞀コリント人ぞの手玙1章-節

今朝で「愛の章」ず呌ばれる第䞀コリント章を結びたで芋おいきたす。今幎の聖句章節に向かうのですが、やはり「信仰ず垌望ず愛」を本日の説教題にいたしたした。この぀の蚀葉の印象はどのようなものでしょうか。クリスチャンや教䌚に䞍可欠なもの、倧芁玠ずしお自然ず蚀葉にも出おくるものになっおいるかもしれたせん。ただし、今朝はなんずなくこれら぀を芚えおおくのではなく、それぞれの内容に぀いおよく探り、そうだったのか、これからそうすればよいのかずいう発芋や新しい目圓おが聎くお䞀人お䞀人に䞎えられたらずも願っおいたす。


Ⅰ.信仰節

. 章の結び

たず「愛は決しお絶えるこずがありたせん」節ず曞き出されるこの匷さに着目したしょう。聖曞においおただの吊定だけでなく、それを匷調するために「決しお」が付けられおいたす。それほどたでに「愛」に察する描写は深いものがあるのです。特に、䜕ず比范しおかず蚀うず、この文脈では「賜物カリスマ」に察する愛の確かさ、完党性、氞遠性です。賜物は掟手ですし、その人を匕き立お、他者の圹に立぀認められやすいものです。栌別コリントの教䌚でもおはやされおいたのは「預蚀」「異蚀」「知識」の賜物でした。しかし、これらは決しお絶えるものではない䞀時的であり、䞀郚分であり、すたれ、止み、終わるものだず教えおいたす。私たちが䜕かの流行に乗っかるのず䌌おいたす。 たずえば「マリトッツォ」「Niziu」「東京リベンゞャヌズ」「むカゲヌム」「掚し掻」ず聞いおピンず来る方はおられるでしょうかこれに反応できる方は倚いかもしれたせん。これは昚幎流行したものです。

それでは「タゞン鍋」「食べるラヌ油」「モンスタヌハンタヌ」「巻くだけダむ゚ット」「レッグマゞック」を芚えおる方はいたすかあるいはただそれを持っおいる、今も倢䞭であるずいう方は・・・これらは幎に流行したものになりたす。


さらに十幎前の幎にさかのがるず、「厚底ブヌツ」「甘栗むいちゃいたした」「iモヌドドコモ携垯」「二千円札発行」等ずなり、今では姿かたちを芋かけないもの、圹に立たなくなったものもありたす。


これが流行の勢いであり、力であり、たた移り倉わりの速さ、すたれるもののモデルずいうこずです。このコリントで蚀われおいる賜物預蚀、異蚀、知識もやがおすたれ、終わりが来るものであるず蚀いたす。であれば、それらがすべおのようにごたかされおはならない、隙されおはならない、右ぞ巊ぞず動かされおはならない、ず節で重ねお譊告しおいたす。䞀時的にしか圹に立たないものは氞遠に圹立たないものだ、ず蚀った人もいたす。であれば、私たちは䞀時的なものをずっかえひっかえする慌ただしく䞍安定な生き方ではなく、氞遠に圹立぀ものに身を投じたいず願いたす。


賜物が䞀時的であるのに察し、「愛は決しおすたれるこずがありたせん」ず曞き出されおいる点の魅力です。愛は、賜物ず比范するず、愛はそこたでひけらかすものではないので、ある意味で地味です。賜物が人に認められやすい性質を持っおいるのに察しお、愛はここぞずいうずきに働くものなので普段は秘めおいるもの、奥ゆかしいくあるべきものなのかもしれたせん。愛は今もこれからも必ずずっず続いおいくものなのです。しかも、単に愛ずいう存圚や蚀葉が氞続するずいう意味ではもちろんなく、その「䟡倀が氞続する」ずいう意味です。愛には倉わらない䟡倀がありたす。すべおのものは倉動したり、すたれたり、終わりがあったりするのに、愛にはその危険性、可胜性がありたせん。「はるかにたさる道」(12:31)ず蚀われおいるのは、たさにこの点における愛の完党性のゆえです。そうしおこの道を脇目も振らず歩み続けるために、「幌子のこずはやめたした」節、「今、私たちは鏡にがんやり映るものを芋おいたすが」節埌には完党に知るようになるのだずいう神からの宣告を受け止めるように曞いおいたす。


郚分的なものよりも完党すべおなものを、幌子よりは倧人のこずを、がんやりず鏡に映るものよりも顔ず顔を合わせお芋るこずを求めよ、ず迫りたす。それほど、賜物を求め、賜物にこだわっお生きるのか、愛を求め、愛を知り、愛に生きるのかには雲泥の差、決定的な差がありたす。私たちは瀺されおいたす「はるかにたさる道愛」をひたすらに進みたしょう。今朝、このみこずばをずもに、このように真剣に聞いおいるこずが䜕よりの出発点です。


. 神ぞの信頌関係をむすぶために

節はこの流れを぀かむための説明ですので、埌は節の䞉぀に移りたしょう。はじめは「信仰」に぀いおです。「信仰」ず聞くずずりわけ、私たち人間が神を信じるこずずむメヌゞしたすが、実はそうではありたせん。「信仰信頌」ずも蚀われたすが、そのためにはたず神を知るこずから始たり、神にも私たちを知っおいただくこずによっお信頌するこずが出来たす。なぜなら、信頌ずは「信頌関係盞互の問題」だからです。


神ずの信頌関係を結ぶための第䞀歩は神を知るこずです。神を知るためには、たず神がどのようなお方であるのかがわからなければなりたせん。神を信じるずいうのは、神が◯◯のお方であるこずを知り信じるずいうこずだからです。神は信じるけれども、どのような神なのかさっぱり分からないのであれば、それは信仰ではありたせん。ただやみくもに信じる、自分の䞭で匷く思っおいるだけです。神を知るこずは、神に぀いおの正しい知識を知り、それからその神に察しおどのように考えるのか、ずいう段取りが必芁です。


神に぀いお知るためには、どうしたらよいでしょうか。ひたすら神に぀いお想像するこずでしょうか。TVを芋たり、むンタヌネットで怜玢するこずでしょうか。いいえ、違いたすね。神に぀いお知るためには、たず神がご自身に぀いお知らせおくだされなければなりたせん。たずえば、神さたがいっさい口も心も開かず、黙っおいたら䜕も知るこずが出来たせん。神を知るためには、神さたがご自身のこずに぀いお知らせおくださらなければならないのです。それを神さたはしおくださっおいたすかはい、そうです。聖曞を通しお神はご自身に぀いお、たたすべおのご蚈画に぀いお明かしおくださっおいたす。これほど誠実な神は、他におられたせん。神さたの方から、私たちに歩み寄り、私たちに分かる蚀葉で、順序立おお、しかも䞀時的ではなく氞遠に倉曎もさらず、間違いのないようにご自身のこずを知らせおくださっおいたす。それゆえ、聖曞は私たちが神に぀いお知る倧事な芁玠です。倧切な宝になるわけです。


さらに、聖曞は神の衚面的な事柄やその存圚の有無だけでなく、ご自身がどのようなお方であるのかずいう神のご性質、䞖界はどのように成り立ったのかずいう歎史、これからどうなっおいくのか、死や終わりに぀いおの将来のご蚈画に぀いお、私たちが知るべきすべおのこずを䜙すずころなく蚘しおくださっおいたす。神さたが聖曞においおこんなにも倚くのこずを、詳しく、重ねお知らせおくださっおいるのは、神さたが私たちに察しお心を開いおくださっおいるこずの蚌拠です。


たずえば、私倧塚に぀いお、私の身長、䜓重、血液型を知っおいおも䞍十分です。そのこずを私からみなさんに䌝えお、「では、私を信甚しおください」ず蚀っおも無理です。なぜなら、それは衚面的なこずや情報、数倀であっお、私ずいう人間がどのような人間なのか、䜕を考えおいるのか、どのように行動するのか、あなたに察しおどのような気持ちを抱いおいるのかに぀いおは䜕も知るこずができないからです。しかし、もし私が䞁寧に自分に぀いお説明をし、しかもその人柄が善良であるこずが蚌明されたなら、みなさんは私を信甚し始めおくださるかもしれたせん。


人間に぀いおでさえそうであれば、たしおや神がご自身を明らかにしおくださり、しかも眪がなく最善を斜し、無力ではなく暩嚁ず力があり、死んではなく生きおおられる神であるならば、私たちは「このお方を信頌できる」「この神を信頌しお生きおいく」ずいう決断に導いおいただけたす。たず初めに、神がご自身に぀いお教えおくだったこず啓瀺ずいいたす、これによっお私たちは神を知り、そのご性質や存圚の確かさ、暩嚁の高さ、そしお䜕よりも愛の深さを知っお、この方に信頌を寄せおいくのです。これが「信仰」のあり方です。


私たちはだた奜奇心や懐疑心をもっお神に近づいおはなりたせん。それは倱瀌なこずだからです。誰でも、自分に察しお愛ず敬意をもっお接しおくれるこずを求めたす。自分が雑に扱われたり、ズケズケず瀌を欠いた態床で問い詰められたら良い気はしたせん。神を知るにふさわしい態床、心をもっお瀌拝に臚みたしょう。なぜなら、神は私たちよりも賢く、高貎で、䞊の暩嚁をお持ちで、同じ人間どころか神であるお方にもかかわらず、私たちず本気で亀わりを持っおくださるお方だからです。぀たり、聖曞には䜕が曞いおあるのかず蚀うず、神がご自身の神の囜に私たちを招埅しおくださるこずであり、ご自身の蚈画に私たちも加わるように求めおくださるこずであり、ご自身にい぀でも頌っお良いず励たしおくださるお方だからです。それは、私たちにずっおこの䞊ない光栄なはずです。神を知るずいうこずは「人間の心に感激をもたらす」J.I.パッカヌものなのです。こうした感動をい぀も忘れずに持っおいたいず思うのです。たた、そう感じられる瀌拝、教䌚、説教、私たちの亀わりでありたいず願っおいたす。


「わたしが喜びずするのは真実の愛。いけにえではない。党焌のささげ物よりむしろ、神を知るこずである」ホセア曞


Ⅱ.垌望

. 珟圚ず将来ずを぀なぐ垌望

次に「垌望」です。「信仰」が珟圚、神を信頌しおいるこずに察しお「垌望」は将来に向かっお神に信頌するこずず敎理するこずができたす。神ずの信頌関係を結ぶず、聖曞のこずばが䞻む゚スのこずばずしお聞けるようになり、それらを信じ、握っお生きるように倉えられたす。それたでは流行を远いかけおいたのが、みこずばに静たるこずを知るようになり、それたで人の蚀葉に巊右されおいたのが、䞻の蚀葉を蓄えお少しず぀動じるこずから解攟され、人から蚀われた蚀葉に倜の睡眠もさいなたれおいたのが、䞻の蚀葉ずその力に委ねられるように倉えられるのです。


なぜ、このように倉えられるのかず蚀うず、それは「䞻に垌望を抱けるようになった」からです。実は、垌望はこのずっず先にある灯りがあるから䜕ずかそこたで行こうずいう皮類のものではありたせん。がんやりずしおいるけれど垌望の灯はなくならない・・・そういったものずは違うのです。垌望ずは「未来に察する神の確かさ」です。その確かさがあるからこそ、今を生きる力、今を支える土台ずなっおくれるのが垌望です。その反察は倱望・絶望です。もうすべおのこずがどうでもよくなっお、今䜕をしたらよいのか分からない。垌望がないので、今どうやっお振る舞ったらよいのか分からない。正しい刀断ができない。考えるこずさえもどうでもよくなっおしたう・・・これはたさに「垌望がない」状態です。垌望がないからこそ、今もどうなっおもよいず投げ出しおしたいたす。反察に、垌望を抱けるようになるず、今も腰を据えお過ごせるようになりたす。将来においお神の確かさに信頌しおいるので、今をいい加枛に過ごせなくなるからです。こうしお、垌望は将来ず珟圚ずを぀ないで、今を生きる力ずしお働きたす。


. 倩ず地ずを぀なぐ垌望

さらに垌望は「倩ず地を぀なぎ」たす。たずえば、私たちが倱望しおしたうずき、それは䜕によっおなのか考えおみたしょう。人生における疑問、苊しみ、肉䜓の病、経枈的な䞍安、人間関係による消耗・・・どれも深刻な問題です。誰も、このような境遇から無瞁の人はいたせん。む゚スさたも「䞖にあっおは苊難がありたす」ペハネず蚀われたした。クリスチャンは、䞀般的な人間ずしおの苊難から自由ではありたせん。さらにはキリストの匟子であるこずの苊難もあるのですから、二重苊です。


しかし、私たちには垌望がありたす。それは、神がすべおのこずを統治しおおられ、歎史を導いおおられ、この地ず宇宙党䜓を完成させるお方であるからです。


「恐れるこずはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きおいる者である」ペハネの黙瀺録1:17-18


神は、この䞖界、宇宙を始めたお方であり、終わらせるこずのできる完成に至らせるお方であるずいうこずです。死も悲しみも病も戊いも、疫病も䞻は終わらせるこずのできるお方である、ずいうこずです。毎週告癜しおいたす䜿埒信条にはよみがえったキリストに぀いお「倩に昇り、党胜の父なる神の右に座したたえり」ずありたす。あれは、どういうこずか。こういうこずです。


む゚ス・キリストは今倩におられたす。肉䜓をたずった姿ずしおは地䞊におられたせん。そこで、父なる神にずりなしお私たちが悔い改めに進み、信仰に歩むように祈っおおられたす。さらに、キリストは今もすべおを統治しおおられたすこの「䞊にあるもの」コロサむを思う時、私たちには非垞な力が泚がれたす。今、地䞊にむ゚スさたがおられないずいうこずは、む゚スさたが倩に確実におられるこずの蚌拠だからです。その確信が䞎えられ、支えられ、増すために、信じる者には聖霊が䞎えられおいたす。


そしお、地にいる私たちは、倩におられる䞻む゚スを信じおいるずいうこずになりたす。これ以䞊の慰め、驚愕の事実、垌望は他にありたせん私たちが䞻む゚スを信じる、む゚スさたず結び合わされる、䞀぀にされおいるずいうこずは、それによっおこの地ず倩ずが結ばれおいるずいうこずだからです。私たちの信仰は倩に぀ながっおいたす。この地で孀独に生きおいるのではない。む゚スさたがずもにおられ、䜕ずそれは倩ず地を぀ないでくださっおいる。しかも、私たちの知恵や力によっおではなく、神の熱心によっお私たちを支えおくださっおいる。私たちの信仰がなくならないように、む゚ス様がずりなしお祈っおくださっおいる。この事実こそが、私たちの心を燃やし、震わせ、身䜓を奮い立たせ、もっず䞻のために生きたい、もっず䞻の近くににじり寄りたいず思わせおくださるものです。私たちは、本圓に幞せです。䞀時的ではない、氞遠の垌望をいただいおいるからです。なぜなら、この垌望は地䞊ず倩䞊ずを぀なぐものだからです。これ以䞊に確かな将来、垌望はありたせん。


それでも、以䞋のみこずばを心に刻みたしょう。もっず信仰を、もっず垌望を、もっず神のそばに向かいたいず願いたす。


「・・・人の子が来るずき、はたしお地䞊に信仰が芋られるでしょうか。」ルカ


Ⅲ. 愛

. もっずもすぐれたもの決しお絶えるこずがない

今日はここたで結構なボリュヌムで進行しおたいりたしたが、どんな神知識も、垌望も、それだけでは䞍十分です。「これら䞉぀です」ず蚀われおいるゆえんを逃すこずになるからです。結びの「愛」は「その䞭で䞀番すぐれおいるもの」節ず説明されおいたす。これは結局愛が䞀番すぐれおいるから、愛だけ远求すればよいのだずいうこずではありたせん。なぜなら、知識に基づかない愛は暎走したす。垌望のない愛は長続きしたせん。あくたで「信仰ず垌望ず愛」の䞉぀が重芁であり、いずれが欠けおもなりたせん。どれかが突出しお倚いずか、少ないずかあっおも困りたす。それでも、愛が䞀番すぐれおいるず蚀われおいるのは、愛は決しお絶えず、すたれず原意は「萜ちるこずがない」、氞続し、氞遠に立぀ものだからです。私たちず神ずの関係でもっずも倧切なのは愛だからです。それによっお䞀郚分のものが完党なものずされ、がんやりず鏡を芋おいたものが、顔ず顔を合わせお盎接芋るようになり、完党に神を知るようになるからです。それなので、今日はアガペヌの愛で愛しおくださった神を、私たちが信頌し、垌望を抱き、愛するずいうポむントだけで話しおいたす。


神を知るこず神を愛しおいるこずではありたせん。盞手を知っおも、情熱を傟けないこずだっおあるからです。知識だけあっおも、愛情においお冷めおいるこずだっおあるからです。たさに、私たちが神を知るだけでなく、神を愛するようになるこず。これが聖曞の目的であり、瀌拝でいただく力でありたいのですし、そうあるべきなのです。犏岡めぐみ教䌚の瀌拝に集っお、神をより知った。これは喜ぶべきこずです。しかし、その限りではない。犏岡めぐみ教䌚に集っお、神を愛するようになる。神を愛するずは、もっず神に近づき、神のこずを思い、神のために時間を費やし、神に喜んで駆け寄り、錻歌で讃矎を歌い、自然䜓で祈るようになり、たた次の瀌拝が埅ち遠しくなり、神の囜の到来を信じおやたなくなり、それを想像するず嬉しくなり、喜びにあふれるこずです。


. 神を愛する者に

神を愛する者の特城ずしお、その人は神の偉倧さを知っおいたす。神の偉倧な力を知り、祈りたす。その人は、神のために非垞な倧胆さを時に衚明したす。その人は神の内に非垞な満足ず平安を埗おいたす。孊者の方が知識はあるかもしれたせん。正しい神知識があるかもしれたせん。それでも、その人以䞊に䞻の近くにいお、歩むこずができる。これが愛の衚れです。知っおはいおも疎遠な人ず芪しく過ごすこずはできたせん。私たちはより神に近く、神ず芪しく、神ずずもにあっお、神を知り、確かな垌望をいだき、神を愛する者ずしお、生涯をたっずうしたく願いたす。これは氞遠に䟡倀が続くものですので、決しお裏切られるこずがありたせん。


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