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「偉さと小ささ」

聖書 ルカの福音書9章46-56節


1.誰が一番偉いか(46-48節) 

今朝は弟子たちの3つの会話を中心に見ていきます。最初の会話は46節からで、おそらくイエスさまのいないところで話していたことです。その話題は「だれが一番偉いか」でした。「議論」とあるので、弟子たちの間で誰もが認めるNo.1はいなかったようです。皆がそれぞれに偉うポイントを主張したことでしょう。競争や妬み、嫉妬や比較が、弟子たちの間にはありました。しかもイエスさまにふれ、間近で一緒にいて、その生声も聞いていた弟子たちでさえそうなのでした。驚きでしょうか。弟子たちでさえそうであれば、イエスさまが目に見えない時代に生きている私たちはなおさらです。私たちは皆、神さまの存在を遠ざけ、自らが王座に就き、ほかの人より優位でありたいのです。


これは、こぞって一番偉い者、一番高い所に立つ者を選ぶ議論のように思えますが、別の角度からも話されていたかもしれません。ある弟子が「私は〇〇をした」「私はイエスさまの特別な時に一緒にいた」と自慢げに話せば、ある弟子は謙虚さを持ち出して競ったかもしれません。謙遜や従順ならば誰にも負けない、という弟子もいたことでしょう。私が覚えている印象的な会話は、普段はとてもおしとやかな方が「私が世界で一番謙虚だと思う」と話してくれたことです。私たちは、謙虚さにおいても一番偉いのは誰かを考える性質があるのですね。

その点で、この「誰が一番偉いか競争」から自由な者は、誰ひとりいません。自慢話をしている者の脇で、「私が一番謙遜だ」と心中高ぶるのが私たちだからです。


そんな弟子たちの会話をイエスさまは知っておられました。「心にある考えを知(る)」(47節)方だと、聖書は記しています。イエスさまは、私のひとり言を聞き、あなたの心の中を知っておられる方です。


弟子たちの心を知り、イエスさまは「一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ」言われました。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」(48節)。当時、子どもは人口調査の数にも入れられない存在でした。それはいてもいなくても同じ、あるいはいないかのように扱われるのが普通でした。だから、このときイエスさまが子どもを抱き寄せたのは衝撃的なことでした。こんな小さな子どもを「一番偉い」と言われるのだ、と弟子たちは心底驚いたはずです。今まで考えもしなかったことだからです。


2.やめさせようか(49-50節)

さて、イエスさまの名によって悪霊を追い出している人を見た弟子たちは、どうしたでしょうか。

「私たちについて来なかったから」イエスさまの名によって悪霊を追い出すのを、やめさせようとしました。自分たちの支配下に入れたかった、先輩っぽくふるまいたかったのかもしれません。

端的に言えば、嫌な集団ですね。嫌味にあふれています。プンプンとその匂いがする集団。そんな者たちについて行こうとは思いません。もしかしたら、この49節で弟子たちについて行かなかった人は、賢い人だったかもしれませんよね。横柄な弟子たちを見て、この人たちにはついて行きたくない、得策ではない、デメリットしかないと判断したのかもしれません。

弟子たちの失敗は、自分たちが出すぎていることでした。

自分たちを誇示し、良く見せようとし、自分たちの力を発揮するのではなく、自分たちの従っているイエス・キリストを示すものでなければならないからです。


3.焼き滅ぼそうか(51-56節)

弟子たちは大変特徴のある、扱いづらい、いい子ではない者たちでした。プライドのかたまりで、イエスさまの力を誇示し誤用する者たちでした。イエスさまを受け入れないサマリヤ人に腹を立て、「私たちが・・・焼き滅ぼしましょうか」と言い出すほどキレやすい性質を持っていました。

こんな者たちが12人選ばれ、イエスさまは彼らとずっと一緒に過ごされました。何度も教え、何度も励まし、朝に夕にと弟子たちのために祈られました。彼らが傑出した者たちだからではありませんでした。



あなたは誰のために人生を費やしますか? これはとても重要な選択です。

自分を大事にしてくれない人のために、自分を我慢させる必要はありません。いじめや度を過ぎた厳しさ、人格を否定し、自分をさげすむ人のために、仕える必要もありません。

もっとも良いもの、良い方のために自分の人生を使ってこそ、生きる喜び、目的が果たされていくのではないでしょうか。

良い方、その対象は、主なる神です。まことの王であり、あなたの心を知っておられる方、誰にも話せない汚さを抱えている自分さえも呼び、そばにいて、付き合い続けてくださる方、その名はイエスです!


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