「内なる人は日々新しく」
- 大塚 史明 牧師

- 2025年10月19日
- 読了時間: 8分
聖書 Ⅱコリント人への手紙 4章16-18節
1.外なる人、内なる人(16節)
今朝の聖書箇所には「外なる人」と「内なる人」と記されています。分かりやすくするために、外なる人はいわゆる身体(からだ)であると言ってよいでしょう。外なる人は目に見えるありさまです。「外なる人は衰えても」とは、足腰が曲がる、できていたことができなくなるといった加齢によるものから、風邪をひいて弱る、骨折をして歩けなくなるなどといった病気やケガによって一時的に衰えるという場合もあります。いずれにせよ、目に見えて影響や変化がわかるのが外なる人の特徴です。
反対に、内なる人は目に見えない部分を指します。「内なる人は日々新たにされ」とある聖書の意図は、神さまによって力づけられるたましいが内なる人だと言ってよいでしょう。内なる人は、神さまとつながって生きるたましい。具体的には、みことばに接し、神に頼って祈り、神の助けを味わいながら、「このことは神さまに任せよう」「これは神さまからいただいた恵みだ」と味わいながら過ごすことです。これらを怠ると、外なる人だけが自分であるかのように錯覚し、衰えたり、病気になったりするともうダメだ、何の手立てもない、失望だとなるのです。
しかし、今朝のみことばの始まりをご覧ください。「ですから、私たちは落胆しません」となっています!「あなたはポジティブ思考でやりなさい」「あなたは楽観的に生きなさい」と外部から言われているのではなく、「私たちは落胆しません」と自分で自分のことを宣言しています。そしてみことばはこれを支持しています。失望しないでいられたら、それは望ましいことです。何があってもあきらめない性質が備わっていたら、それはうらやましいことです。しかし、私たちの多くは落胆し、失望し、深いため息をつくのではないでしょうか。自信を持って「私たちは落胆しません」と宣言し、その通り生きられる人はまれです。肉体が弱れば、気持ちは弱り、不安定になります。
ある研究によると(夏目,1987年)、日本人がもっともストレスを受けるのは①家族/友人の死、②失業、③大病やケガ、④借金、⑤引越、⑥交通違反だそうです。もちろん、この後にもたくさんのストレス項目が並びます。生きていくことはストレスを受けること、と言うのも間違いではありません。そして、通常ならば、こうしたストレスやプレッシャー、大きな出来事によって「外なる人」は押しつぶされてしまいます。さらに「外なる人」の衰えにより、人生はグシャっと潰されてしまうのです。しかし、「内なる人」があれば話は別です。外なる人が衰えても、内なる人は日々新しくされるので、外的要因に比例して悪くならないのです。外なる人の衰えにつられて、内なる人も沈み込んではしまわない。これが本当なら、私たちはいついかなる状態や状況に陥ったとしても、支えられているという絶大な安心感を持って生きられます。そして、聖書は「私たちは落胆しません」と私たちに言わせてくれるのです。まさに、内なる人の存在を意識し、内なる人が強められ、外なる人の衰えに付き合わない生き方をさせてくれるのです。さて、毎日新しい思いや力がみなぎって始められたら、どんなに良いことでしょう。内なる人が強くされていく秘訣はあるのでしょうか。そう、それがあるのです! 続く17節に進みましょう。
内なる人から栄光へ(17節)
「私たちの一時の軽い苦難は・・・」。内なる人が成長する秘訣とは「苦難」です。いやいや、私は褒められて伸びるタイプです、と言いたい人もいるかと思います。しかし、聖書は「内なる人は苦難によって育てられ、養われ、強められる」と続けます。苦難とは「痛みを伴う苦しみ」です。誰も、好き好んで痛みや苦しみを受ける人はいません。できるなら、そういう苦い経験、痛い経験はスルーしたい。外なる人が傷つかず、弱らず、痛まないことを望むのが人間の本質です。病気を避け、事故にならないよう気を付けて生活します(自暴自棄の時を除いて)。だからこそ、全知全能の神は、私たちの内なる人が目ざめるために、苦難を送ってくださる。私たちの内なる人が養われ、大きくなっていくために、苦難を用いられる。そのときは痛く、険しく、厳しいもの。初めから苦難や試練の意味を全部理解し、受け入れられる人なんて誰もいません。その渦中には、辛くて、叫びたくて、それこそ落胆し、失望どころか絶望に行き着くまで抵抗します。しかし、その苦難は神の知らないものでも、いたずらでもありません。実に、その苦難によって、私たちが神に出会い、神を求め、神に祈るようになるのです。頭では理解できますが、やはり、実際に苦難や試練を味わうのは辛いです。「いやだ」「もう無理」「なんで私が」「もっとあの人に」と色んな感情を持ちながら、人前ではそれを我慢するという複雑なバランスを取らないといけません。それでも、そこから助けを求めるのを、神さまは待っておられるのです。私たちを子として扱い、訓練し、鍛えておられるのです。もし、何の苦難も起こらないとしたら、内なる人は目ざめることも、育つこともないでしょう。
彫刻の世界最高傑作と言われるダビデ像(1504年、アカデミア美術館)は、ミケランジェロによるものです。彼が「どうやってこんな素晴らしいダビデ像に仕上げたのですか」という質問に次のように答えたそうです。「簡単です。大理石からダビデじゃない部分だけを削ればいいのです」。ちょっと天才すぎる答えですが、これは私たちの苦難について良いヒントになるのではないでしょうか。神さまは、私たちをご自身が望まれるかたちへと削り、造り変えていってくださいます。毎日、そうしてくださるので、私たちの内なる人は日々新しくされていきます。そして、それは「一時の軽い苦難」とさえあります。
このコリント人への手紙第二は、1章から「苦難」「苦しみ」という言葉がたくさん使われています。「死さえ覚悟した」ともある苦しみを幾度も味わったパウロが、それらを「一時の軽い苦難」と書いています。死ぬほどの経験をしたパウロがそう言っているのですから、私たちが経験するのは「一時の軽い苦難」なのです。
では、何と比べて「軽い」のでしょうか。それは「重い永遠の栄光」との比較です。パウロはいつも苦難や死を「キリストの苦難」(1:5)「イエスの死」(4:10)と共に書いているので、「イエスさまが背負ってくださった苦しみに比べると、自分の苦難は軽い」「イエスさまが十字架で叫ばれた絶望を思い出すと、自分は落胆する必要がない」と言えます。私たちは理不尽な思いをさせられたり、一方的に意地悪をされたりもしますが、ある時は自ら犯した罪のゆえに受ける苦しみもあります。また、ある時は自分のまいた種の刈り取りでしんどい思いもします。しかし、イエス自身は罪がない方であるのに、苦しめられ、ののしられ、十字架で殺されました。自分の罪ゆえではなく、私たちの罪ゆえです。この世でもっとも理不尽でひどい目にあわれたのは、イエスさまです。このイエス・キリストの苦難によって、私の罪が赦されました。このキリストの死によって、永遠のいのちが与えられました。だから、キリストの苦難とキリストの死を思うと、自分の苦難は一時の軽いものだと言い得るのです。
「私たちは、落胆しません」と宣言できるほど、苦難や試練に対して日々新たにされていく、日々キリストに似た者とされていく、日々キリストに近づいて行くのです。
目に見えないものに(18節)
結びに、外なる人は衰え、日々苦難がある人生を歩む私たちにとって、内なる人が強められ、永遠の栄光への道を踏み外さずに進む方法を見て終わります。これからの私たちは「見えるものにではなく、見えないものに目を留めます」(18節)。落胆するか、しないのか。日々衰えていくのか、新しくされるのか。それは、私たちが何に目を留めているのかによって違ってきます。そして、私たちが見つめるべきものは、目に見えるものではなく、目に見えないものなのです。目に見えるものは、簡単に見ることができます。身体の不具合、夫婦の問題、貯蓄の金額、家族の問題、仕事上のトラブル、交友関係の破壊、不安にさせるニュース・・・こうしたことはいつも私たちの目に飛び込んできて、脅かします。それらのものに目を奪われているかぎり、心も捕らわれてしまい、目で見えないものによって成長する内なる人は一向に強められません。外なる人は日々衰弱し、日々疲れていくのです。また、目に見えるものは「一時的」です。確かに苦しみや試練の中にいるときは、長く、人生全体を放棄したくもなりますが、一時的な影響でしかありません。
しかし、それが分からなくなるほど苦しんだとしても、このみことばが教えていることを思い出すべきです。目に見えないものは「永遠に続く」からです。目に見えるものが影響を与えられるのは一時的であるのに対して、目に見えないものは、永遠に不変の価値を与えることができます。一時的にしか私たちの人生を支配できないものに惑わされて、永遠に価値あるものを失うのは大きな損失です。
たとえば、イエスさまは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われました。イエスさまの道も真理もいのちも目には見えませんが、確かにあります。イエス・キリストを道として歩んだ人は、確信を持って人生を送ります。イエス・キリストを真理だと信じた人は、いつわりを見分けることができるようになります。イエス・キリストのいのちをいただいた人は、滅びからの救いを賛美し、主を礼拝するようになります。これらは目に見えないものですが、確かにあり、力を与え、人生に多大な影響を与えます。目に見えない神さまに目を留めていくと、自分の人生がこんなにも恵まれ、導かれ、助けられ、罪を犯すことから守られたと味わうことができるようになります。これは人生観の変革ですね。そうして、私たちは永遠に続く目に見えないものに目を留め、献身するように招かれています。神さまは私たちの永遠をゆだねることのできる唯一のお方です。■

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