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「救いの完了」

更新日:5月1日

ヨハネの福音書19章30節


  1. 罪の報酬

今年のレント(受難節)では「十字架上でのことば」を見ています。主イエスが十字架につけられた際、合計7つのことばを発せられました。今朝は6つ目のことば、ひとこと「完了した」です。「終わった!!」と言えるとき、私たちはすがすがしい気持ちになります。宿題、試験、家事、仕事、会議を終えると大変嬉しく、心が軽くなります。反対に、終わってしまうと寂しいものもあります。休日、旅行、閉店、蛍の光のメロディーを聞くととたんに寂しくなり、焦ったりもします。ヨハネの福音書は、主イエスが「完了した」を地上の生涯で発する最期のことばとして記し、ここに大きな意味を持たせています。


今、イスラエル、パレスチナ、ガザ、ウクライナ、ロシア、イランなどで多くの紛争、戦争が続いています。ある人は言います。「なぜ、イエス・キリストが来られたイスラエルの地で戦争が起こるのですか? 彼は救い主ではなかったのですか?」と。救いをもたらすために神の御子が来られた地で、なぜ今も絶えず戦争が起こっているのかという疑問です。これに対しある先生(菊池実先生、TCU考古学教授)はこう言っておられました。「イスラエルで争いが絶えないのは悲しいことですが、絶えず争いのある地に神は来てくださったとも言えます。人間の憎しみや利権の衝突する真ん中に神は来てくださり、いのちを捨てられたのだと理解しています」と。これは大事な視点だと思います。「神がおられるのなら、なぜこの世に悪や苦しみがあるのか」という疑問や不満に対する答えが、ここにあると思うからです。神の御子は人となられ聖書の土地で過ごされました。これは御子が、罪の横行するこの地を切り捨てたりせず、関りを持ってくださる方だということです。また「なぜ、教会の中でいざこざがあるのですか?」という問いに対する理解の助けにもなります。自分の罪や衝動を治めきれない私たち、聖潔100%!とはならない私たちを見限ることなく、その中心にいてくださるイエス・キリストを見るからです。あるいは「なぜ、あの人はいつもああなのか」「私ばかり我慢している」と言いたくなるときがあります。これも、神が私のためにその人をそばに置かれ、その人が私と関りを持ち続けてくれているとも受け取れるのです。


先週は、すぐ前の28節「わたしは渇く」を学びました。主イエスはすべての苦しみを余すところなく受けられました。全身の痛み、薄れゆく意識、焼け付く喉から振り絞るようにして「わたしは渇く」と言われました。今朝の30節は「イエスは酸いぶどう酒を受けると」で始まり、それまで拒んでいた飲み物をお受けになりました。「完了した」というこのことばを宣言するために喉を潤したのですね。さらに、この「完了した」は勝利の宣言と取るのが歴史的な解釈です。「完了した」とは、単に「終わった」ということではなく、「目標を達成する、ゴールに到達する、終わらせる」という意味です。主イエスが生涯をかけて取り組んできたわざが今ここで目的に到達したと宣言されたのです。そうです、主イエスが十字架につき死んだのは成り行きや敗北ではなく、ある確固たる目的がありました。それは「罪の報酬は死です」(ローマ6:24)という神のさばきを完了するためでした。

聖なる神、義なる神の鉄則は破られることがありません。罪に対する報酬として死が支払われます。罪を犯しているのに見過ごしたり、Aさんは赦し、Bさんは死をもって罰するというえこひいきもありません。神の正しさがなくなってしまうからです。あくまで罪の報酬は死です。ただし、同時に愛の方でもあるので、驚くべき救いの計画を立ててくださいました。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(第二コリント5:21)。それを実行されたのがイエス・キリストの十字架です。主イエスは罪のない方であるのに、私たちのために罪とされました。逆に言うと、主イエスは罪のない方であるので、私たちの罪を背負うことができたのです(スライドの図を見てください)。罪と死の奴隷である私たちには、逃げることも互いを助けることもできません。ただ一人、奴隷市場の外で生まれた方だけが救い出せます。その方こそ、イエス・キリストです。


このとき、おそらく主イエスはヘブル語で「完了した」と話されましたが、それは「二シュラーム」という言葉です。ゆっくり発声すると「シャローム」が語根だと分かるかもしれません。つまり、「神との平和が成し遂げられた」と宣言されているのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とイエスさまが叫ばれたように、神は罪人を断絶し、そのさばきは最後まで徹底してなされました。そして最後にイエスさまは「完了した」「到達した」と宣言し、霊をお渡しになりました。これこそ、私たちの死に対する漠然とした恐れを取りのぞく勝利の宣言です。


2.完全無欠

さらにこの「完了した」には「完済した」という意味もあります。ヘブル語で完済するは「ハコル(すべて)シュラーム(支払う)」と言うそうです。これも「シャローム」が語根となっています。つまり、それまではお金の貸し借りによって、一方が強く、一方に負い目のある関係でした。しかし、すべての支払いがなされれば、そこに障害はなくなり、良い関係を始められるようになります。このことを、十字架で宣言されました。私たちを責め立てていた罪の負い目=借金は、キリストが十字架ですべてを完済してくださったのです。それゆえ、キリストの十字架が完全な救いとなりました。それ以外に何も足すことはありません。「あなたがたは信仰によって救われたのです・・・行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)


実は、この世の中に完璧なもの、完全なものはほとんど存在しません。絶世の美女も寄る年波に勝てなかったり、性格が悪かったりします。宝石やお金や株も価値が変わります。今はスマートフォンの時代ですが、スマホはいつまでたっても新型が出ます。アプリの更新も頻繁にしなければなりません。終わりがないので、疲れ、いつまでも安心ができません。そんな世界にたった一つ「完了した」ものがあります。それがイエス・キリストによる救いのわざです。「完了した」と言われたこの十字架のことばによって、私たちは「ああ、もう自分の救いについてすることはない」と言えるし、確信できるのです。

主イエスは、私たちのために完全無欠の救いを成し遂げてくださいました。このイエス・キリストの十字架とあなたとはどんな関係があるのでしょうか? もしあなたが「イエス・キリストと自分とは何の関係もない。私のために十字架にかかったとか言われても迷惑だ」と突っぱねるなら、キリストとは無関係です。そして、十字架による救いの素晴らしさとも関係ありません。キリストと無関係で生きると、死に対する恐怖が消えず、自分の生き方に不安を感じ、罪に対する良心の呵責にさいなまれます。イエス・キリストの十字架によるすべての罪の赦しがあるのに、わざわざそれを受け取らないのはもったいないことです。赦しのない世界で生きるのは、大変です。


戦国時代、織田信長や豊臣秀吉と会ってキリストを伝えたフロイスという宣教師がいます。彼の日記は貴重な日本史の資料です。彼の出身国はポルトガルですが、1990年代、ポルトガルでは薬物中毒が社会問題になっていました。政府はどうにかして薬物使用をストップさせようと厳格な処罰をしていました。しかし、どれだけ厳しく取り締まっても効果がありませんでした。それで2001年に世界で初めて薬物の使用を非犯罪化しました。つまり、薬物所持や使用に目を光らせて、すべて捕まえようとするのではなく、更生プログラムを受けられるようにしたのです。人々はそれまで「どれくらい薬物を使ったのか」「どのくらい所持しているのか」という質問に対して素直に答えることができませんでした。正直に言えば、刑罰が重くなるからです。しかし、非犯罪化されてから人々は正直に薬物の使用歴や使用量、依存や心身の状態を打ち明けるようになったそうです。それは、正直に言えば適切な治療を受けられて健康を取り戻すことができるからです。つまり、赦されるということが、人々を嘘や偽りから解放し、立ち直る道を選ぶ力となったのです。同じように、もしあなたがキリストの十字架とは無関係で生きることを選択すれば、それは赦しのない世界で頑張ることを意味します。赦しのない世界では、正直に言えば、冷たい目で見られ、自分で背負いたくない罪はひた隠しにするか、誰かのせいにするしかありません。それは途方もなく大変な生き方です。いつも自分が不利にならないように取り繕わなければなりません。そんな生き方は落ち着かないし、よそよそしくて居心地は悪くなります。しかしすでに、キリストは十字架の上で「完了した」と言われたのです。キリストは罪の問題を抱える者に「あなたの罪は赦された」と宣言し、赦しのある世界で生きるようにしてくださいます。


3.確信する

私たちは、みことばからイエス・キリストの福音を聞いています。そして、この福音書の著者ヨハネも「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:31)と書いています。私たちは、イエス・キリストが何をしてくださったのかをみことばによって知るとき、信じるようにされていきます。

アメリカで、ある少年がレストランへ行きました。ウェイトレスが注文を取りに行くと、その子はメニューを眺めて色々迷いました。ようやく口を開くと「チョコレートサンデーはいくらですか?」と言うので彼女は「50セントよ」と答えます。それで決まると思ったら、次にその子は「じゃあ、普通のソフトクリームはいくら?」と聞きます。彼女は「35セント」と答えました。それから少年はポケット中の小銭を取り出して数え始めました。ついにウェイトレスは「注文するものを決めてから呼んでちょうだい。時間の無駄なのよ!」と怒ってしまいました。結局、その子はアイスクリームを注文しました。ウェイトレスは少年のことが少し気になりながら他の客の対応などをしていると、いつの間にか彼は食べ終わり、店からいなくなっていました。彼女が彼のテーブルに行くと15セントのチップが置いてありました。彼は食べたいものを選ぶのに迷っていたのではなく、彼女にあげるチップのお金を計算していたのであんなに時間がかかったのだと、彼女は気づきました。そして後悔しました。少年がそういうつもりだと分かっていたら、冷たく接することはなかったのに、と。


私たちは、相手が何をしているのか分からないと冷たくしたり、軽べつしたりします。イエス・キリストは単なる悲惨なヒーローとして十字架にかかったのでも、彼自身の罪で罰せられて殺されたのでもありません。キリストはあなたの罪を十字架で背負っておられたのです。キリストはあなたの罪の罰を十字架で受けられたのです。そうして罪の赦しと救いを完了してくださいました。残酷な姿で、最後のひと声で、「完了した」と吐き出されたキリストのことばは、あなたの救いにとってどれほど大きな意味を持っているでしょうか。決して無駄に、むなしくすることがありませんように。このキリストの救いを受け取り、響かせて生きていきたく願います。■


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