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「本気で主を求める」

聖書 第一列王記18章36-40節


  1. 今日、求める(25-29,36節)

 先週は、エリヤ対バアルの預言者450人が二頭の雄牛にどちらの神が火をつけられるかの対決をしよう、と合意いたところまで見ました。今朝はその続きで18章全体をたどります(聖書朗読は36-40節)。エリヤはバアルの預言者たちが先に始めるように言います(25節)。彼らは必死にあらゆることをします。朝から真昼まで数時間にわたり祭壇を囲んで踊り回り、大声で叫び続けます。この「踊り回る」は先週見た「どっちつかずによろめく」(21節)と同じ語です。まさに、どれだけ必死に体を動かし踊っても、それはよろめいているのと同じ。必死、熱心だけれども意味がないという厳しい真理です。


 すると、エリヤはあざわらって彼らをあおります。まだ必死さが足りないのではないか、バアルの神は他のことに熱中しているか、聞いていないか、遠く旅に出ているのではないか。それを聞いて彼らはますます意地になり、何と剣や槍で自分たちの身体を傷つけることまでし始めました。恐ろしいことですが、それが「彼らの慣わし」(28節)でした。バアルの神に仕える預言者たちは、数時間も踊り、叫び、自分の身に傷をつけることが慣わし=普通なほど真剣な態度で必死の行動をしています。間違った道をどれだけ速く走っても目的地にはたどり着かないように、彼らがどれだけ声を上げ、踊りまくり、傷や血を流しても、本物の神に向けられていなければ無意味です。

彼らの求めに対して、何も起こらないので次第に「何の声もなく、注目する者もなかった」ようになりました。どっちつかずにいた民たちが、だんだんバアルが頼りにならないことを知り、心が離れる様子が描かれています。まさに「空しい神々」に頼ることが、どれほど空しいことか、無意味なことか、あわれなことかを必死な預言者たちの姿を通して、民たちに伝わったのです。


 しかし、私たちも自分の態度や行いが良ければ、神に認めてもられる、神に願いを聞いてもらえると考えることがあるのではないでしょうか。「よく頑張ったから良い結果になるはず」「これだけお願いしているのだから、聞いてもらえるはず」と考え、思うような結果にならないと「神さま、あなたはおかしい!意地悪!もう信じない!」とつぶやきます。そんなとき、この個所を思い出していただきたいのです。それは、どんな熱心であっても、祈り願う対象が大切だということです。私たちは結果を求めると、頑張ります。そして頑張りすぎて焦ったり、疲れたり、失望したりします。本来は、全知全能の主と豊かな交わりを持ち、親しい関係にあって平安や恵みがあるのに、わざわざそれを断ち切って自分で頑張る道を突き進んだりするのが人間の傾向です。そうやって神から離れて行く性質を、聖書は罪と教えています。このバアルの預言者たちは自分の身を打ち叩き、切り裂くほど必死でした。しかし、やればやるほど焦りも増えてきました。

 これだけ呼んでもダメなのか、これだけやっても十分ではないのか。そうした焦燥感は何をやっても払拭することができません。ただ、まことの主に立ち返るまでは自分で頑張るしかないし、やっても届かないこともあるし、やってきたことが無駄に感じることもある・・・大変悲惨な状況に追い込まれてしまいます。ここでバアルの神に叫び踊っている450人の預言者の姿は、「いいな!」と思うものでは決してありません。


 こういう展開を受けて、エリヤは「主よ・・・あなたのおことばによって・・・今日、明らかになりますように」(36節)と切り出します。すべての偽りやまやかし、嘘は主が働かれればすべて明らかにされます。この「明らかになる」は「目の前ではっきりと示される」という意味の語です。エリヤがこの混乱した状況で願ったことは、「主がみことばによって事を行われることを、皆がはっきりと知れるように」ということでした。エリヤの願いは、民たちがこれから主のなさることを見て、変な慣わしから解放されることであり、自分の頑張りやお願いする強さを誇ったり、自分の身を傷つけるほど焦ったりすることから解放されることです


2. 主にあって自信を持つ(30-36節)

 エリヤは、これから主がすべてをなされることを証明するために、念には念を入れて準備します。

 まず初めに「壊れていた主の祭壇を築き直しました」(30節)。皆が異教の神々の祭壇を作り、そこで間違ったささげものを、間違ったやり方で礼拝していました。それを正すために、まず「主の祭壇」を築き直します。


 私が岩手県で震災支援の活動をしていたとき、印象深い出来事がありました。津波被害のあった三陸沿岸に田老という町があります。そこは町全体が津波で流され、避難所や高台に残された家々への支援に赴いていました。夏になって、ようやくその地区で空き家を借りられることになり、それで多くのボランティアを募り、活動することができるようになりました。しかし、その家には大きな神棚が飾ってありました。私をはじめとして、日本人はそれがない方が気持ちいいけれど、あるのは仕方がないとそこで寝泊まりをしていました。すると、ある週にボランティアに加わった方が、その家に着いた途端「はい、この神棚を取り下げましょう。私たちクリスチャンの活動場所にはふさわしくありません」と言ってその神棚を取ってしまったのです。それは韓国人の女性でしたが、あまりの明瞭さに驚くほどでした。が、同時にその手際の良さにほれぼれしました。彼女は、私たちが何者であるのか、何を大切にするのかをそこで示したのです(神棚は退去する際に戻しました)。


 そうしてから、エリヤはより具体的な準備を進めます。

出エジプトからヨルダン川を渡った際に記念としたのと同じく12の石を祭壇周りに置きます。それから薪の上に切り裂いた雄牛を載せ、さらに水をかけました。4つのかめに満たした水を3度するような徹底ぶりです。しかもこのときは水不足が続いていたので、大変貴重なはずの水を惜しみなく注ぎかけました。もったいない、何をするのだ、気でも狂ったのかと騒がれたかもしれません。さらに、これから火を起こすのに、水びたしにしてしまったらもっと不利になります。こうして、エリヤはあらゆる人間的な可能性を排除しました。それは、これから起こることがただ主のなさることだと民がはっきりと見て知るためです。ここでエリヤはたった一人で、祭壇に水をかけて、450人の預言者が失敗した後に戦っています。相当な緊張、プレッシャー、追い込みです。それでも、まったくひるんでいません。それは「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主」により頼んでいるからです。彼らの神であった方は、永遠に生きておられ、今もエリヤの祈りを聞いてくださる。その確信が、エリヤを守り、支えていました。実は、この条件は今の私たちとも同じです。私たちも聖書に立って、この確信をいただくことができます。


3. 答える主(37-40節)

 エリヤが「主よ、答えてください」と祈ると、「主の火が降り、焼き尽くし」ます。エリヤの祈りに主が火を降り注いだことによって、二つの出来事が起こりました。一つは民たちが「主こそ神です。主こそ神です」とひれ伏して言ったこと。もう一つは、バアルの預言者が一掃されたことです。まず、バアルに仕えていた預言者たちが皆、抹殺されたことについて見ていきましょう。これは、聖書が異教の人たちを殺すことを推奨しているとか、主なる神が殺人を肯定しているという意味ではありません。一匹の迷い出た羊を捜し出す方、大切なひとり子イエス・キリストを罪人の身代わりに十字架につけられる方が、450人の命を粗末にはされないからです。ここで聖書が教えているのは、この預言者たちが自分でその道を選んだ結果だということです。さらに詳しく見ると、これは「ささげ物を献げるころになると」(36節)とあるのは、当時の祈りの時間であり、それは午後3時です。ある神学者は、この対決とイエス・キリストの十字架を重ねて見ることができると提言しています。主イエスも午前9時に十字架につけられ、正午から全地が暗くなり、午後3時に息を引き取っています。十字架につけられたキリストを見た百人隊長が「この方は本当に神の子であった」(マルコ15:39)と言ったのと同じように、ここで人々は天から火が降り、預言者が一掃された場面で「主こそ神です」と言っています。つまり、まことの神が誰であるのいかわからず、最後まで悔い改めることのなかった者たちは滅ぼされてしまいましたが、同じように十字架で死なれたキリストが、私たちに永遠のいのちの道を開いておられることをも伝えているのです。このように、聖書は福音の書物です。


 ここで起こったもう一つの出来事は、民たちが「主こそ神です」と言ったことです。彼らは、このみわざをなしたのが主であることがわかり、彼らは自分たちの口で信仰を告白しました。このとき、エリヤは「私に答えてください・・・そうすればこの民は、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう」(37節)と祈っています。この「翻す」の直訳は「(民の)心を取り戻す/心を返す」という意味です。民が主のみわざを見て、信仰を取り戻すようにという祈りであり、その通りに民たちは「主こそ神」と悔い改めが起こりました。そうなったのは、民が主のみわざを見たからであり、主が火を降らせたからです。

ここには「もうちょっと自分の信仰が強ければなあ」「信じたいけれど、踏ん切りがつかない」という方がおられるでしょう。そういう方は、ぜひこの個所から励ましを受け、気持ちを楽にしてください。信仰に火をつけるのは主だからです。自分の熱心さ、必死さが信仰を生み出すのではありません。それは、ただ主がしてくださることです。エリヤはたくさん準備をしましたが、最後に火をつけたのは主です。私たちも、自分自身の情熱ではなく、主からいただく情熱によって人生に灯りが、信仰が、光がともされます。信じなくちゃと焦らずに、主が火を降らせてくださる礼拝、教会に身を置きたいと願います。


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