「日ごとに主を求める」
- 大塚 史明 牧師
- 2月9日
- 読了時間: 11分
聖書 第一列王記17章8-16節
はじめに
本日も預言者エリヤの生涯から「主を求める」ことをご一緒に受け取ってまいりましょう。先週は、エリヤがアハブ王の偶像に正面から立ち向かい、ここ数年間露も降りず、雨も降らないと宣言しました。その後、小さなケリテ川のほとりに住み、烏に養ってもらいました。しばらくの間は川から水を飲むことができましたが、ついに涸れたというところまで見ました。
主のことばに従う人生には力があります。導きもあります。祝福もあります。そして試練や戦いがあり、恐れや不安もあります。それでも、預言者エリヤは自らが聞いた主のことばに従っています。主がしなさいと言われた道を、エリヤは歩きます。主のことばを聞いたそのとおりに、エリヤは従います。
今年のテーマである「主を求め、みわざを味わう」ことは、ただ寝て待っていては起こりません。私たちから、主のことばを求め、主との交わりを求め、そのとおりに生きていく時に、主のみわざも味わい、目撃し、体験することができます。今朝、第一列王記17章の続きからご一緒に見てまいりましょう。
最も弱いところへ
川が涸れたのを目の前にしたエリヤに、主は次のことばを与えられます。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている」(9節)。ここでの内容は二つです。一つは次なる地に行って住むこと。もう一つはそこで養われることです。
行けと指示された土地ツァレファテは「ツロ・シドン」に属する小さな町です。イスラエル民族からすると、ツロ・シドンははるか北にある異国の地です。アハブ王が迎えた悪女と言われるイゼベルはこのシドンの国王の娘でした。アハブ王は地中海貿易で栄えていた国の娘を妻にし、北イスラエル王国を繁栄、安定させようとしたのです。しかし、それは人生から神を追い出す道でもありました。神なしで安定や繁栄を企てる ためには、あらゆる人間的な策略を考え、実行しなければなりません。その一つが、シドンのお姫様であるイゼベルを王妃として迎えることだったのです。まことの神を捨て、目に見える繁栄や安定を選んだので、偶像を取り入れ、拝むようになりました(16:31)。それが混乱、そして滅びの原因となっていきます。
主はエリヤにそのシドンへ行くように命じました。今いるケリテ川から100キロ以上はある道のりです。山道、海沿いの道を北へ上り、そこに住めと言われます。
実は、主イエスもたびたび「ツロとシドン」について言及されます。主イエスの力あるわざがツロやシドンで行われていたら人々は悔い改めていたことだろうと、不信仰の町の象徴として、このシドンをあのソドムの町と並べて話されました(参照マタイ11:21-24)。おそらくエリヤが行ったことも、行きたいと考えたこともない国の町です。そこへ行って、住みなさい。それが主のことばでした。目の前で川が涸れてしまって途方に暮れているエリヤへのことばです。
私たちにも、似たような状況があるのではないでしょうか。「もう万策尽き果ててしまった、どうか神さまお願いします」「神さまの言われるとおりに従ってきましたしかし、今やもう自分の手にも身の回りにも頼りになるものがありません。いったいどうしたらよいのでしょう」、「わたしはあなたを見捨てず、必ず助けると言われたではありませんか。なのに現実はこのざまです」。そして、満を持して主のことばをいただいたとき「さあ、シドンへ行って住め」と神から言われるのです。「さあ、とか言っている場合じゃないでしょう」と怒りたくなるかもしれません。「もっと他の場所がいいです」「もう動いたり苦労しない方法でお願いしています」と断りたくなるかもしれません。主に「じゃあ、シドンのツァレファテに行きなさい。そこで養われるから」と言われたとき、どれほどの衝撃をエリヤは受けたことでしょうか。
それは、私たちが人生に疲れている時に教会を紹介されたのと似ています。それは、あなたがどうしても立ち直れないことがあった時に、聖書を渡された・聖書のみことばを送られたのと似ています。それは、もう万事休すで頼れる人に相談してみたら祈られたのと同じです。本当に困ったとき、万策尽き果てたとき、聖書、お祈り、教会、礼拝・・・とアドバイスされたら、私たちはどのような反応をしますか?「お祈りで解決なんかしないよ」「聖書なんて役に立たないでしょ。もっと現実的な助けがほしい」と馬鹿にして退けるかもしれません。なかなか「ああ、聖書ね!」「そうそう、教会に行けばいいんだよね!」「お祈りってわが力!」と応答できる人、できる時は少ないことでしょう。
エリヤの応答をたどると、10節ですぐに「彼はツァレファテへ出て行った」とあります。どうやらすんなり向かったようです!そんな素直になれたらいいのに、そんな大胆な信仰が持てたらいいのにと願いますが、ヒントは「彼に次のような主のことばがあった」(8節)しかありません。そうです、エリヤはそれが「主のことばだから」従ったのです。それ以外の理由も秘訣もありません。主のことばを冗談のように受け取ったロトの婿たちは滅んでしまいました。主のことばを聞いたなら、何も挟まずに、何からも妨げられずに従うこと。このシンプルな一節が雄弁に語っています。私たちは今、同じ主から聞いています。
2. 最も酷な命令
その土地でエリヤは養われます。その方法は「一人のやもめ」を通してだと主は言われました。この時点では、エリヤにはそのことしか伝えられていません。そしてツァレファテへ着くと町の門(入り口)で薪を集めている女性がいたので「少し水をください」と声をかけます。当時、夫に先立たれたやもめが生活していくことは大変でした。今のようにひとり親家庭への福祉制度もなく、女性が外で職を得ることもほぼ不可能な時代です。当然、生活も苦しくなり、しかもこの地にも雨が降らず、干ばつと飢饉の状況にありました。王は食料を欠くことがなくても、やもめのように社会的弱者にある人たちはもろにその影響を受けます。いったい、どうしたら彼女はエリヤを養うことができるのでしょうか。
それでも、彼女はエリヤのために水を取りに行こうとしてくれました。おそらく、薪拾いをやめて、です。するとエリヤは行きかけた彼女に「パンも」と頼みます。すると、それまで何も言わなかったやもめが言います。「あなたの神、主は生きておられます」(12節)。おそらく、これは勢いのよい信仰の告白ではなく、「預言者エリヤさま、あなたの神、主は生きておられます。それは勝手ですが、私は神がどこにおられるのかさえも分かりません」と言いたいような口ぶりです。そして、一握りの粉、少しの油、数本の薪しかない現状を説明します。
しかも、それが息子と最後の食事になる覚悟で今ここに来た彼女です。それなのに、エリヤには水を持って来いとか、パンもくれと言われている始末です。まさに泣きっ面に蜂状態です。すると、エリヤは「そんなの知らずにごめんなさいと引っ込めずに、「恐れてはいけません・・・まず私のためにパン菓子を作り、それからあなたと子どものために作りなさい」と毅然と告げます。
注目すべきは「まず=最初に」という強調です。私たちは「まず自分」「まず家族・子ども・身内」それから親族、友人、知人、ご近所、赤の他人と順番を付けます。それでいくと、ここは真っ向から食い違います。ここでは、まずエリヤ、その次に自分のところという順番です。人間の考え、常識では思いつかないし、やりたくないことです。誰もわが子より先に、今、出会ったばかりの人を優先することは考えません。続く14節に「主が、こう言われるからです」というのが、エリヤがこのように言った理由です。人間の常識に従っていたら、「まず」自分の利害関係を考えます。自分の身を守ることなのか、益となるのか、あるいは危険なことなのか、損害を受けることなのか。こんなとき、主のことは頭に浮かびません。しかし、みことばと向かい合うならば「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)が迫ってきます。どれだけ苦しくてもまず神にささげる。どれだけ忙しくてもまず神と過ごす。どれだけ大変でもまず神に従う。
私たち家族は福岡めぐみ教会に来て、この春で3年になります。皆さん一人ひとりの状況を少しずつ知るようになりました。そのことはとても良いことですが、事情を知っていくと言いにくいことも出てきます。多忙な中笑顔で接する方、試練の中ささげておられる方、朝方まで仕事をして礼拝しておられる方、家の中も教会のことだらけで過ごしておられる方、担っている奉仕は重荷だけれども八つ当たりしないで仕える方、皆のいる場所に行きたくない気分を乗り越えてご一緒している方などなど。私たちは、それぞれの事情や状況を知ると、言いにくくなる、頼みにくくなる、どうやって声をかけらよいのか分からなくなることもあります。それでも「まず、主のことば」を語り合いたいと願います。
エリヤは、このやもめがそんな大変な状況で、切羽詰まっているとは知らなかったので「水をください」と言えたのかもしれません。しかし、彼女が今夜息子と死のうとしていることを聞いたにもかかわらず、「まず私のためにパンを作り、それから・・・」と告げています。これはエリヤが自己中心で、自分がパンを食べたかったからではなく、まず主にささげることを教え導いているからです。相手がまことの神を知らない異邦人であっても、まず主を求めることが、自分のいのちにもまさるのだと宣言しました。初めに神を置く者は、神がすべてのことをともに働かせて益としてくださいます。それを味わいましょう。
3. 最も大きな祝福
道端で初めて会った人から、最後の食事であろうがまず主にささげなさいと言われたこの女性。いったいどうしたでしょうか。15節には「彼女は行ってエリヤのことばのとおりにした」とあります。エリヤはまず自分のところにパンを焼いて持って来るなら、主が粉も油も尽きることはないと約束も告げていました。それを受けて、彼女はエリヤのことばのとおりにしたのです。そして、彼女と息子、そして親族も飢饉の間ずっとそれを食べることができました。16節には「エリヤを通して言われた主のことばのとおり」と、それがはっきり主のことばの実現であると記録されています。彼女が主のことばの通りに従った結果、大きな祝福がその家族にも及んだのです。たとえ周囲は日照りと飢饉で苦しむ中にあっても、彼女たちは守られました。それは「まず」彼女が主にパンをささげたからです。
実は、この個所の出来事を主イエスも語っておられます。
ルカ4:25-26を開くと、ちゃんとここと同じツロのツァレファテにやもめがいたと主イエスが言われています。聖書は本当に真実なのだとわかってしくなりますね。そして、主イエスはこのやもめのことをどのように言及されているでしょうか。エリヤに捕まってしまったかわいそうな女性と言っているでしょうか。ギリギリの生活だったけど神に懸けて運が良かった人と言っているでしょうか。
主イエスはこの出来事について、エリヤはその地方にいる他のやもめたちには遣わされなかったが、ツァレファテの一人のやもめの女だけに遣わされた、と説き明かしています。つまり、エリヤと出会ったこのやもめは誰よりも幸いだったと言っているのです。他にたくさんいるやもめには、遣わされなかったのに、彼女には主のことばが伝えられました。これを主イエスは特別は祝福として新約時代の人々にも語っておられます。
なぜでしょうか?このやもめは、エリヤに会ったばかりに薪拾いをやめて水を取りに行き、息子との最後の食事を先にエリヤへ渡すように迫られました。一見、貧乏くじに見える役回りを、主は祝福だと言われます。それは、このやもめが人生に主を迎えるようになったからです。やもめは人間のわざではなく、主のみわざを味わうようになったからです。
そのために彼女がしたのは、主のことばとおりの行動です。主は、彼女に意地悪をしたくて、まず主にささげよと言ったのではありません。彼女が自分と息子との命のことしか考えていなかったので、そこに主のことばを送られたのです。皆さん、勘違いしないでください。神さまは、ご自分のことを優先して、やもめを大事に思っていないということではありません。むしろ、やもめとその息子を救いたいと願っておられます。
そうだからこそ、ここで息子の死と残された時間しか考えられなくなっていた彼女の人生に介入し、いのちに至る主のことばを与えてくださいました。主のことばを聞かせ、それに従えば自分で考えていた以上の祝福も味わわせてくださいました。だから、このやもめは他の誰よりも幸いだ、祝福だと主イエスも言われたのです。
私たちは「あなたのしたいことは何?それをしたらいいよ」と言われることを喜びます。ただ、そこで喜んでいるのは私たちの肉(欲)の心です。誰もが、自分や自分の家族、関りある方を大切にしたいからです。それとは反対に、聖書は「主があなたにしてほしいと望んでおられることは何か」と問いかけます。これは、私たちの肉の心をしぼませます。私たちの自然な感情と真っ向から対立するので、苦しくなります。ここでのやもめと同じです。なぜ、まず自分のことではなく、主のことばに従わないといけないのか。そんなドキッとすることを言われなきゃいけないのか。そうして迷ったり、悲しくなったり、つまずいたりします。自分を優先することは普通じゃないのか。
けれども、そこに主は今朝も訪れ、私たちに主のことばを語ってくださいます。自分で生活を守ることに精一杯で、主に従って与えられる祝福を損なっていないでしょうか。自分で自分と子どもの命を守るのに必死な人生から救い出されたやもめのように、私たちも、自分のすべてをあずけるのにもっともふさわしいお方、主を、日ごとに求めていきましょう。
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